サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

第4章 聖徒の交わり

 

 プロテスタント諸教会にとって、「聖徒の交わり」と言えば、教会の本質の1つであると信じています。また、この「聖徒の交わり」は、もともと使徒信条の言葉です。しかも、この「聖徒の交わり」を明確にしたのは宗教改革者たちであると言われます。「聖徒の交わり」はラテン語で“Sanctorum Communio”という言葉で表現しています。しかし、私たちと違ってローマ・カトリック教会は、別の意味で用いています。ローマ・カトリック教会は、この「聖徒の交わり」を「聖人たちの通功」と理解しています。使徒信条については、基本的にローマ・カトリック教会もプロテスタントも同じです。

 

 しかし、あくまで基本的に同じなのであって部分的には違います。使徒信条の構造は、3つに分類することができます。第1は「父なる神について」、第2は「子なるキリスト」、第3は「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」です。この中で特に、ローマ・カトリック教会は「聖徒の交わり」を「諸聖人の通功」と訳します。その上で、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、諸聖人の通功、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」となるのです。そして、諸聖人の通功と罪の赦しを結び付けて、これは一つであるとするのです。諸聖人というぐらいですから、複数の聖人の存在を意味しています。この諸聖人との交わりについて理解するために、聖人とは何なのかを考えなければなりません。

 

.聖人について

 

 ローマ・カトリック教会には、「聖人説」が存在します。じつはこの聖人説にマリヤ問題も含んできます。ですから聖人説に対する理解が必要であることは言うまでもありません。聖人とは、ローマ・カトリック教会において特別な信仰的な功績、功徳を積んだ偉大なクリスチャンのことです。この聖人と呼ばれる人々は、自分自身の功徳によって義とし、自分を救うに足る功績、功徳を積んだ人です。そればかりではなく、なお自分を救うための功績・功徳の余りがあるのです。つまり余力があるのです。なぜそうなのか?聖人は霊界にとって神の傑作であるからです。そして、聖徳としての神の賜物なる恩恵が、聖人たちの霊魂の中に結んだ美しい果実であると信じられているのです。聖書には、聖人を創造したという記述がないのにも関わらず、聖人の創造を言うわけです。

 

 歴史的には、当時の教会が激しい迫害下にあり、殉教した人々が少なくありませんでした。この殉教した人々を崇拝したいという気運が高まったのです。また、教会の中に入り込んでいた異教徒たちが、自分たちの習慣に従って殉教者を英雄扱いしました。その結果、殉教者を英雄扱いから聖人とし、半分人間、半分神というような理解が生じることになったのです。彼らはこの歴史的背景を無視しています。

 

 ローマ・カトリック教会の理解によれば、教会の中には2種類のクリスチャンが存在するとしています。その第1は、自分の功徳・功績によって自分を救うことのできる偉大なる聖人です。第2は、自分自身の信仰や功徳・功績で自分すら救うことのできない弱い、平凡なクリスチャンです。この偉大な聖人と弱い平凡なクリスチャンの交わりを「諸聖人の通功」というのです。その中で、もっとも大切な価値のある交わりが、聖母マリヤと理解し信じるわけです。

(「聖母マリヤ」 マリヤ崇拝は聖書的に問題)

 

 

このようにローマ・カトリック教会における交わりは、「功徳」「功績」「通功」が中心です。イエス・キリストが出てきません。カトリック要理を見てみましょう。

 

.50 諸聖徒の交わりとはどのようなものですか?

.諸聖人の交わりとは、キリストの神秘体に属するものが、すべて神の生命と愛によって結ばれており、互いに助け合うことです。そしてこれは、この世に生活する信者の間だけではなく、天国で楽しむ聖人にも、練獄に苦しむ霊魂にも及びます。

 

この世における信者の間に

この世に生活する信者は、ミサ聖祭、祈り、善業、犠牲、愛の働きと協力などによって互いに助け合います。

 

この世の信者と天国の聖人

この世における信者は、天国の聖人を崇敬し、聖人は、祈りと取り次ぎとをもってこの世の信者を助けます。また、天使も天国においてかしらであるキリストに属していますから信者を助けます。

 

この世の信者と練獄の霊魂

この世における信者は、ミサ聖祭、祈り、善業、免責などをもって練獄の霊魂を助けることができます。すなわちこれらによって、練獄の霊魂の果たすべき責がゆるされて、天国の栄光に入ることができるように神に願うのです。

 

 「死者のために、つなぐいけにえをささげさせた。それはかれらを罪から解き放つためである」(マカバイ記下12:46)

 

 教会は11月2日を死者の記念日として、すべての死者のために祈ります。私たちは同じように、すでに世を去った親族、恩人、友人のために、キリストにおいて一致しながら愛と感謝と援助の務めを果たすのです。同時に教会は初期の頃からキリストの母であり、すべてのキリスト者の母である聖母マリヤをはじめ、使徒と殉教者を崇敬し、その取り次ぎを祈り求めてきました。

