サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第2章 聖書観
聖書と一言で言っても、いろいろな理解があります。プロテスタント諸教会においても、様々な聖書観があります。私はファンダメンタル(根本主義)な聖書観ですから、「一言一句間違いのない神の言葉である」(逐語霊感)という立場です。私にとって、この聖書観は決して譲ることはできません。
(聖書はすべて神の言葉)
私のような立場でない人々にとっては、決して100パ-セント神の言葉と認めていません。現代のローマ・カトリック教会の指導者たちの聖書に関する文書を読むと次のように言っています。彼らは、「プロテスタントでもカトリックでも、もっとも大切にされる本は聖書ですが、それはこの本の中に神の言葉があるとキリスト信者が信じているからです」と言っています。また、プロテスタントのある多くの教会の牧師たちは、「聖書の中に神の言葉があることを感謝します」と言うのです。
この2つの言葉を基準に考えると、ローマ・カトリック教会もプロテスタント諸教会も聖書に対する態度が同じであると誤解されてしまいます。このような聖書に対する態度と理解は、批評的な人々と言わざるを得ません。聖書に対する態度と理解については、ローマ・カトリック教会的なプロテスタント諸教会が存在するということです。また私のように、「一言一句間違いのない神の言葉」と信じる教会も多く存在するのです。このように聖書観の問題は、非常に繊細な問題なのです。この点を踏まえて進めていきましょう。
1.聖書の著者問題
聖書は、「神の霊感による」と言われます。この霊感とは、どのような意味でしょうか。霊感は、啓示論の問題です。元々聖書が霊感という場合、第一に文書そのものを意味するのではなく、著者の性質を指しています。第二に聖書そのものを指しています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(第二テモテ3章16節)を根拠に置きます。
この「神の霊感」というのは、ギリシャ語で「セオプネウストス」です。この言葉は、「セオス」(神)と「プネオー」(息吹く、呼吸する、吹き込む)の合成語です。そして、「プネオー」の名詞が「プニューマ」(霊、風、息)です。英語ではこれを、「インスプレーション」と言っています。ですから、RSV(アメリカ改訂標準訳)は、「すべての聖書は神により霊感されている」と訳します。
以上のことから3つのことが言えます。
①ギリシャ語形容詞である「セオプネウストス」(直訳は「神の息吹による」)は複合語であり、神御自身が著者であることを認めているところから始まっています。したがって、霊感は神的なことなのです。
②聖書が記述された時に働いた(用いられた)人々については言及されていません。
③あくまで、聖書の記述は「神によって霊感されたもの」であるという主張です。
このように聖書は神の霊感によって記述されたものです。そして聖書は神の内から息吹のように溢れ出たもので、一切の誤謬から守られたものなのです。そして一言一句間違いのない神の言葉として聖書の著者たちは記述することが、できたのです。キュンクという神学者は、聖書の著者たちは編集段階から一切の誤謬から守られたのが霊感の働きであると言っています。
ところが批評的な聖書観に立つ人々は、次のように言います。
①聖書は人の手によって編集されたものですべて写本です。ちょうど私たちが人の文章を写すと必ず間違いがあるように、聖書も間違いがあります。
②聖書の中には、霊感を受けたところと受けていないところがあります。
③聖書には教訓、教え、道徳等が書いています。これらを除くとほとんど聖書は意味が無いか、何も残らない。
このような人々は、理性を神としているのであって、全知全能の神を信じているということができません。まして霊感を受けているところと受けていないところがあるというのもおかしな話です。誰が霊感を受けている、受けていないを決定するのでしょうか。基準がバラバラで信用できません。「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)という神を信じているのでしょうか。このようにプロテスタント諸教会にも大きな2つの立場が現在存在します。
ローマ・カトリック教会においてはどうでしょうか。カトリック要理の第10課:「聖書と聖伝」の項において次のようになっています。
問い:聖書とは、どのようなものですか?
