サマリヤの女

 

 カトリックへの警告!!

 

第7章 教会のたとえ(女)

 

~聖書の「女」に関する教会のたとえについて~ 

 

【テキスト】ヨハネの黙示録12:13

13.自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。

 

本日は教会に関するたとえとして「女」の項を見ていきます。聖書には、教会に関して何種類ものたとえが使われていますが、その一つは「女」です。

 

たとえば、以下のように書かれています。

 

参照 Ⅱコリント人への手紙11:2

2.というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

 

ここでは、クリスチャンの集まりを処女(女)として、キリストの花嫁として書いています。ですから、「女」とは、教会とキリストとの結婚関係の面をあらわすたとえなのです。さてこのこと、女=教会とのたとえを念頭におき、以下を見ていきましょう。

 

参照 マタイの福音書5:32

32.しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

 

人間の女性にも色々な女性がいますが、聖書にも色々な女性が書かれています。そして、ここでは、「離別された女」について書かれています。この節を見るとこの女は不貞のゆえに離別されたことが分かります。さて、教会の中にも神により離別された教会があります。「そんな馬鹿な、神は教会を見捨てない」と言う人がいるかもしれませんが、そうではありません。不貞がある時、すなわち教会がこの世や他のものと姦淫するなら離別されるのです。さて、もし妻が夫に離別されるならどうなるでしょう。こうなるでしょう。すなわち、今迄夫からもらっていた収入がなくなりますし、場合によっては食べるにもことかきます。また、守りが無くなります。

 

なぜ、日本には(日本だけではないのですが)せっかく礼拝に出席しても、心にも魂にも、何も響かないメッセージしか聞けない、ちっとも恵みのない集会、礼拝があるのでしょう。その理由の一つはその教会が神により「離別」されているからです。彼らはキリストより、この世やこの世の進化論等の教えを選びました。または、戦争の時に主より国を選んだのかもしれません。その結果、神により離別されました。だから本来夫から受けるべき、豊かな恵みも助けも無く、霊的に飢え死にするかという状態なのです。聖霊の雨は降らず、命のパンも与えられていません。夫なるキリストがその教会を離別し、供給をストップしたからです。聖霊も御言葉も、神が与えられたから、受けられるのです。夫が離れてしまったのなら、妻には何も残りません。

 

 

                                           (聖霊の雨)

 

 

 

 

(命のパン)

 

さて、このような教会に対してクリスチャンはどう対応すればよいのでしょうか。私はあまり言いたくないのですが、しかし聖書に書いてあることなので、言わないわけにはいきません。聖書は「だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」と書いています。すなわち、このような神により離別されたとしか思えない教会とは関係を持つべきではないのです。持つなら、私たちも神の前に姦淫を犯すことになるからです。

 

参照 マタイの福音書13:33

33.イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

 

天の御国とは教会のことを指します。教会は、地上の王や、政治家に属する集まりではなく、「キリストと共に天に座す」者たちの集まりだからです。天のみ国だから、良いことばかりありそうですが、残念ながら、終末には罪が満ちるのです。パンは「命のパン」、すなわち、神の御言葉を指します。パン種は罪、また偽りを表すのでしょう。これが、女、罪の教会により混ぜられます。すると、このパン種、すなわち罪や偽りは隅々まで行き渡ります。これは、終末の教会の姿であり、段階携挙説を始めとする偽りは、たしかに教会の「御言葉の教え、メッセージ」の隅々まで、行き渡りました。ですから終末に住む私たちは、今偽りの教えが隅々まで行き渡った時代に生きていることを知らなければ、なりません。これも間違い、あれも間違い、始めから間違いだらけの教えの時代に我々は今いるのです。

 

 

(パン種は小さなもの、しかし膨らむ)

 

 

参照 マタイの福音書26:7

7.ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

 

 

               (イエスの頭に香油を注いだ女)

 

 

油は聖霊のたとえです。また、イエスの時代は終末の時代のたとえです。この高価な純粋な油は、終末の日に一人の女、主につく教会により起こされる、聖霊のリバイバルの預言です。終末の日には、多くの教会の聖会、集会には、悪霊の働きが広がります。聖霊の働きと、悪霊とが区別できなくなるのです。このことは悪魔が純粋な御言葉に密かに偽りのパン種を混ぜることと似ています。聖餐式で言われる、パン(御言葉)もぶどう酒(聖霊)も攻撃されるのです。しかし、その同じ時代にこの女、教会に象徴される純粋な聖霊のリバイバルを見ることができるでしょう。

 

参照 ルカの福音書8:2

2.また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、

 

「7」は教会の数です。この女は悪霊から解放された教会の型です。彼女はイエスにつき従います。同じように終末の日に悪霊から解放された人々の教会は主に従うでしょう。今の教会、クリスチャンの多くの問題は、霊、悪霊から来るのです。このことを知ることは大事です。

