サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第26章 力を尽くして安息に入る 

 

~安息に入るクリスチャンと安息に入れないクリスチャンについて~ 

 

【テキスト】へブル人への手紙4:17

1.こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

2.福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

3.信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

4.というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

5.そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

6.こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

7.神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

 

本日は「力を尽くして安息に入る」という題でメッセージをしたいと思います。テキストを順に見ます。

 

1.こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

 

ヘブル書の記者は、かつての日のこと、モーセの出エジプトの記述、事柄を持ち出し、この約束は、まだ残っている、これからの時代のことであること、また、この安息に入れない人がこの後、いることを語りました。

 

それで、このこと、かつて起きた出エジプトの事柄、安息に入れない人々がいたという事柄は、実は、過去のことにとどまらず、未来のこと、恐らく終末の日に関わる事柄であることを私たちは理解できるのです。

 

彼はこのこと、神の安息は残っているのに、なおかつこれに入れない可能性について語りました。そして、聖書の中で、ことさらに警告されていることには、我々は恐れを持ち、警戒と警告の思いを持って対応すべきと思われます。それは、そう書かれていても、やっぱり安息に入れない人々が出る可能性があるからです。

 

 

 

 

というよりもこれからの時代は「安息に入れない」、すなわち、果てしのない行いと奉仕と、仕事に熱病のようにうかされ、走り、ばく進していくクリスチャンが沢山起きてくる時代になるからです。  

 

彼らは今、エホバの証人の人々が、月100時間の野外奉仕だの、何だの果てしのない奉仕にまい進し、しかも救いを受けていないと同じように、いえ、さらなる果てしのない、奉仕へと駆り立てられるようになるでしょう。また、カトリックの人々のように救いを得るために果てしのない善行の奔走するようになるでしょう。

 

2.福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

なぜ、彼らは愚かにもそれらに奉仕の狂奔に巻き込まれていくのでしょうか。果てしのない、断食、奉仕、善行、実行に駆り立てられ、しかも心には焦燥感のみ、安息のない状態に入るのでしょうか?その理由を聖書は、「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」と語ります。何を言っているのかと言うと、このような果てしのない奉仕やそれを駆り立てる扇動に簡単に乗せられるその理由は、彼らが神のみことばを持っていても、それを「信仰によって、結びつけて」いない、すなわち、みことばを持っていても、そのことばをろくすっぽ信じていない、気にとめていない、本気にしていない、だから易々と惑わされるのだと言うのです。

 

このような言い方に語りかけるものがあります。また、みごとに現状を反映しています。第三の波系の教理は惑わし、偽りであり、いずれ、これを受け入れる人々を果てしのない奉仕へ駆り立てるものですが、これを受け入れ、惑わされる人々の特徴は他でもない「神のことばなど信じていない」「神のことばの警告など本気にしていない」人々だからだと言うのです。

 

そんな馬鹿な、こじつけだと思うかも知れませんが、他の例を考えれば、この言い方には一理あることが分かります。安息に入らない、すなわちせっかく聖書を読みながら、その聖書に約束されている神による平安、安息、安らぎに入らない、ただ、馬車馬のように果てしのない、終わりのない奉仕に明け暮れる宗教の一つの例は、ものみの塔の教えでしょうか。

 

彼らがこのように果てしのない奉仕に入る、安らぎのない信仰生活に入ってしまうその理由は何か?

 

もちろん、この教団の偽りの教理に問題があるのですが、しかし、それだけではありません。もう一つの理由はこの教団の信者たちが、聖書のことばを文字どおりに信じていないからです。

 

そう言われたら怒る人もいるかもしれませんが、しかし、それでもそのように語る聖書のことばのほうが正しいのです。

 

何を言っているのかと言うと、たとえば、聖書は以下のように救いは信仰によること、また「自分自身から出たことではなく、神からの賜物」であることを語っています。

 

参照 エペソ人への手紙2:8

8.「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

 

しかし、ものみの塔の人々はこのことばを信じず、聖書の言い方をするなら、「信仰によって、結びつけられなかったから」果てしのない行い、仕事、すなわち、安息からかけ離れた不安と焦燥の信仰生活に入っていくのです。

 

3.信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

 

「信じた私たちは安息にはいるのです。」と書かれています。ですから、ここで言われているのは、2種類のクリスチャン生活に関する事柄なのです。クリスチャンを分類するのに色々な方法があるかもしれません。ある分け方は、カトリックとプロテスタントの区分、さらに教団や教会による区分もあるかもしれません。しかし、ここでは、それ以外の分類について語られています。

 