答え:聖書とは、聖霊の霊感によって神のことばを書き記した書物です。
また、啓示憲章の11項には、「霊感は聖書の著作者における聖霊の特別な働きであって、それによって彼らは各々の固有の能力と素質を使用しながら、神が望むことをすべて、そしてそれだけを書くようになりました」と説明しています。この説明は、特に問題が無いように感じます。ところが、「間違いの無い」という一文が無いのです。しかしこの章の最初で述べたように、ローマ・カトリック教会は「聖書は一言一句間違いのない神の言葉である」という立場をとらない人々が少なくありません。またローマ・カトリック教会の中には「一言一句間違いのない神のことば」と信じる人も現に存在します。つまりローマ・カトリック教会内部のおいても実際のところ統一された聖書観が無いことを示しています。そこで霊感の程度の問題に触れなければなりません。
2.霊感の範囲・程度・内容についての問題
(1)プロテスタント諸教会の場合
この問題も非常に繊細な問題です。聖書がどの程度、霊感されているかということは何を意味するのでしょうか。このように考えてください。私が小学生の頃、学校の理科(現在は何という科目になっているか分かりませんが)の実験の一つにこのようなものがありました。花瓶に一輪の白い花を入れます。そしてこの花瓶の中に赤い色のインクを入れるのです。次の日、この白い花がどれぐらい赤く染まっているかを見るためです。実験結果はピンク色でした。2日あるいは3日経過すると赤くなりました。このように聖書はどの範囲、程度、内容で霊感されているかが大切な問題になります。歴史的にはいくつかの理解があります。
まず、範囲から説明していきます。霊感の範囲として、十全霊感説があります。この理解は、聖書の著者たちは神の霊感を受け、一切の誤謬から守られ、一言一句間違いのない神の言葉を記述した、ということです。これに対して聖書は霊感された場所とされていない場所があるとします。そして聖書は、「神の言葉を含む」とします。この理解と立場を、「部分霊感説」と言います。この理解は問題があります。聖書のことばに対して霊感をされたことばか否かを判断する基準が人によってバラバラということです。この状態では聖書の権威は軽んじられ、人間の理性に権威があることになります。おもしろいことに英語の聖書の中には霊感を受けた場所とされるところが赤で印刷されています。そうでない場所は、黒で印刷されているものがあります。
次に霊感の程度の問題です。まず、逐語霊感説があります。これは、聖書は一言一句に至るまで正確に聖書著者たちを用いて記述させたものという理解です。この理解に対して思想霊感説を主著する人々がおります。これは霊感が及んだ程度は聖書著者の思想だけであって、聖書の言葉については聖書の著者が選んだのであって、間違いを含んでいる可能性があると主張します。たしかに聖書は思想も教えています。しかし言語が正しく霊感されていなければ、正しい思想は生まれてきません。ですからこの部分霊感説は問題があります。
もう一つ大切なことは、霊感の内容の問題です。聖書の内容については、「動力霊感説」あるいは「有機霊感説」と言われる立場があります。これは、聖霊は聖書の著者たちに働いてパーソナル・コンピューターかワープロのように、機械的にまるでロボットのように書かせたものではない。むしろ著者の個性を用いて自由に間違いのない神の言葉として、個性豊かにダイナミックに書かせたということです。この立場に対して、「機械霊感説」があります。これは聖書著者たちの人格、個性に関係なくパーソナル・コンピューターかワープロのように機械的に記録したというのです。この主張にも問題があります。聖書の各書簡には、それぞれの個性的な神学と主張があります。この問題をどのように説明するのでしょうか。
ただし、ここで理解しておかなければならないことがあります。霊感は原著者によって記された「原典」に関することであって、写本や訳本に関することではないのかどうかということです。
霊感問題について、「聖書の無誤に関するシカゴ声明」(1979年3月1日 聖書の無誤に関する国際協議会承認済)は次のように説明されています。
「霊感は聖書の著者たちが語り、また書くように動かされたすべての事柄について、真の信頼できることばを用いることを保証したことを、ただし全知がゆるされたものではないことを私たちは主張する。これらの筆者が有限であり、罪の性質をもつことにより、必然的にせよ、そうでないにせよ、神のことばに歪曲あるいは虚偽が持ち込まれることを私たちは否定する。霊感は厳密に言えば、聖書の原本にのみ適応されること、その聖書本文は神の摂理によって私たちの手に入れうる諸写本から、高度の正確さをもって確認できることを私たちは確認する。私たちは、さらに聖書の写しや翻訳が、最初の本文を忠実に実現する範囲において、神のことばであることを主張する」と述べられています。
また、「その全体が、またそのことばが神より与えられたものである聖書は、その教えるすべてにおいて、誤りや間違いがない。そのことは創造の出来事や世界の歴史に働かれる神のみわざについても、神の指導下で聖書が文書として成立した起源についても、個々人の生活の中で、神が救いの恵みを与えられることについてのあかしについてと同等に言えることである」とも述べています。
この声明文から、原典、写本、訳本の関係について理解していただけたでしょうか。
┌───┬─────┬─────┐
│ │ 正 │ 誤 │
├───┼─────┼─────┤
│範 囲│十全霊感 │部分霊感 │
├───┼─────┼─────┤
│程 度│逐語霊感 │思想霊感 │
├───┼─────┼─────┤
│内 容│動力霊感 │機械霊感 │
└───┴─────┴─────┘
このように一言でプロテスタント教会と言っても、教会においても聖書観が違います。私の聖書観は、霊感の範囲は「十全霊感」であり、程度においては「逐語霊感」であり、内容においては「動力霊感」の立場です。誰が、どの聖書観に立つかは自分自身で決定するしかありません。
