サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第31章 神より人を思うペテロ 

 

~ペテロをサタンと主が呼んだことばは、未来の日に起きてくるこの教会(カトリック)の現実を預言したもの~ 

 

【テキスト】マタイの福音書16:2127

21.その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

22.するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

23.しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

24.それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

25.いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

26.人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

27.人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

 

本日は、「神より人を思うペテロ」との題でメッセージしたいと思います。主がペテロに対して言われた「神のことを思わないで、人のことを思っている」とのことばを見ていきたいと思っています。

 

 

 

 

新約聖書には、使徒ペテロに関するいくつもの記述があります。このことを通して聖書的に、ペテロが重要な位置を占める弟子であることは推察されます。ペテロは筆頭弟子として、すばらしい言葉を語り、すばらしい行動をしているのですが、しかし、一面、問題のある言動もあります。

 

彼、ペテロの言動はシモンペテロという個人の言動をあらわすことはもちろんですが、しかし、それと共に、ペテロの後継者と称する人々、歴代の法皇が支配してきた教会、カトリックに関する予表とも理解できます。この視点に沿い、この箇所を理解したいと思います。テキストに沿って見ます。

 

21.その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 

この日、主イエスは、自分が「エルサレムに行く」こと、さらに「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受ける」こと、その上「殺される」ことまで語りました。このことは勿論人間的には楽しいことではないのですが、しかし、主は神の小羊として贖いの死を遂げようとされていたのです。

 

22.するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

 

その時、驚いたことには、弟子の一人であるペテロがあろうことか、教師であるキリストをとどめ、「そんなことがあなたに起こるはずはない」といさめ始めたのです。このことはまさに主客転倒であり、ペテロは出過ぎたことをしてしまったのです。彼は人間的には愛すべき人物なのでしょうが、しかし、自分の領域を超え、キリストをいさめて説教するというびっくりするような逸脱を行ってしまいました。

 

このことは過去、現実にシモンペテロという人を通して起きたことですが、しかし、それと共に預言的な意味合いもあると思えます。すなわち、ペテロの後継者を自称するカトリック法皇も、あろうことか、自分の分、地位を逸脱し、場合によってはキリストに説教をたれる、そんな位置にまで自分を高めるという預言かもしれません。

 

そんな馬鹿な、言い掛かりだという意見もあるかもしれませんが、しかし、カトリック教会の歴史を見るなら、ペテロの後継者、すなわち、法皇達の言動はかつてのペテロのようにキリストに説教をたれるかのような多くの逸脱、思い上がりに満ちています。

 

たとえば、法皇は自分を「無謬」だと言います。間違いがないのだと言っているのです。すごい思い上がりです。ペテロは随分偉くなって間違いのない方、キリストと、もう対等の位置を持っているわけです。しかし、困ったことには、そんな偉い法皇、間違えることはないと豪語する法皇達のことばは互いに矛盾しています。すなわち、法皇Aと後代の法皇Bの教理は互いに矛盾しているのです。どちらも間違いがないとするなら、この教理の矛盾は何なのか、説明がつかないのです。

 

また、この教会のペテロの後継者こと、法皇は、キリスト・イエスのことばに介入し、それを人間的なもの、人の思いに合わせたものと変えています。たとえば、地獄の存在に関してキリストは、「そこではうじは消えず、火は絶えることがない」とその存在を肯定、説明しています。しかるに、しゃしゃり出たペテロこと、ローマ法皇は、「地獄は実際には存在せず、ただ、あなたがたの心の中にのみ存在します。」などと、キリストのことばをとどめ、説教をたれ、改ざんしているのです。これは今のカトリックで語られている教理です。何ともはや、驚くべき、思い上がりです。

 

23.しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 

ペテロがキリストのことばをとどめたその行為を我々はどう理解すべきなのでしょうか?我々もキリストが「非常識な」こと、人間的に受け入れられないことを言ったら、ためらわず、ペテロのようにとどめるべきなのでしょうか?この節がその答えであり、キリストはペテロの介入をサタン扱いし、厳しく非難していることを我々ははっきりと理解すべきです。

 

さらに理解すべきことは、ペテロのいかにも、人間的には受け入れられやすそうな、その介入をさして、キリストは明確にそれはサタンからのもの、キリストの邪魔をしている、妨害をしていると明言していることです。

 

