サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

  第7章 他宗教との関係

 

 

 一般的にローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会を比較した場合、前者は寛容であり幅があるが、後者は排他的であり狭いという理解があるようです。私たちの教会員の中にも、「ローマ・カトリック教会のほうが寛容で楽であるから」という理由で教会を去った方々が数名おります。また、このような現象について他の牧師たちからも、しばしば聞くことがあります。そのような人々の歩みについて見ていますと、自分の気分や都合で教会に行ったり行かなかったりしています。それだけではなく、聖書に対する態度においても都合の悪いところに対しては耳をふさぐ傾向があることに気が付きます。

 

 

 私はロ一マ・カトリック教徒の知人が少なくありません。彼らの日常を見ておりますと生活の中に占い、お札、お守り等、なんでもある状態です。寺院に行っては仏像や位牌に向かって手を合わせることは何の抵抗もなくおこなっています。ノン・クリスチャンと何ら変わらないのです。じつに不思議です。ある日、私は尋ねました。なぜ、そんなことをするのか?と。その解答は、「神さまは他の宗教の中にも聖書にない真理を人間に示しておられる」と言うのです。また占い、手相等については、「神さまは人間の将来について、それらのものを通して教えている」と言うのです。私は当時、この解答に驚きを隠せませんでした。

 

 

 なぜ、このような理解になるのでしょうか。「第2バチカン公会議 公文書全集」に目を留めてみましょう。この会議録の「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」という項目が、現在のローマ・カトリック教会の公的な見解であり、立場です。部分的に重要と思われる点を引用していきます。

 

 

.キリスト教以外の諸宗教

 

 

 ところで進歩した文化と結びついている宗教は、より深遠な概念や一層洗練された言語によって、同じ問題に答えようとしている、たとえばヒンズー教において、人々は汲み尽くすことのできないほど豊かな神話と、哲学上の敏感な努力をもって神の神秘を追求し、表現する。また彼らは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって我々の存在の苦悩からの解放を求めている。仏教においては、その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。これと同じように、世界中に見い出される他の諸宗教も種々の道、すなわち種々の教義と戒律と儀式を提示することによって、色々な方法で人間の心の不安を解決しようと努力している。

 

 

 カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見い出される真実で尊いものを何も排除しない。これらは教会が保持し、提示するものとは異なっているが、すべての人を照らす真理の光線を示すことも稀ではない。しかし教会はキリストを告げているし、また絶えず告げなければならない。「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であるキリストにおいて、人は宗教生活の充満を見い出し、キリストにおいて神は万物を自分と和睦させた。

 

 

 したがって教会は自分の子らに対して、キリスト教の信仰と生活を証明しながら賢慮し、愛をもって他の諸宗教の信奉者との話し合いと協力を通して、彼らの中に見い出される精神的、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進するよう勧告する。

 

 

.イスラム教

 

 

 教会はイスラム教徒をも尊重する、彼らは唯一の神、すなわち自存する生きた神、憐れみ深い全能の神、天地の創造主、人々に話しかけた神を礼拝している。また、イスラム教の信仰が進んで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じように、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。彼らはイエズスを神と認めないが、預言者として尊重し、その母である処女マリヤを称賛し、時には敬虔に彼女に祈る。彼らはさらに、よみがえったすべての人に、神が報いを与える審判の日を待っている。したがって彼らは道徳的生活を尊び、特に祈りと施しと断食によって神を礼拝している。

 

 

 幾世紀にわたる時代の流れにおいて、キリスト教徒とイスラム教徒の間に少なからざる不和と敬意が生じたが、聖なる教会会議は、すべての人に過ぎ去ったことを忘れ、互いに理解し合うよう、まじめに努力し、また社会正義、道徳善、さらに平和と自由をすべての人のために共同で守り、促進するように勧告する。

 

 

.ユダヤ教

 

 

 この聖なる教会会議は、教会の秘義を探求しつつ、新約の民とアブラハムの子孫を霊的に結んでいる絆を思う。

 

 

 このように・・・したがって、すべての人は教理の説明や神のことばの宣教にあたって、福音の真理とキリストの精神にあわないことを、何も教えないように注意しなければならない。(第2バチカン公会議 公文書全集参照)

