サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

第66章 その道を通らない(3)

 

 

 

~カトリックのパン、教えを受け、また、水、霊を受ける人は獅子に殺される、すなわちサタンにより、命を失う~

 

 

 

【テキスト】Ⅰ列王記13:2334

 

23.彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。

 

24.その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。

 

25.そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。

 

26.その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」

 

27.そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。

 

28.彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。

 

29.そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。

 

30.彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。

 

31.彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。

 

32.あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」

 

33.このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。

 

34.このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。

 



本日は、「その道を通らない(3)」として、さらにこの件をみていきたいと思います。テキストに沿ってみます。



 



23.彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。



24.その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。



 



ユダからの神の人は、主の教えに背き、その地、ベテルでパンを食べ、水を飲みました。その結果、すぐに獅子に襲われ、命を失いました。このことは何を指すのでしょうか?



 



これは、神の警告であり、カトリックのパン、教えを受け、また水、霊を受ける人は獅子に殺される、すなわちサタンにより、命を失うことを指すのです。このユダからの神の人の例は、生きた分かりやすい教訓であり、我々現在のプロテスタントは、ここから生きた教訓を学ぶべきです。



 



それはこの教会、カトリックに惑わされて引き付けられるプロテスタントのクリスチャンはいずれ、獅子、サタンにとって食われ、みごとに命を失うという教訓です。マザー・テレサやローマ法皇などに引かれ、この教会の門を叩くべきでないのです。また、マリヤ像が麗しく見えたり、アベ・マリヤの歌が素敵だからと言って、カトリック教会の門をくぐるべきではないのです。



 



25.そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。



26.その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」



 



ユダからの神の人が獅子に命を奪われたその理由は、彼が主のことばに背き、ベテルのパンを食べ、水を飲んだからです。同じように、すべてカトリックのパン、教えを受け、また、その水、すなわち霊を受ける人は神に背くものであり、警告のとおり獅子、すなわちサタンにより、命を失うことを知りましょう。



 



繰り返して言うようですが、ここの箇所を通して神が明らかに語っている警告には耳を傾け、間違っても、それを無視したり、背いたりすべきではありません。このユダからの神の人の悲劇的な死を通して、我々に対して明確な警告があるのです。



 



それは繰り返しますが、たとえどのような方法で誘われても、また御使いの不思議な出来事があっても、しかし、この地のパンと水、すなわちカトリックの教えと霊とを受ける人は獅子に食われ、命を失うのです。



 



私は何人かのカトリックの人を知っていますが、誰も彼もみな、惑わされ、おかしな霊のとりことなり、そう文字どおり、獅子、サタンに食われつつあるような人ばかりです。



 



神のことばは、だてでも、また、起きない事柄の警告でもありません。そうではなく、逆にこれは、今、私たちのすぐそばにある危険、カトリックの教えや霊に関する警告である、このことを知りましょう。



 



27.そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。



28.彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。



29.そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。



30.彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。



 



ユダからの神の人は命を失い、北イスラエルの人々はその死を「ああ、わが兄弟。」と言って、悲しみました。そうです、北イスラエルと南のユダとは兄弟の間柄なのです。同じように、カトリック、プロテスタント、それぞれは兄弟姉妹なのです。しかし、しかし、そうであっても、この地、カトリックの地のパン、教えも水、霊をも受けてはいけないと明確に神は語られました。このことを重く受け止めましょう。今のキリスト教会のトレンドは、カトリックとプロテスタントとの融和、合一、壁を崩し、エキュメニカルを行うという方向です。しかし、私たちは主のみことばを行っていきましょう。



 



31. 彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。



32.あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」



 



「あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことば」とは何かと言うと、これらの祭壇で、祭司自身がいけにえとなってしまうということ、人の骨が焼かれるということです。



 



不吉な預言です。いつだか注文の多い料理店という宮沢賢治の本を読んだことがあります。2人の紳士が、素敵な山猫料理店に入ったは良いが、その料理店では、豚を食べさせるのか、牛を食べさせるのかというとそうではなく、何と山猫によって、客自身が食べられてしまうというお話でした。



 



この「ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮」に関して、そこでは、命を得る、あがないにより命を長らえるどころか、その祭壇に近付き、奉仕することにより、何と祭司自身が命を失う、その骨も焼かれてしまうという、全く正反対の結果が出る、祭壇に関する預言なのです。



 



そしてそれは、かつて旧約の日の現実ではありましたが、それにとどまらず、今のカトリックで実現する事柄なのです。



 



33.このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。



34.このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。



 



このような悲劇的な日をこのベテルの祭壇が迎えるその理由は、「一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした」からであることが描かれています。



 



祭司は本来、レビ人、すなわち主につく人々が任命されるべきだったのですが、ヤロブアム、北イスラエルは、一般の民の中から祭司を選んだのです。このことが非常に大きな罪となりました。



 



そしてそれは、今のカトリックの問題でもあると思えます。彼らは祭司を選ぶ基準を、レビ人、すなわち主につく人に定めていません。逆に普通の人を祭司としています。そしてそれゆえ、カトリックの歩みは神の怒りを買うのです。



 



このことを覚えましょう。



 



終末における主の御心をおこないましょう。



 



-以上-