(2)ローマ・カトリック教会の場合
前文においてカトリック要理の第十課:「聖書と聖伝」の項の問いと答えについて紹介しました。また、一緒に啓示憲章11項を紹介しました。私たちと同じように、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモテ3:16)を引用し根拠とします。また、ローマ・カトリック教会の公文書の中では、いつも繰り返して神ご自身が旧約聖書と新約聖書の本来の著者であると言っています。このような内容を知る限りにおいては、何ら問題が無いように思われます。
しかし様々な彼らの解説書や文書を読んでみると、その意味する内容が違うのです。どのように違うのか。医師であり司祭であった、今は亡き戸塚神父によれば霊感とは、聖書記者たちは神より超自然的霊感を受け記述し始めた。
そして神の支持によって記述し続けた。記述している間、彼らの知識は神に照らされて、神の命じるままに神の命じる事柄だけをことごとく、また1つももらすことなく書き記した事実をさす、と説明しています。また聖書の真の著者は聖霊であって、聖書記者は見えざる神の手のペンに過ぎないとしています。この理解は、機械霊感説にあたります。
かと思えば、ローマ・カトリック教会の神学者であるカール・ラーナーは次のように言います。彼は、「カトリック教会において、神が新約および旧約聖書の著者であることを否定することはできないであろう」と言います。しかし、彼は続けて言います。だからと言って、神が聖書の文字通りの著者である考える必要はない、と。また聖書は真に恵みと信仰の光との統一のうちに、神の言葉と呼ばれうるものである、というのです。驚くことに決定的なことをも言います。それは、「神についての言葉は、たとえそれが神から原因されたものであろうと、すぐそのまま神が御自身を表明される神の言葉であるはずがない。神の言葉が神の自己表明の客体化として、神から働きかけられ、生起するものでなければならない。そして恵みによって担われ、われわれがこれを聞くにあたっては、神の霊によって担われて力強くわれわれに出会うものでなければならない」と言います。
(カール・ラーナー)
上記の内容をまとめて見ると以下のようになります。
①聖書の著者は神御自身であると認めていながら否定しています。自己矛盾が起きているということです。
②聖書そのものを神の言葉として認めていません。なぜなら聖書の統一性が認められる限りにおいて神の言葉と呼ばれ得るとするからです。本来、聖書そのものが神の言葉です。
③個々の人が聖書の言葉との出会いを経験する時に、本人にとって神の言葉となる、というのです。この理解はカ-ル・バルトの理解に近いものがあります。聖書の言葉と出会うか否かによって決定するような主観的なもの、経験的なものであるはずがありません。私たちがする、御言葉経験(キリスト経験)は、聖書の追体験です。
少なくともこの3つのことは言えるのではないでしょうか。また個人的にローマ・カトリック教会のミサに出席した時のことです。司祭が創世記の天地創造やアダムの創造、そしてエデンの園について短く説教が始まりました。
その内容は神話として語り、思想だけを伝えているということでした(このようなことはプロテスタント諸教会においても同じような内容で語り、教えているところが少ありませんが・・・)。つまり思想霊感説ということです。現在のローマ法皇は、驚くことに進化論を承認しました。現代社会において、進化論は終焉を迎え、進化論信奉者は進化論信者と言われる時代であるにもかかわらずです。
(カトリック教会のミサの様子)
私はローマ・カトリック教会の霊感の範囲について、明確な文書を読んだことがありません。しかし教会の教えを通してのみ、知り得ることであるとしています。このようにローマ・カトリック教会は、聖書の霊感を認めているように見えて、その理解は十人十色ということなのです。
3.外典問題
ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会の明確な違いは、外典問題です。この外典を「アポクリファ」と呼んでいます。この言葉はギリシャ語の「アポクリフォス」から来ているもので、それは、「かくされた」という意味なのです。しかもこの言葉の歴史的用法としては、ローマ・カトリック教会にもプロテスタント教会にも関係無いものです。どのように使用されていたかと言えば、哲学や諸宗教団体が持っている特有の教えや禁句が書いてある文書のことを指していたのです。なぜそれをローマ・カトリック教会がこの言葉を採用したのか。それはこのような文書は、たいてい偽物であるが、著者に昔の聖人や賢者や予言者たちの名が冠せられていたからなのです。歴史的に最初に使用したのが、教父時代のオリゲネス(185-254)であると言われています。彼はこれを採用する時、ユダヤ人の用法から借用して使用しました。ローマ・カトリック教会は、この外典を認めます。しかしプロテスタント諸教会は認めません。
この問題は、「聖書の正典をどのように位置づけるか」ということに関することです。そもそも正典というのは一般的に「古典」に相対して用いられる用語です。さらに聖書を正典と呼ぶ場合には、正典以外の「外典」や「偽典」と区別して用いている言葉です。そしてこの正典を、「カノン」(canon)と言います。この言葉はへブル語の「カーネー」からきています。この言葉が名詞形で「葦」という意味で理解されるようになったのです。この意味がやがて、「規定」または「はかりざお」となり、時代と共に「規範」「基準」となったのです(新約聖書においては、カノンという言葉は、Ⅱコリント10:13、15、15-16において3回、ガラテヤ6:16に1回)。こうして聖書を、「正典」と言い信仰生活の基準となったのです。時々、正典と表現せずに教典とする人々がおりますが大きな間違いです。