 

      

 

 このように諸宗教との関係について説明し、ローマ・カトリック教会の立場を表明しています。ローマ・カトリック教会には、「教皇様の声」という月刊紙があります。この機関紙(1997年6月10日)206号に次のような記事があります。紹介しましょう。

 

教会はすべて真であるものを受け入れる

 

 

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(以下「宣言」と略す)は、第2回バチカン公会議文書の中でも一番短いものですが、その重要性と新しさを見逃すことはできません。それはキリスト信者と他の宗教の信奉者が互いに敬意をもって対話をし、人間の真の福利のために協力し合う道を示しています。

 

 

 不幸なことですが、かつては宗教上の確信のもとに敵対がありました。「宣言」は、神こそが人類の兄弟愛の確固たる基礎であることを思い起こさせてくれます。「すべての民族は一つの共同体であり、唯一の起源をもっている。また、すべての民族は唯一の終局目的、すなわち神を持っている。神の摂理と慈愛の証明、さらに救いの計画はすべての人に及ぶ。」

 

 

 この確信が真理という概念を相対化するものであってはならないのは当然です。ですから教会は託身した神の子キリストのみが「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であり、キリストにおいてのみ、人は宗教生活の充満を見い出す(「宣言」2参照)のだ、と新たな熱意を込めて伝え広めることを自らの義務としています。

 

 

 しかし、このことが多くの宗教に見られる前向きな要素を過小評価することにつながってはなりません。「宣言」は特にヒンズー教や仏教、イスラム教その他の伝統宗教の霊的豊かさについて触れています。

 

 

 「カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見出される真実で尊いものを何も排除しない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、全ての人を照らす真理の光線を示すことにも稀ではない」

 

 

 「宣言」は、キリスト教がとりわけ深い関係を持つユダヤ教の兄弟たちに対して、特別な注意を向けています。じつにキリスト教信仰は、ユダヤ民族の宗教体験に端を発し、キリスト自身もその民族の一人だったからです。聖書のうち旧約と呼ばれる部分は、カトリック教会もユダヤ教も共通です。教会は今も同じ真理の遺産から生命を汲み、キリストの光に照らして読み返します。キリストが新しい永遠の契約によって開いた新時代の始まりは、この古い根を滅ぼすのではなく、普遍的で豊かな実りをもたらすものでした。この事実を考えてみれば、キリスト教とユダヤ教の間にしばしば起こった緊張状態は、深い悲しみであると言わざるを得ません。今日も「ユダヤ人に対する憎しみ、迫害、反ユダヤ主義の運動を、それがいつ、誰によって行われるものであっても、すべて嘆き悲しみ」(「宣言」4番)と述べた公会議の声を、私たち自身のものとしなければなりません。

 

 

 宗教精神の模範であるマリヤに祈ります。あらゆる宗教の信奉者たちが、神を見つめて生き、各自の信じる真理の要求し忠実であるよう、励ましてください。

 

 

 教会がマリヤの取り次ぎと助けによって真理への忠実な証言と、全ての人との対話を両立させることができますように。また、全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神の御旨に沿った平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように。(97・1・14)

 

 

 

 随分長くなりましたが、このように記述されています。この内容は、第2バチカン公会議 公文書全集「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」に準じるようであることは言うまでもありません。上記の内容を少々検討してみましょう。

 

 

 全文で述べましたように、「ローマ・カトリック教会は寛容であり幅がある」という声を時々聞きます。上記の文章の中に「教会はすべて真であるものを受け入れる」という表題があります。その内容は対話であり、それぞれの諸宗教にある真理を真理として承認するということです。しかも人間は色々な方法で人間の心の不安を解決しようと努力しているのだ、というローマ・カトリック教会なりの見解を持っていることがわかります。その中で見い出されたものを「各自の信じる真理の要求に忠実であるよう」という表現をもって真理と承認しています。また、自力と他力による救いを承認しています。 

 

 