 

 永遠の祖国に入った聖人たちは、地上で主イエズス・キリストを通して獲得した功績を示しながら私たちのためにキリストにおいて父なる神に取り次ぎ、兄弟的配慮をもって私たちの弱さを助けているのです。旅する教会は天国の聖人を崇敬し、聖人の模範に倣い、その取り次ぎを願い聖人に励まされて自分の終末的完成への認識を深め、希望を深めます。

 

 また、聖人との交わりは、私たちを主・キリストに一層密接に結び合わせます。なぜなら聖人と私たちが受けているすべての恩恵を生命は、唯一の仲介者であり、かしらである主・キリストから聖霊を通して流れ出るからです。

 

 したがって聖母と聖人への崇敬は、みな必然的にキリストに向けられ、キリストを通して父なる神に達します。そして旅する教会は、天上の教会と共に神を賛美しながらその終末的完成に進むのです。(教会憲章 49一51参照)

 

やさしい教理問答 第18課

 

.101 天国の聖徒は、どのようにして私たちを助けますか?

.天国の聖徒は、自分の手柄を私たちに分け、また私たちの祈りを神に取り次いで、私たちを助けます。

 

 このような説明の中で注意すべき内容があります。それは、「助ける」という表現です。ローマ・カトリック教会では、自力によって救いを得る人とそうでない人が存在します。彼らの中には自力で自分を救い、他人をも救うことのできる功徳・善業を積んだ聖人がいます。この人々との交わりが、一般信徒にとって重要な事柄になるわけです。この理解が背景にあって、聖人崇拝が生まれてきます。彼らは洗礼を受けるとクリスチャン・ネ-ムを必ず付けます。その理由としていくつか言われます。しかし一番大きな理由は、自分に救いを与える守護聖人の名前を付けるのです。ですから洗礼を受けたとき、聖人と呼ばれる人々の中からクリスチャン・ネ-ムを付けるのです。

 

 私の母は、ローマ・カトリック信者です。私が子どもの頃、ローマ・カトリックで幼児洗礼を授けたというのです。その時、私にクリスチャン・ネ-ムが付けられました。その名は、「聖パウロ」です。それはイエス・キリストとの関係においてだけでは救われないが、聖人の助けを受けて救われると理解しているからです。

 

 ローマ・カトリック教会の月刊誌「あけぼの」の中に、百瀬神父のキリスト教入門講座があります。これは読者の質問に答える問答形式になっています。その中に次のような質問がされています。

 

Q.カトリック教会にはたくさんの聖人がいるようですが、いわば守護神と考えてよいのでしょうか。

A.そうですね。神道の守護神と似ているところがあります。違うのは、キリスト教でいう聖人とは神として祀られるのではなく、やはり私たちと変わらない人間ですが、神の恵みによって生かされた人たちだ、という点でしょう。

 

 これまでも「聖徒の交わり」について何度かお話ししましたが、キリスト教では、神の子らが神の命を共有する一つの家族であること、すでに世を去って神のもとにいる者も、まだこの世の試練にさらされている者も信仰において結ばれていること、そして時間と空間を越えて互いに助け合うものであることを信じています。特にカトリック教会では、すでに亡くなった人で、私たちの信仰の模範となるような人を、「聖人」として公に敬う習慣があります。聖人たちが天で私たちのために祈ってくれることを思い起こすことは、励みになります。

 

 カトリック教会で洗礼を受けるときに、自分の特別に尊敬する聖人の名を「洗礼名」としていただくのもそのためです。その聖人と特別に結ばれます。不思議なことに、長い間に性格が自分の洗礼名の聖人に似てくるような気がするのですが、私の思い過ごしでしょうか。私の洗礼名はペテロですが、やはりペテロの単細胞のところとか、そっくり受け継いでいるような気がします。

 

 教会で公に聖人と認められていなくても亡くなった人で、私たちの心の中で親しく結ばれている人に、神の前で共に祈ってくれるようにお願いすることは、大きな助けになります。特に自分にはどうしてよいかわからないような困難に遭遇しているとき、聖人たちは私たちを助けてくれます。ぜひ試してみてください。(あけぼの11月号1991年)

 

 このように、ローマ・カトリック教会は、私とイエス・キリストではなく、私と聖人との交わりが中心であることがわかります。

 

 この理解の線上にマリヤ問題があり、マリヤ信仰が誕生したわけです。ローマ・カトリック教会の人々にとって、マリヤは聖母マリヤです。そして、この聖母マリヤの存在は、絶対的存在者の位置を占めています。マリヤ問題は、聖徒の交わりの理解の線上であることは、もはや言うまでもありません。ローマ・カトリック教会において、マリヤは諸聖人の中で最高の位置にある存在です。