また、この正典という言葉は文献という言葉に相対して用いられています。なぜなら旧約聖書はイスラエル宗教の文献であり、新約聖書は原始キリスト教会の文献と理解するからです。ある人々は聖書を文献として受け取りました。したがって誰が聖書をいかなる理由によって正典としたのかが大切な問題となります。
そもそも外典というのは、正典に対して用いられた言葉です。それは、正典は権威ある神の言葉である聖書を指すのに対して、外典は聖書以外の宗教文書としているものです。外典は聖書と同じある背景の時代の内容を持っており、聖書と類似ところから外典を言うようになったのです。しかし外典は何ら権威の無い文書です。価値があるとすれば一、二の書であり、他は全く価値はありません。さて外典には、どのくらいのものがあるのでしょうか。紹介しましょう。
a.旧約外典(大体50冊)
①知恵文学(2冊)
ソロモンの知恵
ベン・シラーの知恵書
②歴史文学(3冊)
エスドラ第一書
マカビー第一書
マカビー第二書
③宗教小説(2冊)
トビト書
ユデト書
④黙視文学(3冊)
バルク書
エレミヤ書
エスドラ第二書
⑤伝説的文書(5冊)
マナセの祈り
エステル記の追加
三童子の歌
スザンナ物語
ベン神と竜神
b.新約外典(学者によって内容区分が違う)
①福音書に似せたもの(9冊)
ヘブル人による福音書
エピオン派の福音書
エジプト人への福音書
ペテロによる福音書
ヤコブの原福音書
トマスによる福音書
ニコデモの福音書
ピラトの行伝
イエスの黄泉行の記
②使徒行伝に似せたもの(5冊)
パウロの行伝
ペテロの行伝
ヨハネの行伝
トマスの行伝
アンデレの行伝
③手紙及びそれに関するもの(5冊)
使徒の教え
クレメンスの教え
バルナバの教え
アブガルスの手紙
パウロのラオデキヤの手紙
④黙示録に似せたもの(2冊)
ペテロの黙示録
ヘルマスの牧者
4.プロテスタントの正典と外典に対する理解
プロテスタント教会にとって正典の問題は、歴史的に決着がついています。この解答には2つの側面があります。岡村民子師によれば「下からの答え」と「上からの答え」があるとします。前者は「歴史的解明」であり、後者は「神学的解明」です。この2つの側面を要約し説明します。
a.下からの答え(歴史的解明)
この内容は、歴史的に聖書がどのように結集し正典となったかということです。だいたい4世紀のキリスト教会(この時は、まだプロテスタントは誕生していない)が多くのキリスト教古典の中から、特定の数書のみを選び出して正典としていました。具体的には、旧約聖書39巻はAD90年「ヤムニヤ会議」において決定しました。また新約聖書27巻はAD397年「第三次カルターゴ会議」において決定しました。いずれもカトリック教会の教会会議において正典として承認したのです。ですから歴史的には、聖書正典の結集者は教会ということです。まさに教会なくして聖書正典が無かったわけです。ここで大切なことは、私たちが「聖書を信じる」ということは「聖書を正典とした歴史的教会の信仰にあずかる」ということなのです。
よく私たちは聖書信仰という言葉を聞きます。また、言います。この場合イエス・キリストと私の関係ということが強調されます。そのためでしょうか、「私とイエス・キリストの関係がしっかりしていれば聖書的である」と主張する人々がおります。これは本来の個人主義ではなく、利己主義ということです。このような人々は、教会を無視したり軽視したりします。本来、個人主義というのは、マルチン・ルターが宗教改革において「信仰義認」を強調したところからきました。それはイエス・キリストと私の関係にのみにおいて個人主義であるということなのです。そしてキリスト者の生き方は、教会的でなければならないのです。その理由の一つとして、聖書の正典結集は教会が信仰によって決定したことだからです。聖書信仰とは、聖書正典の歴史的な側面から定義しますと、「聖書を正典とした歴史的教会の信仰にあずかる」ということなのです。
b.上からの答え(神学的解明)
教会はキリストの体です。そしてキリストは教会の頭です。ですから一般的に理解されるような共同体とは本質的に違います。だからこそ聖書正典の結集の問題について、歴史的側面だけではなく神学的にも知らなければなりません。岡村民子師は、教会は歴史の上で聖書正典の結集という問題を偶然の出来事としてはならないと指摘します。それは歴史に介入し歴史を導く神が、教会会議の中にも介入し、聖書正典を結集させたものであるというのです。
聖書を見ると、「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています」(詩編119:89)とあります。ですから天においてすでに決定していた神の言葉である聖書が、地上の教会会議において追決定したのであるというのです。まさに神は会議をも導いて、聖書正典を結集させた張本人ということなのです。ここで忘れてはならないことは、聖書は私(たち)に与えられたもであるという理解は2次的なものであるということです。第1次的なものは、教会に与えられということなのです。そして教会を通して神のことばは私たちに与えられるのです。教会を通してというのは、説教のことばを通してということです。神学的な理解においても、教会を無視したり軽視したりするところには、聖書的な信仰が成立しないことが分かると思います。
5.外典が正典から除外された理由
外典について積極的な評価を与えるとしたら次のようになります。歴史的には、旧約聖書と新約聖書の間のことを中間時代と言います。この中間時代における、それぞれの様子(宗教・政治・歴史)を知る手掛かりとしての資料となります。ただし、外典は霊感を受けていませんので正典から除外します。
(1)旧約聖書の場合
旧約聖書外典が正典から除外される理由には、歴史的側面と内容的側面の2面性があります。それぞれ簡単に述べてみましょう。
【歴史的側面】