それは、

1.安息に入ったクリスチャン

2.安息に入れないクリスチャン

以上の2つです。

 

そして、ある意味ではこちらの方がずっと重要な分類かもしれません。

 

信じた私たちは安息に入るのですが、是非、その安息に入ることを求めましょう。たとえば、ウォッチマン・ニー兄弟により書かれた「キリスト者の標準」は、私たちが行いによらず、信仰により安息に入ることを扱った、また、説明する良い本です。

 

「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。

 

さて、ここで恐ろしいこと、ある種のクリスチャン、神の怒りを買うクリスチャンに関して書かれています。そして、彼らは神のことばを信じず、神をまこととしないため、その結果、安息には入らせないと神は語られているのです。

 

もし、神が怒りを持って、そのように定めたなら、すなわち、ある人を安息に入れないと定めたなら、誰が安息に入ることができるでしょうか。本当にこのことは恐ろしいことです。

 

カトリックや、ホーリネス系の教会は、罪が許されるために、人の前での告白が必要であると説きます。しかし、これは行った人から聞く限り、辛い行いです。誰だって、人前で罪など言いたくないからです。そして、たとえある日、罪を告白したとしても、私たち人間は次の日には、また、罪を犯してしまいます。

 

そう、このような方法、人前で告白しないと罪が許されないとするなら、その人は一生涯の間、果てしのない行い、罪の告白を続けなければならなくなるのです。これも、安息のない、行いです。聖書はそのようなことを命じていないのですが、この誤りに入るなら、これも安息のないクリスチャン生活です。

 

また、ホーリネス系の教会では、きよめという段階、救いより高いクリスチャンのレベルがあると語ります。時には完全なきよめなどということを言います。これは、欧米のクリスチャンの間では、異端とされる教理です。なぜなら、パウロはそのような考え方を否定して、「私は既に得たのでもなく、完全にされたのでもない。ただ、これを得ようとして求めている」とだけ、述べました。それなのに、完全なきよめなどと誰が言い出したのでしょう。フリーメーソンだとの噂の高い、ウェスレーあたりですか。

 

完全なきよめ、高い霊性とピエタニズム(敬虔主義)と言い、何か良さそうですが、しかし、これも騙されたクリスチャンをひっかけ、安息を奪うための巧妙な罠であることを知ってください。これに惑わされる人は終わりのない行いと決して安息に到達しない、律法的な焦燥のクリスチャン生活に入っていくでしょう。

 

人はこの世において、完全なきよめなどには入りませんし、パウロも聖書もそんなことを語ってはいません。

 

まともに神のことばを信じず、ことばを聞いても、「信仰によって、結びつけられなかった」人はこのような惑わしに入っていきます。たとえウェスレーだろうとルターだろうと、はたまた、中田重治だろうと、W.ニーだろうと、誰が語ったとしても、みことばと異なった教えを受け入れるべきではありません。

 

4.というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

 

さて、安息に関連して「7日目」に関して聖書は語ります。ですから、このこと、クリスチャンを安息から引き離す、扇動、迷わし、「まだ得ていない、これを得なければ御国に入れない」などの惑わしが大々的にキリスト教会に巻き起こるのは実は7日目、7つ目のミレニアムなのだということを我々は理解しなければなりません。だからこそ、聖書は安息と関連してただ一つの日のみを挙げ、それが7日目なのです。7日目、すなわち、今我々がいるミレニアムは「神は・・・七日目に休まれた。」という日なのです。それで、この時代に新しく神が今まで聞いたことのないわざを始めるのだなどと言う人々は間違った教えを言っているのだと理解してください。私はピーター・ワグナー、オーチスだのが言っている、ニュースイング(new thing)、パラダイムシフト、リニューワル、トランスフォーメーション、キングダムナウ、再建主義等について語っているのです。

 

5.そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

 

神が7日目に休まれたこと、それと共に、安息に入れない人のこともここで書かれています。何を聖書は言っているのでしょう。言わんとしているのはこういうことです。すなわち、7日目、7つ目のミレニアムは、神が安息の日に定めた、しかし、神の怒りを買う人、神のみことばを偽りとし、曲解する人々は裁きに入り、「安息から外されてしまう」そのことを言っているのです。安息から外されるとは、要するに仕事、行い、限り無く行いに縛られるクリスチャン人生に入っていくと言っているのです。

 