 

 このことに関して、「神の御母にして、恩恵に満ち満ちているマリヤは、絶対に独自的の特殊な被造物である。それゆえ神学者は、一般に唯一の神に向かう礼拝Iatriaに対して、聖人に向かう尊敬をduliaと称して、これを区別しているが、聖母マリヤに対する尊敬を、特にhyperduliaと呼んで、聖人尊敬中の最高のものとなしている」と説明しています。なぜ、そうなのかを少々学んでみましょう。

 

 

.最高聖人としてのマリヤ  

 

 ローマ・カトリック教会において、マリヤは最高の存在です。彼らは祈祷文をもっています。この祈祷文の中には、聖母マリヤに対する祈りが記述されています。このマリヤについて、「カトリック要理」あるいは「やさしい教理問答」を見てみましょう。

 

聖母マリヤ(カトリック要理)

 

 諸聖人の中でもっともすぐれている方は、神の御母、処女聖マリヤです。それは聖マリヤが神の御子の真の母として神の恩恵に満たされ、すべての聖人と天使とにまさった地位を与えられたからです。

 

 「天使のお告げを聞いて、心とからだで神のみことばを受け、世に生命をもたらした処女マリヤは、真に神の母、あがない主の母として認められ、たたえられる。マリヤは子の功績が考慮されて格別崇高なしかたであがなわれ、緊密で解きえないきずなによって子に結ばれ、神の子の母になるという最高の役割と尊敬を授けられた。したがってマリヤは父の最愛の娘であり、聖霊の住まわれる聖所であって、このすぐれた恩恵の賜物のためにマリヤは天上、地上のすべての他の被造物よりはるかにすぐれている。マリヤはアダムの子孫として救われるべきすべての人と結ばれていると共に、なおまことに(キリスト)の肢体の母である」(教会憲章53)

 

.51 聖母マリヤがキリスト信者の母と言われるのはなぜですか?

.聖母マリヤが神のみ旨を受け入れて救い主イエズス・キリストを人々のためにお生みになり、十字架のもとでいけにえである御子イエズス・キリストに心を合わせて、すべての信者の霊的母になられたのです。

 

 イエズス・キリストが、十字架の上から使徒ヨハネに向かって「これはあなたの母です」(ヨハネ19:27)と言われたのも、そのことを示しています。「あわれみの父は、女が死への役割をもったと同様に、女が生命への役割をもつようにと、母として予定された婦人の承諾が受肉に先だつことを望まれた。こうしてアダムの娘であるマリヤは、神のことばに同意してイエズスの母となり、心から、いかなる罪にもひきとめられることなしに、神の救済のみ旨を受諾し、子のもとで子と共に全能の神の恩恵によってあがないの秘義に仕えるために、自分を主のはしためとして子とその働きに完全にささげられたのである。

こうして聖なる処女も信者の旅路を進み、子との一致を十字架に至るまで忠実に保たれた。マリヤは十字架のもとに立たれたが(ヨハネ19:25参照)、これは神のご配慮なしではなかった。マリヤは子と共に深く悲しみ、子のいけにえに母の心をもって自らを結び合わせ、自分からお生まれになったいけにえの奉献に心をこめて同意された」(教会憲章 56、58)

 

.52 聖母マリヤは地上の生活を終えた後、どうなられましたか?

.聖母マリヤは、地上の生活を終えた後、その霊魂もからだも天国の栄光に上げられました。これを「聖母マリヤの被昇天」といいます。

 

 「それは、罪と死に打ち勝った御子に、マリヤがよりよく似るものとなるためであった」(教会憲章 59)聖母は神の特別な御計らいで、キリストの功徳によって原罪を免れたように、その結果である死の腐敗も免れました。

 

 聖母マリヤはキリスト信者の霊的母として、天国において全教会とすべての信者のために取りなしをしてくださいます。そのために教会は信頼をもって聖母マリヤを仰ぎ、その取りなしを祈り求めます。「願わくは、われらの母たるを示して、われらのために生まれて御子となるをいといたまわざりしイエズスに、われらの願いを取り次ぎたまえ」(アベ・マリス・ステルラの歌)

 

.107 聖母マリヤは教会のために何をなさいますか?(やさしい教理問答)

.聖母マリヤはキリスト信者の心の母として、天国で教会とすべての信者のために、とりなしをしてくださいます。

 

 以上の事柄を踏まえて、マリヤ信仰の実体と理解を要約すると次のようになります。三位一体の神の創造物の中で、最高の被造物はマリヤです。このマリヤは歴史的には、人類最初のアダムの娘であるとしています。また、父なる神が最も愛した娘でもあるのです。したがってマリヤは聖霊の住まう聖所と理解し信じています。このようなマリヤは、御使によるイエスの受胎告知の時、心とからだで神のことばに同意しました。その結果、イエスの母となったのです。マリヤはキリストの功徳によって原罪を免れ、生きたまま昇天したとします。そして昇天したマリヤは、全教会と全信徒のとりなしをしていると規定しています。このマリヤは、「普遍的救済者」とも呼ばれています。ですからこのマリヤを賛美するとするのです。