旧約聖書の正典には、2種類の正典が存在していたのではないか、とする人々がおります。その2種類というのは、第1にヘブル語のパレスチナ正典で小正典とも呼ばれるものです。第2はギリシャ語のアレクサンドリヤ正典で大正典と呼ばれるものです。実際この2つは存在していたのでしょうか。この2つのうち、ギリシャ語のアレクサンドリヤ正典(大正典)は存在していません。その理由は以下のとおりです。
a.ギリシャ語のアレクサンドリヤ正典(大正典)写本が全然無い。
アレクサンドリヤのギリシャ語訳(70人訳)は、紀元前270年-170年あるいは250-150年頃のものと言われます。この写本については、尾山令仁師は、「全然無いということである」と指摘しています。現在私たちが用いている70人訳(LXX)の最も古い聖書の写本は紀元四世紀ものです。したがって、アレクサンドリヤのギリシャ語訳(70人訳)と言われる写本と私たちが用いている70人訳(LXX)の写本の間には、600年という隔たりがあります。この600年の間に、外典が旧約聖書の中に入ってきてしまったのです。ローマ・カトリック教会は、自分たちの教義等を正統化するためアレクサンドリヤのギリシャ語訳(70人訳)を作ったということなのです。
b.ユダヤ教の特徴は、2つの正典を支持しないということです。
アレクサンドリヤにいたユダヤ人たちが、正典に修正を加えるということは考えられないことです。彼らは自分たちの正統性を固守する民族からです。ですから非常に頑固なのです。
c.ユダヤ人たちは、2つの正典の存在に対して反対しています。(最古の外典目録より)
最古の外典の写本は、現在の外典の写本と同一ではありません。しかも現在のローマ・カトリック教会が承認している外典を含む聖書(正典)とまったく同じものは存在しません。
①バチカン写本(紀元350年)
この写本には、マカビー書は含んでいません。にも関わらず、ローマ・カトリック教会では正典として承認しています。この写本に含まれているエスドラ第一書をローマ・カトリック教会は正典とは認めません。
②シナイ写本(紀元350年)
この写本にはバルク書は含んでいません。しかしローマ・カトリック教会は正典と承認しています。また、正典と認めていないマカビー第四書(偽典)がこの写本の中に含んでいます。
③アレクサンドリヤ写本(紀元450年)
この中には、現在のローマ・カトリック教会が正典と承認されていないエスドラ第一書とマカビー第三書を含んでいます。
このようにそれぞれの写本に書いているものと書いていないものがあります。また、書いているものいないものをローマ・カトリック教会は正典として外典の一部であるかのように承認しているわけです。じつに行き当たりばったりであり、いい加減な根拠のないものであると言わざるを得ません。ましてや、新約聖書の著者たちは、外典が霊感されたものであるなどと一言も述べていません。そして歴史的に、東方教会、西方教会、およびプロテスタント諸教会は、この2つの正典説を支持していないばかりか、退けています。
尾山令仁師は、「ローマ・カトリック教会が、外典の一部をヘブル語の聖書正典に付け加えたのはいつかというと、1546年のトリエント公会議の時であった。それは当時すでに聖書より大分逸脱していたローマ・カトリック教会の教義の裏付けの必要に迫られたからであった。そのためローマ・カトリック教会は、この会議で真理を否定し、歴史を無視して、いわゆるアレクサンドリヤ正典、つまり大正典なるものを独断的に正典と宣言しました。彼らはさらに1869-70年のバチカン公会議で、あたかも罪の上塗りをするかのように、トリエント公会議の決定を確認し、今日に至っている。彼らには、もうそれを取り消す方法が全然ないのである。」と、この問題についてまとめています。
【内的側面】
内的理由は以下のとおりです。
a.歴史的・地理的に不正確な内容
最たる外典は、トビト書とユデト書です。
b.教理的に間違いが多い。
マカビー第二書
14章41節-46節 自殺の容認及び是認
12章41節-45節 死人に対する祈りと献物の容認
ベン・シラーの知恵の書
3章30節 施しが罪を贖う
33章26,28節 奴隷に対する残虐行為の是認
ソロモンの知恵の書
8章19節-20節 人間の霊魂の先前を教えている
9章 5節 人間の肉体は神に至るべき障害
ユデト書
9章10,13節 迷信を奨励し虚偽を承認する
トビト書 悪霊アスモデオスについて述べている迷信的小説
c.外典は真理からかけ離れたもの
ベル神話と竜神、スサンナ物語、エステル記の追加などに見られるように宗教小説です。
このように外典は、その内容においても正典として承認できるようなものなどありません。むしろ異教的でさえあります。
(2)新約聖書の場合
旧約外典の場合のように、歴史的側面と内的側面の2つから述べることにします。
【歴史的側面】
使徒の権威というしるしを持っていない、ということが言えます。聖書の正典性の歴史的な理由の一つは、聖書の著者が使徒かあるいはその関係者であることが挙げられます。しかし外典については、この基準を満たしていません。あえて使徒たちと同時代に生きた人をあげるとクレメンスです。この人の書いたクレメンスの手紙が挙げられるだけです。特にクレメンスが生きていた時代には、ヨハネだけが生きていました。では、この2人に交わりがあったのかといえばありませんでした。クレメンスはローマで、ヨハネは小アジアです。2人にとって、それぞれの存在は知っていたかもしれません。しかし交わりはありせんでした。したがって、このクレメンスの手紙は使徒の権威はありません。あくまでも手紙であって、正典ではありません。
【内的側面】
新約外典についても読んで見ると明らかですが、空想的、意図的です。しかも異端的な思想までもが混入されています。執筆年代としては、使徒たちが死亡した後に書かれたもので偽作です。当然ながら霊的性質を備えていないのです。
外典の問題は、写本の問題があり複雑なのです。しかし外典はすでに歴史的にも内容的にも決着がついているのです。誰が決着させたか。それはカトリック教会が教会会議において決着をつけ、ローマ・カトリック教会がそれをひっくり返してしまったのです。
