サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第61章 安息日の教え

 

~私たちが自分の仕事、すなわち行いを止め、中止し、主に安息する時、主御自身がわざを成して下さる~

 

【テキスト】出エジプト記31:1217

12.主はモーセに告げて仰せられた。

13.「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。

14.これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。

15.六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

16.イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

17.これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。

 

本日は「安息日の教え」としてこのことをみていきたいと思います。

 

かつての日、旧約の時代に、神は不思議な教えを語られました。それは安息日の教えです。毎週7日目は休めと主は命じられたのです。なるほどと言えば、なるほど、しかし、改めて考えると、不思議な教えです、安息日の教えとは

 

普通、会社の規則なりの主旨は、よく働け、休むな、仕事をしろということに尽きます。安息、休めなどとの規則など聞いたことがありません。

 

連絡も無しに3日も休めば退職させられます。遅刻が多くても問題が出ます。しかし、この十戒の教えは、よく働けということには、言及せず、しかし、7日目には安息を持ち、全き安息、すなわち何にも仕事をしないことを、とても強調するのです。

 

一体この安息日の戒めとは何を意味するものなのでしょうか?改めて考えてみたいのです。

 

さて、この安息日に関して、ルカの福音書では、以下のように記されています。

 

参照 ルカの福音書13:14

14.すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「<働いて>よい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです

 

ここで書かれている「働く」ということばは、以下の節の「わざ」ということばと同じギリシャ語が使われています。

 

参照 ヨハネの福音書6:28

28.すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神の<わざ>を行なうために、何をすべきでしょうか。」

 

ですから、安息日で言う「働く」とは、我々クリスチャンが神の前に行うわざ、行いに通じるのです。すなわち、安息日の戒めを語ることにより、神はたとえを語っている、すなわち、我々クリスチャンが、神の前に仕事、すなわち、何らの行いをもしない、その事柄について語っているように思えるのです。

 

この視点に沿って上記テキストを見ていきたいと思います。

 

12.主はモーセに告げて仰せられた。

13.「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。

 

神はイスラエル人に安息を守らなければならないことを告げました。これは、旧約のイスラエルのみならず、新約のイスラエルであるクリスチャンも行うべき教えなのです。我々も安息を守るべきなのです。それは、我々クリスチャンが、安息日や日曜日に絶対会社に行ってはいけない、うんぬんのことではありません。もちろん、聖日を厳守して、礼拝を厳守すべきなのですが、そのことのみを語っているのではありません。それは、安息日、何にも仕事を行わない日を設定することにより、神が我々に新約のクリスチャンに理解して欲しい、霊的な原則があるからなのです。

 

それは何かと言うと、上に記したように、仕事をするとは、行いをすることに通じ、神の前に我々自身の行いを持ち出さない、逆にまったき安息を経験する、すなわち行いを廃して、神に信頼し、信仰することを学ぶよう、神は語っておられるのです。

 

「これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし」

 

このこと、クリスチャンが、神にまったく頼り、神に働いていただくことは、代々のイスラエル、すなわちクリスチャンにとり、大事な事柄なのです。

 

わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。

 

私たちが神の安息を守るなら、私たちは聖別されます。どのようにして聖別されるのか?それはこうです。私たちが安息、すなわち、我々が神に信頼し、自分の仕事、すなわち、わざ、行いを休み、実行しないなら、その時、始めて神が働かれるのです。その結果は、めざましいものであり、我々は他の民と異なるものとして、聖別されるのです。たとえば、あの紅海の日、エジプト軍が後ろに迫ったとき、イスラエルは主に頼り、安息しました。その時、神はエジプトの乗り手たちを海に投げ込み、めざましいわざを行ったのです。私たちが主に頼り、自分の行いに頼らないその時、主はめざましいわざを行われるのです。

 

14.これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。

 