 

参照 ヨハネの福音書4:9

9.そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」・・ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。

 

サマリヤは北イスラエルの主都であり、これは、今の時代でいえば、ローマ・カトリックのたとえではないかと私は思っています。

 

参照 ヨハネの福音書4:17

17.女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

 

この女はかつて5人もの夫があり、今一緒にいるのは、夫ではありません。そして、「私には夫はありません。」と言っています。女は教会のたとえです。教会が夫とする人、キリストが自分にはいないと言うとは、おかしな話です。しかしこのことは、カトリックにとってまさに事実です。カトリックの信者が聞き従っている法皇は、実は彼女、カトリック教会の真の夫ではありません。彼は聖書で言う「バアル」(主という意味がある)に過ぎません。これは彼女の本当の夫ではないのです。カトリック教会はキリストを(建て前はともかく実際は)夫としていません。なぜ、そんな失礼なことを言うのか?!と怒る人もいるかもしれません。それでは私は聞きます。キリストのことばはこう語ります。「偶像を拝するな」と。それでは、どこにマリヤ等の偶像を拝さず、「ことばは神である」と言われた方のことばを守るカトリック信者がいるでしょうか?また、キリストのことばはこうも語りました。「地上の誰をも父と呼ぶな」と。それでは、私が聞く、「パパ様、パパ様」との声は何でしょうか。彼らは、ことばなる方を捨て、他の者を夫とした愚かな女です。ですから、まさにこのサマリヤの女の「私には夫はいません」とのことばは、カトリック教会の霊的な神の前における現状を正しく言いあらわしたものなのです。

 

 

                                             (マリヤ像)

 

 

 

            (マリヤ像の前で手を合わせる法皇)

 

 

参照 ヨハネの福音書4:15

15.女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 

しかし、終末の日に彼女に良い日が訪れます。彼女、サマリヤの女はキリストに出会うのです。そして、この水、聖霊を受けるのです。そうです、サマリヤの地、カトリックの教会にリバイバルが起きるのです。

 

 

 

           (イエス・キリストとサマリヤの女)

 

 

さて、冒頭のテキストを見ましょう。

 

13.自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。

 

竜は悪魔です。この時、悪魔、サタンは地上に投げ下ろされます。これは何をあらわしているのでしょう。まず天とは何かを理解しなければなりません。天の御国とは教会のことです。さて、天は神が治められるところですから、そもそも悪魔などいるはずはありません。しかし、それは理想であり、現実は違います。「天の御国は、パン種のようなものです。」と書かれているように、教会にはパン種が満ち、サタンのわざが満ちているのです。しかしこの終末の日、教会を回復する勝利者たち(男の子)の前に、サタンは勝利者の教会から追い出されます。彼は「天の御国」ではなく、地上、この世についた教会の中でしか、活動できなくなったのです。

 

参照 黙示録12:14

14.しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

 

女、主につく教会はこの時、3年半の間、大艱難時代の間、守られます。

 

参照 ヨハネの黙示録 12:15

15ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。

 

 

               (女を大水で押し流そうとする蛇)

 

 

蛇はエデンの園の蛇、「蛇よまむしのすえよ」と言われた律法学者たちに通じています。蛇ということばを通して「御言葉を曲げる者たち」が女、主につく教会を迫害することを指しているのだと理解しなければいけません。また、「水を川のように」とは何を表すのでしょう。水は度々言いますが、霊のたとえです。聖霊ならぬ悪霊のリバイバルで女、主につく教会を破壊しようとするのです。

 

 

(エバを惑わした蛇)

 

 

参照 ヨハネの黙示録 12:16

16.しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。

 

しかし、女、この教会はこの悪霊のリバイバルから守られます。ですからこの女、教会は三年半の大艱難の間、地上で偽りの教師や、悪霊のリバイバルから守られることが分かります。決して偽りの段階携挙説者の言うように、三年半の間、天に挙がっているわけではないのです。ですから私たちはこの日のために岩の上に家を建て、備えなければなりません。嘘の教えに惑わされ、「その時は上にいるから」などと根拠の無い安心をして、砂の上に家を建てる愚か者になってはいけません。

 

 

 

                      (携挙は作り話)

 

 

参照 ヨハネの黙示録 12:17

17.すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。

 

      (竜に追いかけられるが、大わしに助けられる女)

 

 

ここで「残りの者」という表現が出てきます。このことばを理解するには旧約の「残りの者」ということばを参照すべきです。「残りの者」ということばは終末の日の2種類の人々を暗示します。すなわち主のことばにまっすぐ立ち、残った小数の者たちと惑わされた多くの者を暗示させます。教会の多くの人々がこの時、惑わしと裁きに入っていることを知らなければなりません。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-