 

 このように、「聖徒の交わり」というのは「諸聖人との交わり」「聖母マリヤとの交わり」とし規定します。そして、あくまでも救われるために諸聖人との交わりが必要なのです。また、ローマ・カトリック教会の教会形成は、聖人との交わりが中心ということになります。その実体は、功徳・功績を積み互いにそれを融通し合うことに信仰と教会形成の根拠を持つということなのです。さて、ローマ・カトリック教会がマリヤについてどのような神学的な弁明をしているか見てみましょう。

 

.マリヤの歴史的起源

 

 ローマ・カトリック教会は、マリヤに関する歴史的起源を芸術の分野に求めています。それは聖母の最古の痕跡をカタコンブの種々の壁画、浮彫などに描かれているからです。どのように描かれているのか。マリヤが単独で表現されているのは少ない。むしろキリストを中心にマリヤが描かれています。現在のローマ・カトリック教会に一度、訪ねて確認されるとよいでしょう。

 

 また、新約外典の中にも根拠があるとしています。新約外典を通して理解できることは、聖母が一般大衆に人気があり、大衆信仰の対象となったというのです。これが教父たちの手によって正式の神学として「マリヤ論」が確立するようになったのです。そして聖大アルベルトは、「神であることの次には、神の母であることがくる」と証言しています。また、教父トマスは「神がその全能をもってしても、この地上においては『御言とペルソナ的一致したキリストの人生、神の御母聖マリヤ、および、義人に分かれるところの生聖の恩恵』以上にすぐれたものを作りたもうことは不可能である」とマリヤの位置を支持しています。これは大問題です。それは一般大衆が支持する、しないという次元で判断していることになるからです。聖書を基準にしていないのです。E・ケアンズは「イエスの母マリヤ崇拝は、1854年には無罪懐胎の教義の公認となり、1950年にはその奇蹟的昇天の教義の公認となったが、590年ごろには急速に発達していた。聖書の間違った解釈と経外福音書においてマリヤと関連している多くの奇蹟とは、マリヤに対する非常な尊敬を生み出した。4世紀におけるネストリウム派およびその他のキリスト論についての論争についての結果は、マリヤを『神の母』と真受するようになり、典礼の中でもマリヤに特別の尊称が与えられるようになった」と説明しています。したがって、ローマ・カトリック教会の理解や見解を承認することはできません。

    (聖大アルベルト)

 

 

 

.マリヤの神学的起源

 

 マリヤの神学的な起源は、どこに位置し、見い出されるのか。それは、救済史の線上において位置付けられています。マリヤは言うまでもありませんが、救い主イエスの母です。彼らはこの母マリヤを共同救済者(共同補償者)と呼んでいます。

 

(1)救済史の線上でみるマリヤ

 

 救済史の中心は言うまでもなく、イエス・キリストご自身です。ペテロ神父は、イエス・キリストご自身は、アルファ(初め)でありオメガ(終わり)です。彼はこのアルファベットではアルファの次にベータがくるが、ここに意味があると説明します。ペテロ神父によれば、創世記に3章15節に「私は、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と記述されています。この「お前」とは「悪魔」のこと、「彼」とは救い主キリストのこと、そして、「女」とはエバをはじめ、マリヤのことも指しています。このように、早々とマリヤが登場するとしてみます。そしてイザヤ書においては、「見よ。おとめが身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)とマリヤについて預言されています。福音書の各所においてもマリヤの関わりについて言及されており、特にルカによる福音書においては詳しく述べられています。また、イエスの公の仕事は、十字架上でイエスがマリヤを母としてヨハネに預けることであったのです。ヨハネによる福音書には、「イエスは、母とそばに立っている、愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。」(ヨハネ19:26)とあります。このようにイエスの生涯には、マリヤが終始関わっていたとします。さらに黙示録には、「また、巨大なしるしが天から現れた一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には12の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた」(黙示録12:1-2)とあります。ここに出てくる「女」とは、マリヤであると言います。そして、黙示録におけるマリヤは、女王、勝利者、人類の母としての姿であると言うのです。これらのことは、車の両輪に譬えることができます。車は両輪がそろってはじめて前に進みことが出来ます。イエスとマリヤは車の両輪という関係なのです。

 

 マリヤの預言  マリヤの預言  受肉とマリヤ   十字架上のイエスとマリヤ   天上とマリヤ

 

(創世記3:15) (イザヤ7:14) (マタイ1:23) (ヨハネ19:26) (黙示録12:-2)(ルカ1:26-38)

 