 この辺の問題は、啓示論に関する事柄と救済論に関する事柄になります。救済論については、すでに述べてきました。したがって啓示論に中で、この問題を考えていきましょう。啓示というのは、神の自己紹介という風に理解しておくとよいでしょう。私たちが初対面の人とお会いすると、自分の存在を相手にわかるように話すことが自己紹介です。しかも自己紹介は自発的なものです。神さまは、神自ら人間に対して自分の存在を紹介したのです。ですから啓示とは神を知る方法と言うことが言えます。啓示の中には、大きく2種類に分類できます。それは、「一般的啓示」と「特別(特殊)啓示」です。

 

 

.一般的啓示 (間接的啓示)

 

 

 一般的啓示は3つに分類することができます。簡単に分類してみましょう。

 

 

自然界・・・私たちは自然に触れると神秘的なものを感じるものです。日本人は、特に山などに行くと石を積み重ねていたりします。詩篇には「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)とあります。また、パウロは「神の、見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造さえた時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らには弁解の余地はないのです」(ロ一マ1:20)と言っています。ここで、「神の見えない本性」という表現があります。これは神というお方は目に見えない霊的存在であり、霊において存在するお方であるということなのです。ですから自然界を通して神の存在がわかるようにしてくださっているのです。

 

   (私たちは、自然界を通して神さまを理解できる)

 

 

歴史・・・人類の歴史をみると神が導いておられることがわかります。英語では歴史を「HISTORY」と書きます。この言葉を分解すると「HIS、TORY」となります。こ場合のHISは、イエス・キリストです。ですから歴史とは、キリストの歴史であるという人々がおります。これはこじつけですが、うまい説明だと感心します。旧約聖書中の預言書を見てみますと、預言者たちが人類に救い主が来ることを何千年前から予告していました。そして、この救い主が私たちの罪を赦すために十字架について死に、神の救いの業が完成することを予告しています。イザヤ53章などには、預言者イザヤが十字架に上で救い主イエスが苦しんでおられるのを実際に見たかのように描いています。 

 

 新約聖書中には、この預言者イザヤが語ったことが本当かどうか調べたという記述があります。例えば、「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました」(ペテロ1:10)とあります。そして事実、受肉、十字架、復活、昇天は歴史的事実として起きたのです。また、イスラエル国家の将来の行方についても述べています。このように神は歴史に介入し歴史を導くのです。私は高校生の時、まるで聖書が台本のようになって人類の歴史を導いておられることを感じました。事実、聖書と人類の歴史を重ねてみると歴史を導く神がおいでになることがわかります。 

 

人間・・・人間存在そのものを見る時、神の存在がわかります。不思議なことに、いつの時代もどんな民族であっても自分の死や死後について思い巡らします。また、悩みます。伝道の書に「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(伝道の書3:11)とあります。人間が自分の終末的なことで悩み苦しむ原因は、神が永遠への思いを心の中に与えられているからです。ですから現在よく言われるターミナル・ケアとは、永遠者なる神と出会うことと言えます。 

 

 また、人間は何のために生まれ、何のために生きるか。孤独、空虚、罪等の問題についても、人間は苦悩し追求しています。この解決のために、人類は歩み続けてきました。 

 

 ですから人類は自分探しの旅をしているということになります。その原因は、どこにあるのでしょうか。詩篇の詩人は「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとして、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:4~6)と告白しています。この中で「人とは何者なのでしょう」の「人」とは、「エノーシュ」で「弱いもろい人」を意味しています。次に「人の子とは、何者なのでしょう」の「人」とは、「アーダーム」で「死すべき人間」を意味しています。そして、「これを顧みられるとは」というのは、ただ覚えているというのではなく、「人のために行為し続けている」ということです。ですから神は、弱くてもろい死すべき人間のために何らかの行為をし続けておられるということでしょう。そして、「人を、神よりいくらか劣るものとして」という表現の「劣る」とは「低く、足りない」ということです。つまり、三日月は満月が欠けた状態のことを言います。しかし、この欠けたところに神が介入してくださると満月になります。このように、人間の心は欠けているのです。欠けているために欠けているところを満たそうとするのです。その手段が、難行苦行や戒律や瞑想であったりします。こうして人類は、自分探しの道を歩んできたのです。ところが自分の心の欠けを満たすことが出来ません。出来ないことによって、神でなければ満たすことが出来ないことがわかるのです。  

 

