サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第29章 再び行いに入るペテロ(1)

 

~キリスト・イエスにある自由を守るため、行い主義に対し、妥協、譲歩してはならない~ 

 

【テキスト】ガラテヤ人への手紙2:110

1.それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。

2.それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。

3.しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。

4.実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。

5.私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

6.そして、おもだった者と見られていた人たちからは、・・彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。・・そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

7.それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。

8.ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。

9.そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

10.ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。

 

本日は、「ふたたび行いに入るペテロ」という題でメッセージしていきたいと思います。

かつての日、ケパすなわちペテロが再び行いに入ったことをパウロはガラテヤ書の中で記しています。このことの意味合いを見ていきたいと思うのです。

 

テキストに沿って見ます。

 

1.それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。

2.それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。

 

パウロは、「異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示した」と言います。彼は福音について語っているのです。福音は吉報であり、グッドニュース、良い知らせです。良い知らせとは、救われるために、我々がもう重荷を負わなくてもよいという知らせ、神の前に山程の善行を積まなくても正しい者とされるという吉報のことです。

 

「私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした」

 

彼、パウロはこの吉報の伝達者であり、その知らせを述べ伝えてきたのです。

 

3.しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。

 

ここでパウロは割礼のことを語っています。割礼の意味合いは何でしょうか?割礼は、アブラハム、イサクの時代から、ユダヤ人が守ってきた儀式です。ある人が割礼を受けるということは、その人が律法の命じるあらゆる教え、規則に従う道を選ぶという意味合いがあるようです。

 

この時、ギリシヤ人テトスは割礼を強いられませんでした。すなわち、彼は律法のあらゆる要求を行う道を選ぶように強制されなかったのです。これは福音であり、幸いです。なぜなら、律法により義とされることを求める道は行いの奴隷の道だからです。

 

4.実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。

 

 

 

 

ここに「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込む」偽兄弟について書いてあります。このことは大変語りかけのある、示唆のあることばと思えます。私たちがキリスト教の歴史を顧みるなら、まさしく、「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込む」偽兄弟が多くいることが理解できます。あの異端、ものみの塔は、まさしく、クリスチャンから、「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込んだ」偽の教えです。

 

彼らは巧妙に聖書を改ざんし、行いを強調します。その結果この教えの信者は、数多くの規則に縛られ、果てしのない奉仕、行いに追い立てられる生活に入っていきます。彼らは「キリスト・イエスにある自由」ではなく、行いの奴隷に入っています。

 

カトリックにも巧妙に「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込んだ」教えがあり、この教会の信者は、限り無い行いの中にあえぎ、ある者は神の前に義をあらわすために、膝で巡礼するという苦行を行っています。彼らは行いの奴隷であり、「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込んだ」偽の教えに惑わされています。プロテスタントにも「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込んだ」偽の教えがあり、たとえば、ホーリネス系の教団では、完全なきよめという異端まがいの教え(これは欧米では異端とされている)に基づき、人前での悔い改め等の奴隷的行いが語られています。

 

5.私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

 

行いを強調し、「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込んだ」人々に対して、パウロは、一時も譲歩しなかったことが描かれています。このスタイル、この方法こそが、パウロの後に従い、福音に忠実に歩もうと志す、全ての人が取るべき方法であることを覚えてください。

 

今のキリスト教会を見るなら、一時どころか、永遠にいつでも常時「譲歩している」人々が沢山います。なぜ日本のプロテスタントの中には、カトリックの行いの教理を非難する人、すなわち、「キリスト・イエスにある自由」を否定するカトリックの行い中心主義を非難し、問題を指摘する人々がいないのでしょうか?それは、彼らが常に譲歩し、キリストの前にも神の前にも役立たずだからではないでしょうか。

 

それどころか、プロテスタントには、このようなカトリックに対して一言の注文もつけず、完全な妥協である、エキュメニカルの道を選ぶ教団、教会が多いのです。愚かな役立たずな神学校の中には、このような欺瞞的(ぎまんてき)なエキュメニカルを推薦、推進している人々さえあります。

 