 さて、ローマ・カトリック教会が主張しているように、マリヤ問題をそのまま受け入れてよいのでしょうか。検討してみましょう。

 

 創世記3章15節には、「わたしは・・・敵意を置く」とあり、最後の文は「おまえの頭を踏み砕く」となっています。蛇(サタン)が、エバを誘惑し、エバはアダムを誘惑した。アダムは、禁断の実を食し不従順の罪を犯した。このことについて、アダムはエバが悪いと言う。また、エバは蛇(サタン)が悪いと言うのです。このように罪は責任転嫁をします。しかし、本当の敵はサタンなのです。人間は罪を犯し、神から離れてしまいました。そこで神は人間と蛇(サタン)との間に敵意を置くと言われたのです。このように、蛇(サタン)に対するさばきの言葉は、罪を犯した人間の救済的意味を持っているのです。ですから、このことを「原福音」と呼ばれています。

 

 また、「おまえの子孫と女の子孫」という言葉があります。この解釈について新聖書注解を引用します。新聖書注解には女の子孫について次のように説明されています。

 

 「信仰によって女の霊的な子孫になった、真の人類の全家族」「強情に、悪魔の霊的な子孫であることを示している堕落したアダムの子孫」が蛇の子孫であったり、女の子孫であったりする可能性を残す。蛇の子孫を人間以外の存在、複数の悪魔たち(ヤング)と考えることも可能であろう。しかし〈おまえの子孫〉はこの節の最後の二行では「おまえ」と変わっている。これはカイルが言うように、蛇の子孫は蛇、実は蛇を通して人間に加害する敵であるサタンと1つのものとされてしまっていることを示す。つまり解釈に当たっては、「子孫」という表現は余り重要な意味を持ってはいない。〈女の子孫〉もこの節後半では、単数男性の代名詞によって表現されている。しかし「女の子孫」という場合、個人でも集団でもあり得る。この場合、女がすべての人間の母となったことからは、人類全体と考えるのが当然であろう(カイル・デリッチ)。したがって、「女の子孫」は直接にキリストを指すと考えるのは良くいない。女はエバだけではなく、むしろ彼女に代わってマリヤを指す(フランシスコ会訳)とするのは、文脈からどう見ても無理。したがってここでは、人類の、蛇・サタンへの勝利が語られていることになる。この勝利が結局、イエス・キリストによってのみもたらされるものであることは、やがて進展する啓示の歴史を通して明らかになる。(ローマ16:20)【新聖書注解 旧約P95】。

 

 このように、ローマ・カトリック教会におけるマリヤ理解は、文脈を無視した解釈であるということです。

 

 次に、「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」とあります。これは言うまでもなく象徴的表現です。蛇(サタン)は人間のかかとをかんで人間を殺すが、イエスは蛇(サタン)の頭を打ち砕いて蛇(サタン)を殺す。パウロは「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ロ一マ16:19)と言っています。

 

 そもそもこのような理解は、「型」の解釈の問題です。アダムは言うまでもなく、「キリストの型」です。それに対して、エバはマリヤの型ではなく本来「教会の型」です。

    (アダムはキリストの型)

     (エバは教会の型)

 

 

ヨハネ19:26は、イエスが十字架上で苦悩のただ中における状況が記述されています。十字架の下では、イエスの母と母の姉妹とクロパの妻のマリヤとマクダラのマリヤの四人がいます。この婦人たちは、イエスに忠実な人々です。

 

 これと反対に、四人のロ一マの兵卒たちの不忠実な姿が描かれています。これは、信仰と不信仰の人間の2つの姿を示しています。そして、イエスは自分の使命である贖われた人々との新しい交わりの創造をもくろんでいました。イエスは、十字架上で苦悩の内にありながら「母と、そばに立っている、愛する弟子たちとを見て」霊的な基礎を創ろうとされたのです。その第一歩は、母マリヤに「女の方。そこにあなたの息子がいます」(26節)と言われたことです。このことによって、ヨハネはイエスの母を自分の母と同様に扱うように命じられたのです。そして、「この時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」(27節)のです。この行為は、血縁関係や同情や義理人情による人間的な交わりではありません。むしろキリスト者の聖徒の交わりです。それは、教会の交わりであり教会の責任にマリヤを委ねたということなのです。ローマ・カトリック教会が理解しているような、単なる十字架上のイエスとマリヤではなく教会との関係なのです。

   (イエスの母マリヤも教会の型)

 

 

黙示録12:2はどうでしょうか。

 

参照 黙示録12:

12:2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

 

ここに登場してくる「女」はみごもっています。ローマ・カトリック教会において、この女というのは「マリヤ」であると言うのです。しかし、本来この「女」というのは何か?この女について多くの解釈がなされてきた。この女はマリヤを示しているのではなく、キリストが現れる母体としてのイスラエルを表しています。そして、やがてこの女は大艱難時代にサタンから迫害されるのです。