6.ローマ・カトリック教会における正典と外典に対する理解
ローマ・カトリック教会における正典(聖書)に対する理解については上記で述べましたので、ここでは外典を中心に述べます。しかしローマ・カトリック教会の権威の問題となると、「ローマ法皇」との関係を避けて通るわけにはいきません。しかしこの問題は、後で述べることにします。
ローマ・カトリック教会において聖書つまり正典という場合、何を意味するのか。それはプロテスタント諸教会が用いている66巻の聖書と外典を含めたものを聖書と称しています。つまり外典を霊感を受けたものと承認しているわけです。啓示憲章の15に次のように説明されています。
「そして旧約聖書は、キリストによって実現される救いの前の時代の人類の状態に従って、神と人間とに関する知識と人間に対する正義と慈悲の神の態度とすべての人に示すものである。これらの書は、不完全かつ一時的なことを含んでいるが、それでも神の真の教育法を実際に示している。したがって、それらの書は、神に対する生き生きとした感情を表わし、神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、われわれの救いの秘義を秘めているから、キリスト信者から敬虔をもって受け入れられなければならない」
カトリック要理には、外典(旧約)について次のように説明されています。
「旧約の後期に書かれたある本(トビト、ユデト、マカバイ、知恵、等の書)が、厳密な意味で正典に属するか否かが問題になったことがありましたが、カトリック教会は、これらを正典に属するものと見なしています」
これらの中から、聖書正典と外典に関する重要な言葉を抜き書きしてみますと次のようになります。
①聖書は神の霊感によって書かれた。
②これらの書は、不完全かつ一時的なことを含んでいる。
③われわれの救いの秘義を秘めているから、キリスト信者から受け入れられなければならない。
④正典に属するものと見なしている。
⑤聖書の真の著者は聖霊であって、聖書記者は見えざる神の手のペンに過ぎない。
⑥神が聖書の文字通りの著者であると考える必要はない。
⑦聖書は真に恵みと信仰の光との統一のうちに、神の言葉と呼ばれ得るものである。
⑧神についての言葉は、たとえそれが神から原因されたものであろうと、すぐそのまま、神が御自身を表明される神の言葉であるはずがない。
⑨われわれの救いの秘義を秘めているからキリスト信者から敬虔をもって受け入れられなければならない。
⑩これらを正典に属するものと見なしている。
ローマ・カトリック教会は、聖書は神の霊感によって記述されたと言いながら、その内容については神の霊感を否定しています。なぜなら、「聖書の真の著者は聖霊である」と言いながら、「神が聖書の文字通りの著者である考える必要はない」「不完全である」と矛盾することを言います。驚くことに、「神についての言葉は・・・神の言葉であるはずがない」とも言うのです。さらに、「われわれの救いの秘義を秘めているから、キリスト信者から敬虔をもって受け入れられなければならない」とも言っています。
聖書は神のことばである以上、人々が受け入れようが拒否しようが、神のことばは神のことばです。この辺の理解は、プロテスタント諸教会にある思想霊感説、部分霊感説、機械霊感説に似た共通のものがあります。上智大学教授のホセ・ヨンパルト氏は、「プロテスタントでもカトリックでも、もっとも大切のされる本は聖書ですが、それはこの本の中に神の言葉があると信じているからです」と述べています。これは本来、逐語霊感説を否定しているローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会を意味しているのです。誤解してはならないのは、プロテスタント諸教会には逐語霊感説に立っているキリスト教会があるということです。ですからそれらと一緒にされては困ります。
(ホセ・ヨンパルト)
外典についても、「これらを正典に属するものと見なしています」と言っています。この「属しているものと見なす」という、何と微妙な表現ではないでしょうか。本来、外典は正典ではないが、見なさざるを得ない何かがあって、不本意であるが正典とした、という意味です。
これらの例はほんの一部です。このようにローマ・カトリック教会内部の自己矛盾にお気付きになったでしょうか。聖書観は大きい生命線であり信仰と教会の根幹に関わる問題です。それがこのような安易な扱いをしていいものなのか疑問です。
7.聖書(正典)と伝承問題
この問題は、特に権威や聖書解釈の問題に関わってくる重要な問題です。ローマ・カトリック教会は、聖書と同等の位置に伝承を位置づけています。この伝承のことを、彼らは「聖伝」と呼んでいます。ローマ・カトリック教会の主張によれば、プロテスタントは「聖書のみ」であって「伝承(聖伝)」を認めない。しかし私たちは聖書と伝承(聖伝)を認める、という点で違うと言います。これもまた、ローマ・カトリック教会の偏見であり誤解です。プロテスタントにおいても聖書と伝承を認めます。しかしどのような意味において伝承(聖伝)を取り扱うかが違うのです。この問について、はじめにローマ・カトリック教会の主張に目を留めながら比較してみましょう。
カトリック要理の48「聖伝」という項には、次のように説明されています。
聖伝とはどのようなものですか。
聖伝とは聖霊の御助けのもとに、言い伝えと種々の制度によって、使徒たちから教会のうちに伝えられた神の啓示です。ここで言われる聖伝(伝承)は、使徒たちがキリストから受けた教会に伝えたものですから、後に教会に起きた様々な伝統とは異なります。
聖伝は古代教会の信仰宣言、公会議、教導職の証言、古代教会の記録、教父たちの著者、古代からの典礼などによって示されています。
カトリック要理の49「聖伝と聖書との関係」という項には次のように説明されています。