その中でも、ルターの名前はあるが、その実際からは遠く離れ、エキュメニカルの道を遁走するアメリカルーテル派など、「いつでも何でも譲歩」の最たるものでしょうか。彼らにはルターの後継者と呼ばれる資格もパウロの後継者と呼ばれる資格もありません。

 

「それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」

 

福音の真理が保たれ、存続するためには、譲歩をしないこと、すなわち、戦うことをパウロは語っているのです。教会と戦いという2つのことばは似つかわしくないように思えるかも知れませんが、それは、今の「偽善的な時代の教会」だけの話です。戦いの将であるヨシュア、ダビデの昔から、また、キリスト・イエスの兵卒と語ったパウロの時代からこのかた、主のしもべと戦いは切り離せません。私たちが福音の真理を保つつもりがあるなら、私たちは戦わなければならないのです。

 

敵が自国へ押し寄せて来たとき、その国が平和主義に徹し、戦わなければ、敵は街を奪い、人々を奴隷にし、また城を破り、王をとりこにするでしょう。しかし、戦うなら、それらをとどめることができます。

 

敵が「福音の真理」を崩すべく、「行いの教会」カトリックを是とする新共同訳などのエキュメニカル的な方策を仕掛けてきた時、この国の教会には、誰一人戦う人はいませんでした。その結果、エキュメニカル良し、カトリック良しの風潮はこの国の教会を覆い尽くしました。この国の教会は譲歩で満ち、「キリスト・イエスにある自由をうかがうために忍び込んだ」人々は大成功をおさめているわけです。

 

6.そして、おもだった者と見られていた人たちからは、・・彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。・・そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

 

 

ここで、パウロは、おもだった人たちが、「何もつけ加えることを」しなかったことを語っています。福音の真理や、「キリスト・イエスにある自由」に関しての話の中で、突然のように、「何もつけ加えることをしない」ことが書かれているのです。これらのことばがそれぞれ関係しているようにも思えます。これらは関係しています。

 

敵がクリスチャンから、「キリスト・イエスにある自由」を奪い、福音の真理をくらませ、人々を奴隷にする時、その方法は、「何かをつけ加える」という方法であることを覚えてください。

 

たとえば、統一教会の教えは、青年をマインドコントロールした奴隷とし、お金も時間も青春をも奪う、恐るべき奴隷宗教なのですが、その方法は「聖書の教えに何かを加える」という方法です。彼らは、「神はたしかに恵みの神、あわれみ深い神で人を助ける」と言います。ここまでは聖書と同じです。しかし、彼らはこれに付け加えてこう言います。「神が95%を成してくださる。しかし、人は5%をなさねばならない」そう付け加えるのです。

 

5%は少ない数字のようですが、しかし、この付け加えられた5%の負担が信者を限り無い圧迫、強制、奔走、奉仕へと駆り立てていくのです。

 

同じようなことをカトリックでも言います。彼らは一応、「救いは恵みによる、信仰による」と言う教義は正しいと言います。しかし、それにとどまらず、「行いにより、罪を償う」という教えを「付け加える」のです。そして、この教えが信者を果てしのない行いに駆り立てていくのです。

 

また、これから起きるはずの「第3の波」を起点とした惑わしにおいても、聖書に付け加えることが頻繁に行われるでしょう。その中で、「神のようになる」「完全な聖に達する」「不死に至る」などと、聖書の上に付け加えられた教理をすっかり信じ込み、行いの重荷に入る人々があらわれるでしょう。

 

7.それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。

8.ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。

9.そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

10.ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。

 

ここで書かれていることは、パウロの教理、教え、すなわち、キリスト・イエスにある自由を守ること、行い主義に入ることに対して戦うことは、その当時の教会、ペテロ、ヨハネたちから、明確に認められた事柄であるということです。ですから、今の時代、この聖書の記述を読みながら、なおかつ行いの奴隷の中に入るべきではないのです。

 

まとめますが、パウロは、キリスト・イエスにある自由を守るために、妥協せず、譲歩せず、戦いました。この態度こそが、真のキリスト・イエスのしもべが持つべき態度であることを知りましょう。

 

本日はここまでにします。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-