サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第58章 足なえ

 

~メッセ-ンジャー、教師、信仰の偉人、ペテロの信仰に頼ることではなく、ただ、ナザレのイエスの名によって求めることが大事~

 

【テキスト】使徒の働き3:110

1.ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2.すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3.彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

4.ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

5.男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

6.すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

7.彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8.おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

9.人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

10.そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

 

 

本日は「足なえ」という題でメッセージをしたいと思います。

 

テキストに沿って見ていきます。

 

1.ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2.すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

 

ペテロ、ヨハネが宮に上る時、足なえの男がいました。彼は足なえなので、歩けず、人に運んでもらっていました。足なえはもちろん、体に関する事柄ですが、しかし、たとえの意味合いがあり、信仰の歩みのおぼつかない人と理解できます。

 

彼は自分の足で立つことも歩くこともできず、他人が頼りなのです。教会に依存し、牧師に依存し、兄弟姉妹の交わりに依存しています。それが悪いことではないにしても、何しろ自分では歩けない、信仰の歩みのできない人なのです。

 

「宮にはいる人たちから施しを求めるために」

 

彼は自分では歩くことも働くこともできないので、他の人からの施しにより生きるしかありませんでした。

 

私たちの日常は、彼のような、こじきの生活ではないかもしれませんが、それでもってよしとするわけにはいきません。なぜなら、私たちが信仰的に他人の施しによって生きているなら、彼と大差ないからです。

 

この男は宮、礼拝所の前に座って、人々の施しによって生きていたのですが、同じように、現在の礼拝所、教会の座席に座り、人々からの施しによってのみ生きている人が沢山います。

 

人からのメッセージ、証し、また、信仰書からの恵み、施しによって生きている人々です。しかし、このような歩みは足なえの歩みであり、それは、クリスチャンとして健全な歩みではありません。

 

3. 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

4.ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

5.男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

 

この男の方法、その生き方、ポリシーは、誰か良い人はいないか、誰か恵んでくれる人はいないか、誰か誰かということです。それで、この2人、ペテロ、ヨハネに関しても、「何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ」のです。

 

これは、キリスト教会ではよくあるパターンです。あの器がよい、こっちの先生がよい、あのメッセンジャーが来たから行こう、良い話があり、良い恵みがある、と右往左往することは、よくあるパターンなのです。

 

6.すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。(KJV: 金銀は私にはない。しかし、このようなものをあげよう:ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい)」と言って、

 

この時、施しを求める男に対してペテロは、金銀は私にはない、と言いました。このことばも語りかけのあることばです。

 

金銀は“信仰”をあらわすことばです。以下のように書かれています。

 

参照 Ⅰペテロの手紙1:7

7.信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 

ですから、ここでこの男がペテロや、ヨハネから何かもらえるかと期待して彼らを見つめたことと、それに反応するかのようにペテロが「金銀は私にはない」と語ったことには隠れた意味合いがあります。言われていること、隠れた事柄の意味合いは、男が「この人たちから、何か霊的な恵みがもらえるのでは」と彼らを見たことに対して、「金銀、すなわち、ペテロや、ヨハネの信仰、歩み、敬虔さ、そんなものは無い、期待するな」そう答えているのです。

 

この方法も足なえであり、歩みがおぼつかない、我々がよく行う方法です。すなわち、あの人の信仰により、強められるという方法です。マザー・テレサに祈ってみたり、聖人に祈ったり、マリヤ、ヨセフに祈ったり、それからプロテスタントなら、ビリー・グラハムの信仰に頼ったり、中田重治の信仰に頼ったり、ルター、ウエスレー、ウォッチマン・ニーの信仰に頼ったり、という方法です。これはよさそうですが、しかし、ペテロは如実に、「金銀は私にはない」すなわち、私の信仰になど、頼るなと言っているのです。異端カトリックによれば、初代法皇であるはずのペテロ様がこう言っているのだということをこの聖人崇拝教はよく知るべきです。

 

それでは何が大事なのか?それはここでペテロがいっている、「ナザレのイエスの名」なのです。

 

「しかし、私にあるものを上げよう。」

 

このことば、この訳はまやかしです。こんなことばを聞くと、ペテロの内側にある凄い信仰とか、聖徒の歩みとか、そんなものが与えられ、結果この男が奇跡的に癒された、そんな風にきこえます。

 

KJVではこの箇所は、あっさりと、「しかし、このようなものをあげよう」と書かれています。このようなもの、とはどんなものかと言うと、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」とのことばに通じるのです。

 

だから、ここで強調され、大いに言われていることは、ペテロの信仰でもなく、ヨハネの信仰でもなく、しかし、「ナザレのイエスの名」が彼を癒す、このことです。

 

7.彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8.おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

 

ペテロ、ヨハネの名ではなく、しかし、ナザレのイエスの名によって命じたとき、彼は癒され、歩き、さらに跳ねたりしだしたのです。ジャンプまで、始めてしまったのです。また、宮に入ることができました。正しく主を礼拝する道に入っていったのです。

 

これらはたとえであり、すなわち彼の信仰の足、足なえだった歩みは強められ、正しく歩むようになり、何と、ジャンプまでできるようなしっかりした歩みになったのです。また、今迄、物乞いをしていたが、もう自分の足で歩めるのでそんな必要もなくなった、そう理解できます。

 

この男の劇的な変化を我々は理解しなければなりません。今迄歩めず、人に物乞いするしか能のない人がいざ、ナザレのイエスの名によって、立ったときには、今までと異なる劇的な変化をし、歩みはしっかりしたものとなるのです。

 

歩くことは信仰の歩みに関することであり、足なえとは、信仰の歩みができない人のたとえです。ここで言われていることは、その足なえ、信仰の歩みができない人が健全な歩みができるためには、どうすればよいかとの問いです。そして、それは、人に物乞いすること、すなわち良いメッセ-ンジャー、教師、信仰の偉人に強められることでも、また、ペテロの信仰に頼ることでもありません。しかし、ただ、ナザレ のイエスの名によって求めることが大事なのです。

 

このことを具体的にどのように適用すればよいのでしょうか。私が思うに、要するに聖人の名でも、信仰の偉人の名でもなく、ただイエスの名を求めるということではないでしょうか。

 

個人的には私も信仰の足なえ状態から抜け出して、ようやく自分の足で歩めるようになったのは、かつてのようにあの牧師、あの説教師と追いかけることをやめ、また、あの本、この信仰の本と頼ることをやめ、しかし、主の名に頼るようになってからです。

 

具体的にはそんな本を読む時間を中止し、また器を追いかけるために、聖会へ行くことを中止し、しかし、ただ、主イエスの名に信頼し、ひたすら祈るようになってからです。そのような歩みを何年かした後、少しずつ足腰が強くなり、今では、このように、メッセージを書いたり、メルマガを発行したりもできるようになりました。

 

自分の歩みも、かつてはままならないものだったのですが、今ではわずかながらでも人の歩みの助けのようなことまでさせていただいています。この足なえのように、今では私もくるぶしが強くなり自分の足で歩み、時には感謝のあまり、飛び跳ね、ジャンプすることさえあります。

 

9.人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

10.そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

 

この足なえ、物乞いの男が癒され、歩き、神を賛美していることは多くの人をあきれさせ、驚きを与えました。同じ意味合いで、信仰の足なえである私たちが変えられることは多くの人に証しとなり、神の栄光をあらわします。

 

このことを求めましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-