 

(2)エバとしてのマリヤ

 

 この、マリヤの起源をどこに求めているのでしょうか。教会憲章56、58には「アダムの娘であるマリヤ」という一文があります。これは本来のエバは神に従うことに失敗した。しかし、「新しいエバ」であるマリヤは神に従順であった。したがって、マリヤはアダムの娘であり新しいエバなのだと言うのです。

 

 アダムの子どもについて、創世記4章1-2節には「カインとアベル」であることが記述されています。しかも2人は男兄弟です。なぜマリヤは「新しいエバ」であり「アダムの娘」なのか。このように彼らの主張は、キリストとアダムの比較を根拠にします。聖書はキリストを第2のアダムと理解して比較します。そのように、マリヤはエバと比較することが可能であるとします。このマリヤとエバの比較について、アウグスティヌスは「エバは嘆き、これ(マリヤ)は喜べり。エバは涙を流し、マリヤは胎内に喜びをいだけり。それは、彼女は罪人を、これは罪なき者を生んだ。私たちの種族の母は世界に罰をもたらし、私たちの主の御母は世界に救いをもたらせたのでる。エバは罪の源であり、マリヤは功徳の源である。エバは殺して害をなし、マリヤは活かして助けたのである。彼女は打ち、これを癒す。従順は不従順に代わり、信仰は不信を償なえり」と言います。何を言いたいのか?

      (アウグスティヌス)

 

 

つまり、こういうことなのです。不従順なアダムの代わりにイエスが、誘惑の源であったエバの代わりにマリヤが起こされ、万事を回復してくださったということなのです。そしてエデンの園における誘惑の記述の順番を見ると次のようになります。まず、サタンがエバを誘惑します。その次にはエバがアダムをそそのかすのです。その結果、不従順になるのです。このようにアダムの犯罪は、エバのサタンの誘惑に対する同意によって始まったとします。

 

 この順番に従って、考えるのです。まず、神はエバの代わりのマリヤを立てました。エバはサタンの誘惑に負けたが、マリヤは天使の受胎告知を受け入れたという比較をします。この比較には正統性があるでしょうか。この2つの出来事の大きな違いは、一方はサタンであり一方は天使です。まして天使の背後には神ご自身がおられるのです。メッセ-ジの出所が同じであれば、まだ比較もできるでしょう。しかし、基本的なものが違うのです。比較の対象になりません。ましてエバと創世記3:15の女との関係には、矛盾が生じます。この矛盾をどのように解決するのでしょうか。

 

(3)無罪性としてのマリヤ

 

 マリヤ問題の第1は、「マリヤ無罪説」に関することです。この問題についてローマ・カトリック教会の主張に耳を傾けてみましょう。ローマ・カトリック教会は、マリヤ無罪説を支持します。この問題が信条として規定されたのは、1854年ピオ9世の教勅(Ineffabilis Deus)によるものです。このマリヤの無罪性を神学とした学者は、スペインの「レーモンド・ルル」とスコットランドの「ヨハネ・ドゥンス・スコトゥス」です。この2人は、フランシスコ会の学者でした。

  (ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス)

 

 

 

マリヤの生涯は、常に聖霊に満ちていたので原罪を持っていなかったとします。本来すべての人間が原罪をもった者として生を受けます。しかし、マリヤだけは原罪の汚れは避けて通ったのです。そして、キリストはマリヤのために罪人であることを防いでくださったのです。ローマ・カトリック教会の中には、「マリヤには罪を犯す可能性さえなかった」と理解する神学者が少なくありません。このマリヤの状態について、「聖母はわれわれよりも、より完全にキリストに救われたものである」と理解しているのです。

 

 また、この表現から言えることは、救いに段階があるということです。これらの根拠をルカ1:35の「御使いは答えて言った『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ、生まれる者は、聖なる方、神の子と呼ばれます。』」においています。こうしてマリヤは聖霊に満たされた存在となったのです。そしてマリヤは聖霊によって御子イエスをお腹に宿しました。このことを「ご託身の奥義」と呼んでいます。

 

 このようにマリヤは特別な恩恵によって原罪から守られ、イエスの母となったのです。この事実は初代教会時代よりとして、暗黙の間に全キリスト教徒によって理解されていたと言います。

 

 しかし、この理解は全キリスト教徒に受け入れられているのではなく、ローマ・カトリック教会のキリスト教徒に受け入れられているものです。また、聖書を見てみると、マリヤが無罪であったから救いの母となったのではありません。

 

 聖書には、「神にとって不可能なことはありあません。マリヤは言った『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように』」(ルカ1:37-38)と、あります。このマリヤの言葉は、無罪のマリヤだからこそ告白できた言葉ではありません。大切なことはマリヤの認罪経験の深さと、まったき献身から来る告白ということです。つまり神のご計画の信仰と、まったき献身をもって受け止めたマリヤがあって、初めて救い主の誕生が歴史性をもったのです。また、「私は主のはしためです」という告白は認罪経験の深さを表すものです。罪なき者は、「はしため」という認識は必要ありません。イエスの生涯に、「私は、はしためです」という言葉と認識があったでしょうか。父なる神の御心に従って、十字架に進んでいかれたイエスの姿が浮き彫りにされています。したがって、ローマ・カトリック教会の理解を受け入れることはできません。

 

(4)マリヤの昇天問題

 

 上記でも述べましたが、カトリック要理をもう一度参考にします。

 

Q.52 聖母マリヤは地上の生活を終えた後、どうなられましたか?