 このように神の存在が3つの方法によってわかるようにされています。しかし一般啓示によっては、人は救われないのです。ですから諸宗教というのは、この一般啓示の世界の問題であって救いには至らないのです。人類は一般啓示の世界の中を生きてきたのです。ローマ・カトリック教会が主張するように、「これと同じように、世界中に見い出される他の諸宗教も種々の道、すなわち、種々の教義と戒律と儀式を提示することによって、色々な方法で人間の心の不安を解決しようと努力している。カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排除しない」と言います。また、「あらゆる宗教の信奉者たちが神を見つめて生き、各自の信じる真理の要求し、忠実であるよう励ましてください」とも言います。そして、「教会がマリヤの取り次ぎと助けによって、真理への忠実な証言と全ての人との対話を両立させることができますように。また全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神のみ旨にそった平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように」という祈りのことばをもっています。 

 

 本来、一般啓示の世界で見い出されるものは真理ということはできません。むしろ真理に向かわせる道具的な存在ということです。まして、「各自の信じる真理」ということは真理なるものが多種多様に存在するということになります。イエス・キリストは、「わたしは唯一の道であり、唯一の真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われました。また、ヨハネは「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは、反キリストの霊です」(ヨハネ4:1~3)と言っています。ですから、あくまでも唯一の神・真理・命は、ただキリストのみです。 

 

 仏教、神道、ヒンズー教、ユダヤ教であろうが、イエスを告白しない霊は、真理ではありません。したがってそれらには、真理があるはずがないのです。  

 

 しかしローマ・カトリック教会も上記で見てきたように、この聖書のことばを引用します。にも拘らず、他にも真理があると承認しています。この矛盾を矛盾として感じないところに問題があるのです。他宗教との対話は大切なことです。対話することと同時に他を承認することがイコ-ルであってはならないのです。ある日のこと、私はローマ・カトリック教会の書店に行った時のことです。仏壇が展示されていました。私は興味深く、仏壇の中を覗いたのです。すると位牌の代わりに、十字架やマリヤ像が置かれているのです。当時、何の免疫もない私は一人のシスタ-を捕まえて、「こんなことが許されるのですか」と質問しました。すると、「日本の感情を考えると仏壇がないとイエズスさまやマリヤさまを信じることができないでしょう。だから日本人クリスチャンには、これがないとだめなんですよ」という回答が返ってきたのです。まさに驚きという他、ありませんでした。このことからもわかるように、ローマ・カトリック教会は寛容なのではありません。いい加減なのです。 

 

 私たちは状況がどうであれ、正典としての聖書の光で照らし判断しなければならないのです。  

 

.特別(特殊)啓示(直接的啓示) 

 

 この啓示は、人を救いに至らせるものなのです。特別啓示は2つあります。その1つは、イエス・キリストの生涯ということです。2つ目は、イエス・キリストの事実の証言としての聖書ということです。 

 

《イエス・キリストの生涯》・・・これは、イエス・キリストの歴史的事実に目を向けなければなりません。  

 

受 肉・・・イエスの受肉と処女マリヤからの誕生は歴史的事実です。ヘブル書の著者は、「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(ヘブル2:14)と言っています。また、受肉の出来事が聖霊の業であり、介入であったことが聖書には記述されています。 

 

生 涯・・・イエス・キリストご自身の生涯を見ると神がわかります。イエスご自身の教えや奇蹟は、みな、神の国の説教です。ヘブル書の著者は「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この世の終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1~2)と言っています。  

 

死・・・これは、言うまでもなく十字架の死です。このことについては、説明は、いらないでしょう。 

    

復 活・・・イエス・キリストが、本当に復活したか否かを論議する人がいつの時代にもおります。事実、イエスは復活したのです。パウロは、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから12弟子に現われたことです。その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われてくださいました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」(コリント15:3~8)と証言しています。 

 

 またパウロは、「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいるのです」とまで証言しているのです。ヨハネ20章を参照することも良いでしょう。  

 

昇 天・・・復活したイエス・キリストは弟子たちの目の前で昇天したのです。ルカは、「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」(使徒の働き1:9)と証言しています。ある人々はこの様子について、「彼らは幻か夢でもみていたのであろう」と言います。しかし、その事実はありません。この出来事を幻か夢の次元で取り扱うことは、聖書の正典性を否定することになります。この昇天も歴史的事実なのです。  

