サマリヤの女

 

 カトリックへの警告!!

 

第9章 北の国 

 

~北の国の脅威とは?プロテスタントのカトリックへの傾倒は主の御心ではない~

 

【テキスト】エレミヤ書3:18

18.その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」

 

本日は、「北の国」という題でメッセージします。終末の日には、神の民に関して、「北の国」からの脅威があることを聖書は、度々述べています。これは何を意味するのかを見ていきたいと思うのです。

 

「北の国」に関する聖書箇所を順次引用して見ていきましょう。

 

参照 エレミヤ書6:22

22.主はこう仰せられる。「見よ。一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。

 

このエレミヤの時、エルサレム、ユダ、すなわち南の国に対して、北の地の民が、攻撃に来ることが語られています。同じように終末の日に、神の御声に聞き従わないプロテスタントの教会に、今迄無かった脅威が訪れます。それは、北の地の「大きな国」すなわちカトリックの教えです。この教えがプロテスタントの教会を襲うことは、今迄かつて無かった「災い」になることをはっきりと理解しなければなりません。「プロテスタントとカトリックが合同して何が悪い。これは、神の御心にかなっている」などと言う人は聖書で語られている神のことばを知らない人々です。以下のように聖書は述べています。

 

(ヨハネパウロ2世[カトリック]に贈り物をするビリー・グラハム[プロテスタント])

 

 

参照 Ⅱ歴代誌25:68

6.さらに、彼はイスラエルから、銀百タラントで、十万人の勇士を雇った。

7.神の人が彼のもとに来て言った。「王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。

8.それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。」

 

この時、南の国、ユダ国が北の国なるイスラエルの軍隊と共に戦うことが神の御心では無かったように、今もプロテスタントとカトリックが合同していくことには、神の御心がありません。

 

なぜなら、「主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。」すなわちカトリックの今の歩みには神が伴っておられないからです。逆に彼らと共同戦線をとれば、彼らの偽りや惑わしに影響を受けることになるからです。彼らの中のある者は、「仏教徒でもキリストの救いから漏れない」などという偽りを語ります。そしてこのような偽りに同調する者たちも多いのです。このような教会とプロテスタント教会は歩み寄りを始めつつあり、共同歩調をとろうとしています。たとえば、新共同訳聖書等の働きはその一つです。これらの「北の国」と同調することにより、倒れていくプロテスタントの信仰者が多く出るでしょう。これこそまさに「北からの脅威」なのです。

 

参照 エゼキエル書38:6,15

6.ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。

15.あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。

 

さて、終わりの日に『エルサレム』ということばで象徴される、「神の御心の民」が、「北の国」に囲まれ、攻撃を受けることがエゼキエル書に記されています。有名なゴグ、マゴグのことです。ですからゴグ、マゴグとは、今で言うカトリックの教会の隠れた「別名」なのです。彼らは大軍勢であり、そして多くの民をもって「神の御心の民」を襲います。

 

 

                   (北の国の大軍勢)

 

 

参照 ダニエル書11:40

40.終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。

 

ダニエル書にも同じことが書かれています。北の王なるカトリックの軍勢は、南の王なるプロテスタントの領域を占領し押し流していきます。これは今起きつつあることなのです。終末に向かって、さらにカトリックのあらゆる偽りはプロテスタント教会に浸透していくことでしょう。

 

 

                     (北の王の襲撃)

 

 

参照 エレミヤ書50:41

41.見よ。一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が地の果て果てから奮い立つ。

 

ここで言う「一つの民」とは、一つの教会のことです。彼らは奮い立って、バビロン化した神の民を襲います。カトリックのあらゆる偽りや、悪霊の教えはプロテスタントを席巻するようになるでしょう。聖人の死体を拝すること、法皇に聞くこと、聖書以外の外典を受け入れること、これらの教えは、今すでにプロテスタントへ紹介されつつあるのですが、終末に向かって益々顕著にプロテスタントの教会へ影響を与えるようになるでしょう。法皇が今、「カトリックの(プロテスタントに対する)優位性」をことさらに強調しはじめたのは、「その時」が今、来つつあることを語るものです。

 

 

                   (聖書の外典)

 

 

参照 エレミヤ書31:8

8.見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。

 

しかし一面、神はこの「北の国」遠く真理から離れてしまった教会から人々を連れ出し、地の果てから彼らを集めるとも言われます。この中には「めしい」霊的に盲目な人々、「足なえ」信仰の歩みの弱い人々もいます。彼らは戻ってきます。また、「妊婦、産婦」すなわち、乳を必要とする乳児を持つ人々、ヘブル書で言う「堅い食物」を食べられない人々もいます。彼らも戻ってくるのです。

 

参照 エレミヤ書16:15

15.ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。

 

「散らされたすべての地方」とは何を意味するのかを考えてみましょう。現在のキリスト教会には、かつての単純、素朴、真実な信仰から外れて、あらゆる種類の「神からではない教え」が入ってきているのです。あるところではこの世の心理学が入り込み、他のところでは、「可能性思考」なる人間の念力のような教えが入っています。また、「聖人」なる者への人間崇拝も入り込んでいるのです。そして今の人々はそれらの教えに従うことにより、あるべきところから遠くへ「散らされて」しまったのです。そしてそこは、神が「彼らの先祖に与えた彼らの土地」ではないのです。ですからそこでは、彼らの受け継ぐべき永遠の命に至らないのです。しかしこの終末の時代、神は「わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」と言われます。正しい真直ぐな信仰の道に戻って来る人々が現れてくるのです。

 

 

          (この世の心理学は永遠の命に至らない)

 

 

