サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第52章 道 

 

~道は狭いが、私たちのこの世での目的は、永遠の命に至る場所、キリストの住まわれる天の住まいに行くこと~ 

 

【テキスト】ヨハネの福音書14:46

4.わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

5.トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

6.イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 

 

 

本日は、「道」という題でメッセージしたいと思います。テキストに沿って見ていきます。

 

4.わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

 

この箇所では、道について語られています。

 

道と言うと、「奥の細道」だの、散歩道だの、何だか、詩的で、文学的なイメージもありますが、ここで語られているのはどんな意味合いなのでしょう。

 

道は、何と関係しているのかと言うと、場所と関係しています。東海道は、江戸から、名古屋や大阪という場所へ向かう時に、使います。中山道を通っても大阪へは行けません。正しい道を使わなければ望む場所へ行けないのです。

 

東海道やら、中山道みたいに、目に見える道やら、地図のある道なら良いのですが、私たちにとっての問題は、本当に大事な道、後の世の道、永遠の命に至る道に関しては、目に見える道路標識も案内版も地図も無いようで、あまりはっきりしないということです。

 

事実、この世の多くの人が正しい道を選ぶことができず、広い滅びの道を選んでいます。下記に書かれたとおりです。

 

参照 マタイの福音書7:13,14

13.狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

14.いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 

ここで主が語っていますが、主イエス・キリストは私たちの信仰の模範であり、私たちはこの世でも後の世に関しても主についていき、主の行かれたところへ行くのが正しいのです。

 

5.トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

 

さて、ここでトマスは、イエスがどこへ行かれるか、その道が分からないと語っています。これは適切なことばであると思われます。私たちはどの道が正しいのか、どの道を行けば入るべき御国、また、永遠の命を得られるのか、よく分からないのです。

 

世の中の人は、全くこのことばの通りの状況です。人の道に起きること、目に見える人生で起きることは、周りの人の行う通りに、見よう見まねでも行うのでしょうが、しかし、この人生の後、どのようにして入るべき天の国へ入るのか、はたまた、永遠の命を獲得するのか、皆、分からないのです。

 

6.イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 

さて、ここで主は明確な解答を与えています。すなわち、主イエスこそが道であると語っているのです。

 

しかも、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」他には天の御国、永遠の命に至る道はない、「皆無」であることを断言しているのです。

 

ですから、誰も騙されてはいけません。あのマザー・テレサの語った愚かな方法、ヒンズー教徒であっても死ぬ迄クリスチャンになる必要は無い、ヒンズー教徒のままで神は受け入れて下さるなどとの愚かなことばに騙されてはいけません。

 

彼女は明確なイエスのことば、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とのことばを否定する異端者です。その彼女の間違いを指摘せず、逆に福者だか、聖者だか、崇めているカトリックは聖書を否定する異端教です。

 

そのようなおかしな信仰を持っていたマザー・テレサは、神と親しい関係を築くことができず、「私と神との距離はあまりに遠い」と語っています。彼女は、永遠の命と縁遠い信仰生活を送ったのです。

 

唯一の道、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われた方を認めず、他にも道があるとした彼女は、結局は行くべきところへ行けなかったと思うのが正しいでしょう。

 

彼女は失敗者の例であり、その後を追うべきではありません。

 

「私が道である」と主はいわれたのですが、そのように言われた時、起こり得る問題は、他の人を道としてとらえてしまうという誤りです。マザー・テレサの過ちは、このように言われたキリストではなく、ローマ法皇やら、カトリック教会やらを自分の「道」として選んでしまったことです。ヒンズー教徒も救われるとはローマ法皇の言うヨタ教理であり、こんな法皇を自分の道、正しい道と選んでしまった彼女は、かわいそうに、道を間違え、大いなる混乱と混迷と、誤りに入り、神と親しい関係も築けず、最後は空しく、救われているのかどうかも怪しい、おかしな信仰者として死んだのです。

 

プロテスタントでも同じような誤りがあります。「ことばは神である」と言われた方のことばに頼るより、ビリー・グラハムなどの器を自分の真理への道として選ぶ人々は多いのです。

 