聖伝は聖書とともに重んずるべきものですか。
聖伝は聖書と共に重んずべきものです。聖伝は聖書のできる前にあり、教会は聖伝に基づいて聖霊の導きのもとに、どの本が聖書の正典に属するかを決定しました。また、教導職は聖伝に照らし合わせて聖書を解釈します。そして、ある啓示された事柄について、教会は主に聖伝によって確信します。また、聖伝は聖書をキリスト者の生活のうちに豊かに実らせます。聖書の中にも聖伝を重んずるべきことが記されています。
「私たちがことばによって、あるいは手紙によって教えた伝えを守れ」(Ⅱテサロニケ2:15)
「あなたがたが多くの証人の前で、私たちから聞いたことを、さらに他の人にも教えることのできる忠実な人びとにまかせよ」(Ⅱテモテ2:2)
啓示憲章の9には次のように説明されています。
したがって聖伝と聖書は互いに堅く結ばれ、互いに共通するものである。なぜならば、どちらも同一の神的起源を持ち、ある程度一体をなし、同一の目的を指している。実際聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものとしての神のことばある。そして聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばをあますところなくその後継者に伝え、後継者たちが真理の霊の導きの下に、宣教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようになったのである。
したがって教会が啓示されたすべてのことについて自分の確信を得るのは、聖書によってだけではない。それゆえどちらも同じ敬虔と敬意をもって尊ぶべきものである。
以上のローマ・カトリック教会の公文書中から、重要と思われる言葉を検討してみましょう。
聖伝(伝承)とは、「使徒たちから教会のうちに伝えられた神の啓示」「使徒たちがキリストから受け教会に伝えたもの」とします。また、聖書解釈について、「聖伝に照らし合わせて聖書を解釈し」「教会はおもに聖伝によって確信します」と規定しています。
たしかに聖伝(伝承)は使徒たちがキリストから受け教会に伝えたものです。その結集が聖書です。ですからプロテスタント諸教会は、伝承の結集としての聖書を重んじるのです。ですから決して、聖書と伝承を区別してと取り扱ってはいないのです。彼らの指摘である、プロテスタントは聖伝(伝承)を重んじないというのは当たっていません。むしろローマ・カトリック教会は聖書と聖伝(伝承)を重んじると言いながら、この2つを区別し正典の2重構造を作り出しているわけです。しかも信仰の確信が聖書によってもたらされるのではなく、聖伝(伝承)によってもたらされるというのですからおかしな話です。
さて、「伝承の結集が聖書である」という場合、その内容が問われます。伝承であれば何でもいいのかと言えばそうではありません。まず、伝承の意味について述べてみます。伝承(聖伝)とは、伝統という言葉と同義語です。問題は、この伝承と伝統の相違点を明らかにしなければなりません。「広辞苑」によれば、伝承は「つたえつけつぐこと」「古くからあったしきたり」(制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの総体)を受け伝えていくこと。これに対して、伝統を「伝えられた事柄」を意味し「系統を受け伝えること。また、受け伝えた系統。(trad-ition)伝承に同じ。特にそのうちの精神的核心または脈絡」を意味するものとしています。
英語・フランス語では“tradition”と表現します。ドイツ語においては“Uberlief-erung”という言葉で表します。しかし、その意味としては、どちらも「伝統」「伝承」を含むのです。
熊野義孝は、この2つを区分して「伝承」を伝達する作用とし、「伝統」を伝達されるもの、と説明しています。聖書学の用法では、「伝承」を伝達する作用するもの、「伝統」を伝達されるもの、と簡単に規定することは困難なことです。むしろ感覚的に伝承は、「流動的」であり伝統は「固定的」です。
(熊野義孝牧師夫妻)
ここで注意すべきことは、伝承はそのまま正確には伝わりません。それは、1つの文章を瞬間的に暗記し、次の人に伝え、伝えられた人はまた、次の人に伝え、どれだけ正確に最後の人まで伝えたか、という伝言ゲ-ムがあります。初めに聞いたものを正確に伝えられた、という経験はないでしょう。むしろ、「どこでどのように変わってしまったのか」ということに驚きを感じるものです。
では、伝承の結集と言っても、どんな伝承が結集されたのかが問題です。それが、弟子たちがイエスから受け継いだものなのです。それは何かということです。イエスの伝承である、イエスの伝道活動報告、言葉や譬え話、格言、勧めなどを口伝によって保存していたのです。この口伝によって伝えていくという方法は、ユダヤの律法学者たちの仕方であったのです。教会もこれに倣って口伝で伝えたのです。口伝伝承は教会生活が複雑化するに従って、必要に応じて文字になっていきました。
福音書が扱っているのは、イエスの生涯です。このイエスの生涯を記述したのは原始教会です。原始教会で弟子たちが説教していた内容は、「旧約の成就者イエス」「イエスの十字架と復活」「悔い改め」の3つです。イエスご自身は何を説教していたのでしょうか。それは、「時が満ちた」(旧約の成就)、「神の国が近づいた」(神の国のメッセ-ジ)、「悔い改めて福音を信ぜよ」(悔い改めと信仰)です。整理してみましょう。
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│イエスのメッセ-ジ │ 弟子たちのメッセ-ジ │
├────────────────────┼────────────┤
│時が満ちた(旧約の成就) │ 旧約の成就者イエス │
│神の国が近づいた(神の国のメッセ-ジ) │ イエスの十字架と復活 │