A.聖母マリヤは、地上の生活を終えた後、その霊魂もからだも天国の栄光に上げられました。これを「聖母マリヤの被昇天」と言います。

 

 「それは、罪と死に打ち勝った御子に、マリヤが、よりよく似るものとなるためであった」(教会憲章59)聖母は神の特別な御計らいで、キリストの功徳によって原罪を免れたように、その結果である死の腐敗も免れました。

 

 ローマ・カトリック教会の神学者カ-ル・ランナ-は、「マリヤの『被昇天』は、この一人の人間に対する神の救いの行為の完成に他ならない。それは神の救いの行為と恵みの完成であって、われわれはそれを自分自身にとっても希望するのである。内容的に見てそこで言われている根本本質は、共通のキリスト教信仰に自明的な事柄なのである。」としています。また、この教義に関して聖書的根拠があるのかと言えばないのです。ですからカ-ル・ランナーは、「マリヤに関する諸教義は聖書に顕現的に証言されておらず、また最初の幾世紀もの伝統にも顕現的に存在しなかった・・・」と言います。

 

 ローマ・カトリック教会は、マリヤの被昇天を聖書に根拠を置いているのではなく伝承においているのです。この時点で、聖書の正典の否定ということになります。また、別な大きな問題を含んでいます。それはマリヤの死の問題です。カトリック要理(52)「聖母マリヤは、地上の生活を終えた後」という表現があります。この表現から言えることは、マリヤは確実に死んだということです。そして、「天に上げられた」という表現になっています。この表現からすると、第三者の力が加わってあげられたことになります。あくまでも、「天にあげられたのであって、あがったのではない」のです。聖書を見てみましょう。パウロは、「罪から来る報酬は死です」(ロ一マ6:23)と言っています。マリヤは死んだのです。つまり罪人であったということなのです。罪がなければ、死ぬはずがありません。

 

 では、イエス・キリストはどうでしょうか。十字架の上で死んだではないか?という声が聞こえてきそうです。たしかに死にました。しかし、この問題についてパウロは、「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし、悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(コリント2:7-8)と言っています。

 

 それは、罪のない聖い御子イエスを十字架で殺す、ということは神の知恵であり神の奥義であると言うのです。しかも天地創造以前に計画されていたものであると言うのです。イエスは十字架で死に、墓に葬られました。イエスは自ら死の世界に入り、人間が経験する死の恐怖をなめ尽くして自らの力で復活し、昇天しました。イエスは罪のない聖いお方ですから復活することができたのです。イエスの復活がなければ、十字架は単なる敗北であり、殉教の死でしかなくなってしまいます。十字架と復活は表裏一体です。復活の光で十字架を照らすと聖なるイエスが描き出されるのです。

 

 マリヤは昇天したとローマ・カトリック教会は言います。しかもマリヤは死を経験せずに昇天したのではありません。死を経験し、あげられたのです。

 

 本当にマリヤに罪がなかったとした場合、マリヤは死んで復活しなければならないはずです。しかし彼女は死んだのです。しかもマリヤの復活の記述は聖書の中にはありません。このマリヤの死は、何を意味するのでしょうか。それは、マリヤの罪の証明ということです。イエスはマリヤの罪のためにも十字架で死んでくださったのです。ですから聖書ではマリヤの被昇天説は成立しません。

 

 さらに教会憲章(59)には「それは、罪と死に打ち勝った御子に、マリヤが、よりよく似るものとなるためであった」とあります。つまりマリヤは栄化の型であると言うのです。この理解も聖書の記述にはありません。そもそも救済論の中には、過去(エペソ2:5)、現在(ローマ8:24)、未来(ローマ5:10)という3様態の理解があります。特にマリヤの問題は、救いの未来に関する内容です。私たちが栄化される型はマリヤではなく、復活のイエスの姿そのものです。私たちは再臨の主にお会いする時に、キリストと似る者とされるのです。

 

(5)昇天後のマリヤ

 

 昇天後のマリヤは、「天において何をしているのか」ということです。やさしい教理問答の107には、聖マリヤは教会のために何をなさいますか?