参照 ゼカリヤ書2:6

6.さあ、さあ。北の国から逃げよ。・・主の御告げ。・・天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。主の御告げ。

 

一方でこのように、「北の国」の偽りに同調していくプロテスタントの人々がいると共に、また、他方でこのような危険な惑わしから辛うじて逃れて来るプロテスタント、またカトリックの人々がいるでしょう。ここで言われている「北の国から逃げよ」ということはそれを指します。ここで、神が「北の国から逃げよ」と言われている以上、現在、北の国なるカトリックでおこなわれたり、信じられている多くの事柄は、神の御心から遠く離れた事柄だということに気が付かなければ、なりません。

 

たとえ、どれ程、伝統があることがらであるとしてもそれが、神のことばとぶつかるなら、「律法の一点、一画が滅びるより、天地が過ぎ去る、(教会が過ぎ去る)方が容易である」ことを知らなければなりません。

 

参照 エレミヤ書23:8

8.『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」

 

この北の国、すなわち今のカトリックの信仰状態から戻ってくることに神の御心があります。その時、私たちは「自分たちの土地」すなわち神が当初から用意して下さった祝福の歩みに入ることができます。決して北の国にとどまることは御心ではないことを知らなければなりません。

 

では、冒頭のテキストについて見ていきましょう。

 

18.その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」

 

ここで「ユダの家はイスラエルの家といっしょになる」ことが述べられています。このこと、旧約のユダ民族の子孫とイスラエル民族が1つになり、一緒になることは終末の日に成就するでしょう。今、それらしい動きが始まりつつあるようですが、このことは終末に向かってさらにはっきりしたものになるでしょう。さて、これは第一義的な意味合いです。このことばには、もう一つ、たとえとしての意味合いがあると思われます。教会時代のたとえとして見る時、ユダはプロテスタント、イスラエルはカトリックを指すと思われます。この2つのキリスト教会は全く分裂して、現在に至るまで、ほとんどそれぞれ交流も無いような状態です。しかし聖書は、「その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり」と語ります。ですからこの2つの分裂した教会が1つになる日が来るのです。このようなことは過去何世紀間無かったことなのですが、しかし終末の日に成就します。このことは良いことのように思えます。もちろん良いことです。しかし一面良いことではありません。なぜなら北の国なる北イスラエルが世界の中心なるエルサレムへ帰ってくるなら祝福ですが、この時には逆にユダが北の国へ移っているわけです。

 

神が世界の中心にエルサレムを置いたということをよく考えなければなりません。ここが神の定めたあるべき中心の場所なのです。ここより東へ行っても、西へ行っても、南へ行っても、北へ行っても、神の指定した場所からズレていることになるのです。彼らは北にいます。ですからあるべき場所から外れてしまったことが暗示されます。北はもともと北イスラエルのあったところですが、そこへユダ、今で言うプロテスタントが移るわけです。すなわち今で言うなら、プロテスタントの各派の信仰はカトリックの影響に取り込まれていってしまうのです。これは道を外れることであり、捕らえ移されることです。

 

 

            (世界の中心地“エルサレム”)

 

 

しかし、「彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」と記されています。「北の国」とは、何をあらわすのでしょうか。聖書の中では、世界の中心はエルサレムであると述べています。ここが中心なのです。ですからエルサレムから東に位置する日本は「東洋の国」であり、西に位置するイギリスは「西洋の国」なのです。さて、そのエルサレムのすぐ北に位置する国とは何でしょうか。それは他でも無い「北イスラエルの国」です。さて、この民は遠い国、北の国から、「先祖に継がせた国」に帰って来ます。帰って来るという以上、彼らは、今迄は先祖の国から遠い地にいたことが分かります。このことは今の時代の我々に関しては、何を意味するのかを考えてみましょう。

 

我々クリスチャンは、長い間、「先祖の受け継いだ地」すなわち、かつての信仰の父や母が死守してきた信仰の立場を受け継いできました。「この方による以外に救いはない」という立場もそうです。この立場、信仰を守るため、遠い長崎の地で400年前に殉教した26聖人を始めとするこの日本の信仰者たちは、殉教と迫害の中を固く信仰の立場を守ってきたのです。しかし、今、北の国なるローマ・カトリックの地では、この「先祖から受け継いだ地」から、捕らえ移されてしまった、「情けないクリスチャン」が多くいます。

 

もし救いが仏教やヒンズー教の中にもあるなら、私たちの信仰の先祖である日本の命を懸けた信仰の父や母の従いは無意味なものだったのでしょう。しかし事実は私たちの先祖こそ、この地を死守した者たちであり、今、訳の分からない論理を振り翳し「仏教徒にも救いが及ぶ」などと、寛容と言えば聞こえはいいですが、その実、偽りを述べている人は「捕らえ移されてしまった」人々なのです。情けない偽り者がこの「北の国」には多いのです。ある人々は最後までこの偽りを改めないかもしれません。しかし全ての人がそうではありません。「わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」と書かれているからです。ですからこの終末の日、多くの神の民が主のかつて語られたあるべき地、信仰の立場に戻ってくるのです。

 

 

                 (長崎の26聖人殉教地)

 

 

主の御心の中心はエルサレムです。ここが中心なのです。マタイの福音書で、主が「御使いを遣わして四方から選びの民を集める」と書かれているのは、このこと、南、北、東、西に神の民が散らされることを前提に語られているのです。彼らはどこに集められるのでしょう。中心なるエルサレムであり、それはまた黙示録に記されている「新エルサレム」です。

    (世の終わり、選びの民を集めるために御使いが遣わされる

 

 

 

       (黙示録に書かれている新エルサレムのイメージ)

 

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-