│悔い改めて福音を信ぜよ(悔い改めと信仰)│ 悔い改め │
└────────────────────┴────────────┘
イエスは十字架と復活を語らなかったのです。しかし、弟子たちは十字架と復活を神の国の到来と受け取って説教をし、人々に悔い改めを迫ったのです。ですからイエス・キリストの十字架と復活が聖書の中心なのです。このメッセージを弟子たちは、イエスから受け取り記述したということです。つまり伝承の結集というのは、このメッセ-ジの結集が聖書ということなのです。
ルカの福音書の著者であるルカは、「私たちの間ですでに確信されている出来事で、御言葉に仕える者となった人々が私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと試みておりますので、私もすべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることをよくわかっていだだきたいと存じます」(ルカ1:1-4)。また、ペテロは「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それはうまく考え出した作り話に従ったのではありあません。この私たちは、「キリストの威光の目撃者なのです」と言います。また、「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」(Ⅱテサロニケ2:15)と言っています。
8.聖書解釈の問題
ここで聖書解釈について少々触れてみましょう。聖書解釈は、様々な聖書解釈の方法があります。しかしその基本は、聖書は聖書をもって解釈することが基本です。なぜなら新約聖書は旧約聖書の成就だからです。私たちプロテスタント諸教会が聖書を解釈する時、自由に個々の人が勝手に解釈しているように見えます。しかしそれは違います。聖書解釈は説教の中にあらわされますが、それぞれの教団や教派の伝統や使徒的伝承の上に解釈しています(意識的であろうが無意識的であろうが)。
時々、「伝統が教会を駄目にした」と主張する人々がおります。この理解には問題があります。彼らが主張するように、「伝統が教会を駄目にした」としますと、教会という名を借りた新興宗教を形成していることになり、初代教会との連続性を否定していることになるからです。そればかりか教会の牧師やリーダーは正真正銘の教祖となってしまいます。また時代と共にその教会は、自分たちの伝統作りの線上で聖書を解釈するようになってしまいます。
いずれにしても私たちは、「聖書のみ」と言いながら、実際は使徒的福音の伝統を重んじているのです。ローマ・カトリック教会がプロテスタント諸教会に対する批判は、「聖書解釈が私的であり伝統や伝承を無視している」という点があります。しかしこの批判は該当しません。
ローマ・カトリック教会は、伝統や伝承を聖書と同等の位置に置きます。それは聖書正典の他の伝承を正典として承認するからなのです。カトリック要理の49「聖伝と聖書との関係」という項に、「聖伝に照らし合わせて聖書を解釈し」「教会は主に聖伝によって確信します」と説明しているところからも、わかります。そして聖書解釈の権威の所在をロ一マ法王に置くわけです。決して聖書に置こうとしません。したがってロ一マ法王がある聖書箇所について、「この聖書の意味は~である」と言えばそうなってしまうのです。結局、聖書の権威よりもロ一マ法王の権威が上なのです。
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│ 伝 ├┬────────┤ 聖 │
│ 承 ││ │ 書 │
└─┬─┘│ └───┴───────┐
│ │ │
┌─┴─┐│ ┌───┐ ┌───┐ │
ロ│ 神 ││プ│ 神 │ プ│ 一 │ │
|│ の ││ロ│ の │ ロ│ 言 │ │
マ│ 言 ││テ│ 言 │ テ│ 一 │ 聖
カ│ 葉 ││ス│ 葉 │ ス│ 句 │
ト│ が ││タ│ が │ タ│ 間 │ 書
リ│ あ ││ン│ あ │ ン│ 違 │
ッ│ る ││ト│ る │ ト│ い │ 観
ク└─┬─┘│諸└─┬─┘ 諸│ の │ │
教 │ │教 │ 教│ な │ │
会 │ │会 │ 会│ い │ │
│ │ │ │ 神 │ │
│ │ │ │ の │ │
│ │ │ │ 言 │ │
│ │ │ │ 葉 │ │
│ │ │ └─┬─┘ │
│ │ │ ├───┘
┌─┴──┴───┴────────────┴─┐
│ 聖 書 は 神 の 霊 感 に よ る ├─共通理解
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│ 部 ││ │ 部 │ │ 十 │
│ 分 ││ │ 分 │ │ 全 │ 範
│ ・ ││ │ ・ │ │ ・ │ 囲
│ 思 ││ │ 思 │ │ 逐 │ ・
│ 想 ││ │ 想 │ │ 語 │ 程
│ ・ ││ │ ・ │ │ ・ │ 度
│ 機 ││ │ 機 │ │ 動 │ ・
│ 械 ││ │ 械 │ │ 力 │ 内
│ 霊 ││ │ 霊 │ │ 霊 │ 容
│ 感 ││ │ 感 │ │ 感 │
└─┬─┘│ └─┬─┘ └─┬─┘ │
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│外 典 の 承 認││ 外 典 の 否 定 ├─外典問題
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引用文献
1.キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論 カール・ラーナー著(百瀬文晃訳) P494 エンデルレ出版
2. 同 P494-495
3.旧約緒論 尾山令仁著 P77 聖書図書刊行会
4. 同 P79 同 上
5.カトリックとプロテスタント ホセ・ヨンパルト著 P55 中央出版社