結果、彼を通したあらゆる誤りに入り込み、行くべき場所、入るべき御国への道をも見失う人も多いのです。ビリー・グラハムは、カトリックには何も問題は無いと言いきり、エキュメニカルへとプロテスタントを誘った人物ですが、彼を道と崇め、結果、おかしなカトリック教理を受け入れたり、神父を呼び込んで訳の分からないカトリック教理をプロテスタント信者に聞かせている愚かな牧師も多いのです。

 

しかし、唯一の道はキリストであり、彼を道として選ぶ人に御心があります。

 

「わたしが・・・真理であり」

 

ここでは、キリストが真理であることが書かれています。真理とは抽象的なことばですが、本物という意味合いです。偽物ではないという意味があります。

 

キリスト教の一つのはっきりした特徴、一面は滅びに至る門は広い、そして、偽りが大いに入り込む可能性があるということです。麦の畑の中に毒麦が敵の手によって蒔かれたように、偽りが教会の中にばらまかれることは、残念ながら許されています。

 

しかし、唯一の本物、真理は、キリストであり、この方に目を留める人は惑わされません。

 

「わたしが・・・真理である」とのキリストのことばはよく知っていても、具体的な場面では、この御言葉を守らない人も多いです。

 

何を言っているのかと言うと、人の器の言うことを真理、本物ととらえ、それに合わない神のことば、キリストのことばは受け入れないということが往々にしてあるからなのです。

 

たとえばホーリネスにおいては、その創始者、中田重治という人が尊敬されています。彼は立派な信仰者なのですが、しかし、その言っていること、行ったこと全てが真理、すなわち正しい、間違いは無いとは言えません。100のうち90正しいとしても、残りには少し疑問のある部分もあるのです。

 

たとえば、日ユ同祖説、はたまた艱難前携挙説などです。

 

また、ウォッチマン・ニーという素晴らしい器がおり、多くの素晴らしい真理について語りますが、残念ながら、彼の言うこと全てが正しいとは言えないのです。逆におかしなこともいくつかあります。

 

たとえば、艱難前携挙説。さらに過剰に「兄弟の立場」なるものを強調し、中間祭司は不要との考えで、牧師等の働きを攻撃することです。

 

しかし、明らかに聖書は神の前に2種類の神の民がいること、弟子と群集の区分があることを語っており、彼の言う、兄弟の立場なるものを過剰に強調することは教会を「群集の声」で満たすことになり、こんなことには、御心はありません。非聖書的です。

 

それから、礼拝ではメッセージ、説教が不要である、各兄弟が語れば良いなどとの彼の訳の分からない主張は、ほとんど異端の教えです。

 

聖書は旧約聖書で、聖なるパンは、レビ人、神につく者しか扱えないことを語り、訳の分からない群集(兄弟)に、礼拝時、何でも好きなことを言わせるのは、神への冒涜です。彼を始めとしたブラザレン系の教会は、J.N.ダービーの嘘、真理ならぬ偽りを真に受け、訳の分からない混乱の中にいます。

 

悔い改め、神のことばの言うことに立ち返るべきです。

 

中田重治を崇めるホーリネス、ウォッチマン・ニー、J.N.ダービーやらを崇めるブラザレン系の教会は、それぞれ混乱と誤りの中にいます。

 

全てが間違っているとは言いませんが、彼らにはいくつか致命的な誤りがあります。その理由は、彼らが、「わたしが・・・真理である」と言われた方のことばに堅く留まることをせず、逆に他の名前、人の名前を持ち出し、それを真理、金科玉条の真理としたからです。結果、いくつかの致命的な惑わしに入り、今も抜け出せません。

 

まとめます。私たちはこの世で無意味に日を過ごすのではなく、行くべき目的の場所のある者であり、その場所は永遠の命に至る場所、さらにキリストの住まわれる天の住まいなのです。

 

そこへ行きたいのは、誰もやまやまですが、問題はその道が狭く、門も狭い、しかもそれを見い出す者は何と「まれ」であるということです。

 

その道は、実はキリスト御自身であり、この方のみに頼り、この方の語ることのみを真理とする者は、入るべきところに入るようになります。このことを覚えましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-