たとえば、統一教会のように限り無い奉仕と行いに入っていくことになります。彼らは、95%の神のわざ、5%の人のわざなどとの、インチキ教理に騙され、花売り、壺売り、財産寄付、合宿による奉仕活動など、限り無い行いをなしています。絶頂を超えよ、などとトンでもないスローガンを行う、嘘つきオヤジ文鮮明の妄言集、間違えを何度も改版する情けない教典、原理講論の嘘つき教理に騙され、ろくに聖書を読んでいないため、愚かな行いの中にはいっているのです。その上、それらを行っても、いまだに達成すべきところにも達していないと思える、安息のない信仰生活を行っています。

 

そして、7日目に惑わされる人は、監獄宗教、統一原理のようなクリスチャン生活に入ると聖書は語っているのです。

 

6.こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

 

この7日目、今の7つ目のミレニアムの時代、限り無い行いの呪いと安息のないクリスチャン生活に入っていく人々はどのような人々でしょう。変身した、神に近付いた、などと思い込まされ、実質ラオデキヤ状態になり、富んでいる、豊かになったと思い込んでいるが、神の目の前には、貧しい、みじめな者としか見えない愚かな人々、彼らはなぜ、そのように惑わされ、安息に入れないのでしょうか?その理由は、「不従順のゆえにはいれなかった」と聖書は語ります。

 

不従順?すなわち、神のことばを行わないことです。兄弟を憎む者は人殺しであると書かれているのに、兄弟を呪い、悪口雑言を語り、罵るなどをすべきではありません。

 

神のことばを守らず、語りかけに不従順な人々は、この惑わしに入り、安息には入れません。

 

そのような人々が、このミレニアムには沢山出てくるようになるでしょう。彼らは、自分はどんどん霊的に豊かになっている、富んでいると思い、あらゆる、奉仕、行いに入るのですが、しかし、それは、空しい騙し事であり、彼らの実質は貧しいものです。

 

そのような人々が大量にあらわれる日を預言して、黙示録はラオデキヤの教会について語っています。

 

彼らは自分たちの奉仕、行いを自画自賛して「豊かになった、乏しいところはない」と言いますが、それは、ただ、惑わされているのに過ぎず、神は彼らを貧しい者、みじめな者と呼びます。

 

彼らは第3の波系の窓わしを「見るによく、食べるによく、賢くなるのにふさわしい」と思って受け入れるのですが、それは、彼らから安息を奪います。彼らが惑わされるのは、なぜか?それは、かつて蛇に惑わされたエバが「この実を決して食べてはいけない」と言われた方のことばに不従順であったからであるように、彼らも神のことばに対して不従順だからです。それゆえ惑わしに入るのです。不従順なエバの目には、死に至らせる木の実が、「見るによく、食べるによく、賢くなるのにふさわしい」ものと見えたように、彼らにとってもこの惑わしがすばらしい信仰生活に入らせるもののように見えるのでしょう。

 

7.神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

 

ここでは、安息日に入る、入らないということは、昔すでに終わったことではなく、ある先の日、未来に関することであると語っています。それは、「長い年月の後の日」のこと、そう終末の日の型と思われます。この日にも安息に入る人と入らない人とがあります。入らない人のその入れない理由は?それは、彼らの心が頑なであり、また、不従順だからです。

 

具体的には不従順とは、どのようなことでしょうか?それは、出エジプトの日に荒野にしかばねをさらした人々のことであり、彼らがその不従順な人々の例です。

 

彼らは水がない、パンがない、エジプトが良かったのに、などと、何しろブツクサブツクサ不平ばかり言っています。彼らは、教会に来ては奉仕ばかりで大変とつぶやき、また、ちょっと教会を休んだからといってすぐ連絡をよこすのは、おかしいなどブツブツ何でも文句をいう現代のクリスチャンの型です。噂では、どこかの国のキリスト教雑誌では、そんなクリスチャンの不満を増長、増幅させるようなマンガ記事が掲載されていると聞いたこともありますが、本当なら困ったことです。

 

また、かつての日、神が遣わされたモーセの権威に逆らい、あらゆる反抗をした人々も同じく、安息には入りませんでした。今の時代も教会の牧師や教師を侮り、信仰的な虐待を受けたなどと、色々不満を言うことが多いようですが、しかし、神のことばが正しければ彼らは安息には入れないでしょう。この時代にこれから起きる熱狂的な行いのムーブメントに巻き込まれ、安息を見出すことはないでしょう。

 

このような人々は心が頑なになり、うなじが怖く、神のことばに聞き従うよりは、あらゆる屁理屈をつけることを選び、何一つみことばに従おうとしない人々です。彼らを惑わすために7日目、このミレニアムには、安息を奪う仕事、すなわち、あらゆる行いを強調する罠が仕掛けられていることを知りましょう。みことばに従わない不従順な人々はそれに陥ります。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-