 

 「聖マリヤはキリスト信者の心の母として、天国で教会とすべての信者のために、とりなしをしてくださいます。」と記述されていました。実に明白です。仲保者の役割をしているということです。かつて、何人かの人々に「なぜ、マリヤに向かって祈るのですか?」という質問をしたことがあります。共通している解答は、「人間の世界においても子どもが父親に何かお願いする時は、母親に仲介者となってもらい、とりなしてもらうでしょう。そのほうが聞いてくれるのです。そのようにマリヤさまに祈り仲介者になってもらい、イエスさまに聞き届けてもらうのです」ということなのです。じつに人間的な答えです。聖書にはそのようなことは一言も教えられていません。

 

 むしろ聖書では、「神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(テモテ2:5)と言っています。ですから神と人の仲介者はマリヤではなく、イエス・キリスト御自身です。またヨハネは、「私は助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7)とも言っています。パウロは、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、どのように祈ったらといかわからないのですが、御霊はご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしをしてくださいます。人間の心を探り極める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(ローマ8:26-27)と言います。助け主、御霊は聖霊のことです。人間とイエス・キリストの仲保者は、聖霊御自身です。そして父なる神への仲保者は、イエス・キリスト御自身なのです。

  (イエス・キリストこそ、神と人との仲介者)

 

 

むしろマリヤを問題にすることよりも復活、昇天したイエスが天において何をしているかを問題にすべきです。マルコの福音書には、「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上がられて神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)と記述されています。使徒信条の一文には、「三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」となっています。ヘブル書の著者は、「キリストは、永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしているからです」(ヘブル7:24-25)と言っています。

 

 ヨハネはさらに、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」(ヨハネ2:1-2)と務めについて記述しています。

 

 このようにイエス・キリストは大祭司として即位し、人々の救いのために祈り続けているのです。これでは聖霊の働きをマリヤが行っていることになります。また、聖霊の働きを否定していることにもつながります。決してマリヤが弁護者、仲保者、助け主となっているのではないのです。ローマ・カトリック教会にとってマリヤは、まるで大祭司のような扱い方をしているようです。

 

(6)教会の型としてのマリヤ

 

 ローマ・カトリック教会は、マリヤを教会の型として解釈しています。教会憲章の63項には、「神の母は、信仰と愛とキリストとの完全な一致の領域において教会の象型である」と説明しています。しかも教会憲章によれば、聖アンブロシウスが主張したものなのです。創世記における予型論から言えることは、アダムはキリストの型であるのに対して、エバは教会の型です。この理解を救済論(救いの歴史)の線上において、ローマ・カトリック教会は、エバはマリヤの型と拡大解釈するところにマリヤは教会の型という理解が生まれてくるわけです。また、聖霊の役割をしているということです。

 

     (聖アンブロシウス)

 

 

 

以上、マリヤに関するローマ・カトリック教会の見解を見てきました。結局、聖母マリヤと聖徒の交わりこそが救いの根拠なのです。それは大きな信仰者と小さな信仰者との交わるということです。イエス・キリストとの交わりは例外的なこととして位置付けているということになります。そして功徳・功績を互いに融通し合うことによって、ローマ・カトリック教会が形成されるということになります。 

 

.福音主義教会にとっての聖徒の交わり

 

 福音主義教会にとって、聖徒交わりとは何でしょうか。私たちは、「イエスは主なり」と告白する者たちが集まっていると聖徒の交わりが成立すると信じています。この程度の理解では、聖徒の交わりと言うことはできません。むしろ教会という名を借りたクラブ、サークルのレベルとなってしまいます。聖徒の交わりとは、一体何なのでしょうか?プロテスタント諸教会共通の信条に眼を留めてみましょう。教会にしかない交わりの固有性が見えてきます。使徒信条の第三項には、次のようになっています。

 

 「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」

 

 この信条を注意深く読んでみますと、「我は聖霊を信ず」の次にその中身が告白されているということです。その中身というのは、「聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」ということなのです。つまり、「信ず」です。ですから聖徒の交わりとは信仰告白に関することということなのです。この聖徒の交わりは、自動的に成立するというのではありません。この聖徒の交わりの本質はどこにあるのでしょうか。アウグスブルク信仰告白の第七条には、次のように述べられています。

 

第七条 教会について

 

 また、われわれの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時の続く限り、永続するものであること。さらに教会は聖徒の会衆であり、そこで福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音にしたがって正しく執行されるのである。

 

 聖徒の交わりの本質は、聖書が正しく説教され聖礼典が正しく執行されるところに存在するということなのです。つまり説教と聖餐を中心とした交わりの中にこそ成立する交わりです。決して諸聖人たちとの交わりではありません。

 

引用文献

 

.戸塚文卿著作集 2神の恩恵  P137  中央出版社

 

.戸塚文卿著作集 1 カトリック読本  P110  中央出版社

 

.キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論  P512  カール・ライナー著  エンデルレ書店