繰り返します。ペテロのキリストのことばへの介入は、

1.サタンからのものであり、

2.キリストの働きを妨害しているのです。

このことは、ペテロの後継者と称する人々によりリードされるカトリック教会の現状を理解する大事な御言葉です。

 

私たちは下手な友好論やら、また意図のあるエキュメニズムになどに立たず、神がこの教会をどのように理解しているのかという視点に立ち、カトリックを理解すべきなのです。

 

神はペテロの働きを「サタンからのものであり」「キリストの働きを妨害している」と述べました。そして、驚くべきこと、また、悲しむべきことには、カトリック教会とはまさにそのような教会なのです。

 

サタンということを考えてみましょう。キリストは筆頭弟子であるペテロを明らかにサタンと呼ばれました。牛と呼んだのでもキリンと呼んだのでもなく、サタンと明らかに呼んだのです。ですから、私たちがペテロの後継者をもって任じる人々によりリードされるカトリック教会とサタンの結び付きを考えてみることは正当であり、まさに聖書的です。

 

この教会を調べるなら、多くのサタン由来としか思えない、怪しげな事柄が出てきます。あるカトリックの人々は、何と黒ミサ、サタン礼拝に興じていると聞いたことがありますが、さもありなんと思われます。

 

よく予言が外れるマリヤの霊、また、像から血の涙を流すマリヤ像などはキリストへの信仰を他へずらすために用いられていますが、これも、神からというより、信仰逸脱を狙うサタンからと思ったほうが正しいでしょう。

 

行いを強調し、主の贖いのわざをないがしろにする教理、地獄はない、裁きはない、創世記は神話、進化論は科学的、要するに聖書には間違いがあるなどとの多くのカトリックのとんでも教理もみな、神からというより、サタン由来のものです。

 

この教会に働く霊もおかしく、カトリックカリスマ運動もマリヤ礼拝を否定しないものであり神からとは思えない、ということは要するにサタン由来なのです。

 

また、聖書を翻訳した人を死刑に処するなどのこの教会の歴史もまたサタンのものと言えるでしょう。

 

そうです、いみじくもペテロをサタンと主が呼んだことばは、偶然でも、辛らつでもなく、未来の日に起きてくるこの教会の現実を預言したものなのです。イエスを主と呼び、キリストの筆頭弟子を自認するペテロが悲しいかな、この時、サタンそのものになってしまったように、キリスト教会各宗派の筆頭であるカトリック、ペテロの後継者を自認する人々により率いられる教会が悲しいかな、サタンの思いを行うということは、残念ながら、現実に成就している預言なのです。

 

どんなに私たちの理性や常識が受け入れられなくても、しかし、いつでもどんな時でも神のことばが正しいのです。ですから、この教会の理解に関しても聖書のことばが正しく、ペテロの後継者に率いられる教会がサタン化する、この教会、カトリックの教えに忠実な人々を皆、そこ知れぬところへ引っ張り込むということが正しいのです。

 

ですから、嘘つきピーター・ワグナーやら、フリーメーソンであるとの噂の高いビリー・グラハム、ビル・ブライト等が提唱するエキュメニカル、カトリックの一致に御心があるわけではありません。

 

ましてや、福音的な教会に難癖をつけて、何でもかんでもカルト扱いしようとし、そのくせ、カトリックの問題点に口をつぐむ、アメリカを中心にはびこる色の白い、偽ユダヤ人主導の「カルトハンター」などの後についていくべきではありません。自分の恨みをはらすことに気をとられ、教会に忍び込んだ嘘つきユダヤのたわごとを真に受け、聖書に何の関係もない、「カルトチェック表」なるものに振り回されるクリスチャンになるべきではありません。

 

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 

この時のイエスのペテロへのことばはどれも暗示的です。また、預言的です。このことば、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とのことばも同じく預言的なのです。なぜなら、くすしくもいみじくも、この教会、ペテロの後継者により主導されているカトリックの特徴は。また、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということばに尽きるからです。彼らの教え、カトリックの教えは、人間的なもの、神より人間中心の教えに満ちています。進化論はあまりに科学的、すなわち創世記は、神話だなどとの教えはまさに人間に迎合しており、神のことば、神の立場には立っていません。また、人間が嫌いな地獄に関しては、「地獄はあなたの心にはあるが、実際には存在しません」などと存在を否定する教えもまた、嫌なことを受け入れない人間主義そのものです。