 

 こうして見てみますと、驚くべきことに気がつきます。それは聖書の著者たちこそ、受肉を除いた全ての目撃者であるということです。手でさわって目で見た弟子たちが、イエス・キリストの事実を証言しているのです。これほど間違いのないことはないはずです。受肉の出来事を見ていなくても、もはや問題にはなりません。受肉も出来事の確かさが理屈ではなく歴史的事実であることがわかるのです。ですからイエス・キリストの生涯を見ると、神がわかるのです。神を知るための近道は、聖書を読むことなのです。  

 

《イエス・キリストの事実の証言としての聖書》  

 

 聖書の問題については第1章において述べていますので簡単な説明で良いでしょう。聖書そのものが啓示の書なのです。聖書を読むとキリストがわかってきます。 

 

 聖書を通し、イエス・キリストの生涯を見ると神がわかるのです。そして人は救いに至るのです。ローマ法皇の文書の中に、「全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神の御旨に沿った平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように」という祈りの言葉がありました。たしかに対話や尊敬することは大切です。しかし、それぞれの神を承認することは絶対にあってはならないのです。なぜなら唯一の神は、三位一体の神しか存在しないからです。イエスを救い主と信じない者がどうして神の御旨に沿った平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができるでしょうか。共に働くためのテーブルを「平和」という言葉で作っているに過ぎないのです。聖書の言う平和(シャローム)は、神との平和です。ですから神との平和の次に他者との平和が生まれるのです。  

 

 世界の平和は、軍事力の緊張関係によって保たれているのです。十字架の命によって保たれているのではないのです。特に日本人の平和についての概念は、「今も明日も何も変わらない」という理解です。ですから文化や民族によって平和の概念が違うのです。神との平和こそが全てではないでしょうか。

 

 したがって、私はローマ・カトリック教会は寛容なのでも幅があるのでもない。正典としての聖書に対して不忠実であると理解します。またプロテスタント教会は、「排他的である」という声を聞きます。そうではないのです。排他的ではなく、正典としての聖書を神の言として忠実に守り、維持しているのです。つまり排他性とは純粋性なのです。

 

 お互いに教会と信仰の正統性の根拠がどこにあるのかをしっかりと理解し、そこに立ち続けたいものです。

 

 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。(使徒の働き4:12)

 

引用文献

 

.第2バチカン公会議 公文書全集  197~200  南山大学監修  中央出版社

 

参考文献

 

.キリスト教入門≪自修用≫上  グルドフ著  エンデルレ書店

 

.キリスト教入門≪自修用≫下  グルドフ著  エンデルレ書店

 

.救いの協力者聖母マリヤ   スキレベークス著(伊藤庄治郎訳)  聖母文庫

 

.カトリックの終末論  里脇浅次郎著  聖母文庫

 

.キリスト教とは何か 現在カトリック神学基礎論 カール・ラーナー著(百瀬文晃訳)  エンデルレ書店

 

.第2バチカン公会議 公文書全集  南大学監修  中央出版社

 

.新カトリック教理  J・ヴァン・ブラッセル著(山崎寿賀訳)  エンデルレ書店

           

.カトリックとプロテスタント  ホセ・ヨンパルト著  中央出版社

 

.戸塚文卿著作集 1 カトリック読本   小田部胤明編  中央出版社  

 

10.戸塚文卿著作集 2 カトリック読本   小田部胤明編  中央出版社  

 

11.新聖書注解 1 旧約  いのちのことば社

 

12.新聖書注解 1 新約  いのちのことば社

 

13.新聖書注解 2 新約  いのちのことば社

 

14.新聖書注解 3 新約  いのちのことば社

 

15.日本基督教団 口語 式文  日本基督教団出版局

 

16.式 文 キリスト教聖礼典および諸式文  日本同盟基督教団

 

17.第2バチカン公会議 公文書全集 南山大学監修  中央出版社

 

18.福音主義キリスト教とは何か  宇田進著  いのちのことば社

 

19.旧約諸論  尾山令仁著  聖書図書刊行会