これを汚す者は必ず殺される、また、安息中に仕事をする者は、民から断ち切られることが書かれています。これは人間的に考えるなら、厳しい教えですが、しかし、たとえとして大事な霊的原則を語っているのです。

 

かつて主は「わざ」すなわち、仕事に関して聞かれたとき、こう答えられました。

 

参照 ヨハネの福音書6:28,29

28.すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」

29.イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 

ここで、主はわざ、すなわち仕事に関して聞かれた時、「神が遣わした者を信じること」すなわち、神が遣わされた聖霊を信じ、信頼すること、すなわち自分で仕事やわざを行わず、安息すること、それがすなわち神のわざであると答えているのです。

 

このことを知ると、「これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる」とのことばの意味合いが理解できます。

 

私たちは神が遣わされた方、聖霊の働きを信頼し、それに不信を持ち、自分の行い、わざ、仕事に頼るべきではない、もしそうするなら、必ず殺される、すなわち得るべき命、永遠の命に至らない、このことを言っているのです。

 

また、「この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる」とは、すなわち、この原則:聖霊に頼り、安息し、おのれのわざ、仕事に頼らない:ということを実行しない者は、民から断ち切られる、神の前にクリスチャンとして認められない、このことを語っているのです。

 

15.六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

 

神は安息日という特別な日を設けて、その日には何も仕事をしないことを強調しました。その狙い、主旨は、このようなおきてを設けて人を困らせることではなく、大事な霊的原則、すなわち神の働きに頼り、安息し、自分の行い(仕事)に頼らない、このことを今の時代のクリスチャンに理解させるためなのです。

 

「主の聖なる全き休みの安息日である」

 

「全き休み」とは、全然仕事をしないということです。今の時代で言えば、我々は何の行いもなく、どれも主に頼るということです。たとえ5%でも10%でも仕事をしてはいけないのです。だから、安息日においては、物売りでも耕作でも、旅行でも、ほんの少しの労働さえもとがめられました。

 

統一原理はこの聖書の教えを破り、95%の神の働き、5%の人の行いなどと嘘教理を語りました。愚かで、ろくに聖書を知らない若者はこんな教えに惑わされて、花売りや印鑑売りに奔走して、何らの安息も得られません。彼らは聖書を知らず、訳の分からないインチキ本、成約聖書、原理講論などをわざわざ読んで、嘘に入っていきます。同じくカトリックも聖書を知らず、結果あらゆる善行、行い、苦行、懺悔に入り、自ら、行いの奴隷となっています。彼らはこの「安息日」に関するたとえを理解できないのです。

 

16.イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

 

イスラエル人がこの安息の教えを「永遠」に守らなければならないことが書かれています。このことは注目すべきです。パウロがローマ人への手紙で語っているとおり、我々は新約のイスラエルであり、それゆえ、我々新約のクリスチャンもこの安息の教えを守るべきことが、ここでは書かれているのです。

 

ここには、「永遠に」この安息の契約を守るべきことが書かれており、旧約の間だけ守れとか、新約になったら、この教えは廃棄とかは書かれていないのです。したがって、今の新約のイスラエルである我々も安息日の契約を守るべきなのです。そして、安息日の契約を今のクリスチャンが守るとは、すなわち、仕事、行いをしないということを語っています。

 

ですから、新約のクリスチャンにとり、この安息を学ぶこと、すなわち自分の行いを休み、主に働いていただくことを学ぶことは必須なのです。

 

17.これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである

 

このことが、「わたしとイスラエル人との間のしるしである」すなわち、神と新約のクリスチャンの間のしるしであることが書かれています。

 

すなわち、我々新約のクリスチャンの特徴、大きく他の人と異なる点は、安息日にあると語っているのです。もっと言うなら、私たちが自分の仕事、すなわち行いを止め、中止し、主に安息するとき、主御自身がわざを成して下さる、このことこそ、もっともクリスチャンにとって大事なことなのです。

 

クリスチャンの歩みの根幹に関する問題なのです。正しく理解しましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-