 

さらにあの惑わされた女、マザー・テレサが信じ、実行していた教え、「ヒンズー教徒も仏教徒も死ぬ前にキリストを受け入れ、クリスチャンになる必要はない。彼らはそのままで、神に受け入れられる(?!)」などとのトンデモ教理、多元主義も、要するにどの宗教からも受け入れられやすい、決して宗教的に非寛容だとは言われない教えですが、しかし、要するに人間の教え、人のことを考えた教えです。神のことばを決して曲げないという、堅い信仰には立っていません。それどころか、この教え多元主義は、サタン由来の教えであり、「天下に救われる名はこの方以外ない」と言われたキリストの救いを人々から奪うものなのです。

 

24.それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 

これらの「人の耳には心地よい」多元主義などを選ぶ人々は、キリストの十字架なんて何の関係もない人々です。しかし、これらの偽りに断固として戦い、この教会にその偽りを知らしめることは、人から非難され、「自分の十字架を負う道」です。この道は、人からも非難されるでしょうし、特にキリスト教会を自分たちの思惑に沿って誘導しようとする、不遜な考えを持つ怪しい外人(ユダヤ系?)などには、大いに非難されるでしょう。しかし、主はこの時代を見据えてそのように、十字架を負う歩みについて語ったことを忘れてはいけません。

 

25.いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

26.人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 

愚かなペテロ、神のことより、人のことを思っているペテロに対して、主は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と語りました。ペテロの言う、十字架にはかからない、困難には会わないという道は、人の耳には心地よく、人間受けはするが、しかし、まことのいのち、永遠の命には至らない道であることを語っているのです。

 

今のペテロ、ローマ法皇に従う人々もこのことばをよくよく、考慮することが必要と思われます。

 

ローマ法皇の語る道、地獄はない、ヒンズー教も仏教もよしとする道はこの世で一般受けがし、この世の命、平安を受ける、すなわち、「いのちを救う道」なのです。しかし、これらの人々は、その命を結局は失い、まことの命、永遠の命に至らないことをこの箇所は明言しています。

 

かつての日、サタン呼ばわりされたペテロの道、人のことを思う道は、まことの命、永遠の命に至る道ではありませんでした。同じく、現在のペテロ、ローマ法皇に従う道もサタンの道であり、人のことを思う道であり、それは神の道、まことの命に至る道ではないことをはっきりと悟りましょう。

 

27.人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

 

そうではあってもこれからのこの世においては、また、既にこの世化されたキリスト教会においては、ますます現在のペテロ、ローマ・カトリック主導の人間的に心地よい教えが幅をきかすでしょう。ヒンズー教よし、仏教よし、救いはキリストのみでないというトンでも教理が巾をきかすようになるのです。逆に聖書に堅く立ち、キリストに堅く立つ人々は、宗教的に非寛容などともっともらしいレッテルの下で非難、迫害されるようになるのです。そう、その日をさして聖書は、終末、艱難時代と呼んでいるのです。

 

しかし、その日、主に従う人々が覚えておかなければならないのは、ここに書かれているように、「人の子が父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしている日」が来ることです。

 

悪徳非道を尽くしたギャングたちも永遠にのさばるわけでなく、いずれ出現する警察官につかまり、情けなくもその罪の酬いを受ける日が来るように、これから始まる艱難時代の混乱にもいずれ、報いと決着がつく日が来ることを知るべきです。

 

全く混乱した時代、すなわち教会においても正義が非道と言われ、非道が賞賛され、聖書、キリスト冒涜がほめられる艱難時代の逆転状態が長く続くわけではなく、いずれ、これらに裁きが下される日が来るのです。聖書全巻はそのように証します。

 

我々はその日を見越し、「その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」と言われる方に対して忠実に歩みましょう。すでに、主は明確にペテロの道はサタンの道であり、人間のことを思い、神のことを思わない彼の道は永遠の命には至らないことを明言しています。もう、このことに関しては議論の余地がないのです。

 

エキュメニカルの是非だの、カトリックと同調するのかしないのかなどといった問題に関してはすでに聖書は明解な解答を下しており、後は、私たちがそれを行うか行わないかの問題のみが残されていることを知りましょう。

 

聖書の“せ”の字も読めない愚か者になってはいけません。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-