サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

 

カトリック・カリスマ運動の真実:それは、神からの霊ではない! 

 

 本文にいかなる変更も加えず、この証し文書全体を使用するなら、どのように用いられるためであれ複製することを作者によって許可します。  

 

カトリック・カリスマ運動と共に奉仕した私の証し  

 

 まず初めに申したいことは、私が、脱退論者(Secessionist)ではないということです。  

 

 私は、聖霊の賜物が新約聖書使徒時代から続いていると信じ、その賜物は今日も神の教会において与えられ得ると信じる者です。 

 

 上記を信じない方々に対しても、もしあなたが主イエス・キリストへの信仰のみを通して、恩寵のみによって私たちは救われると信じるならば、主にあって、私の兄弟または姉妹です。私があなたに話そうとしていることは、必ずしも「政治的に正しく」ないでしょうし、私は「非寛容」として、また、ある人からは「女たらし」との札さえ付けられて分類されるかもしれません。  

 

 それは私が国際的な純福音ビジネスメン・フェローシップ(FGBMFI)の地方支部の会長として選出された時から始まりました。

 

 私たちは、月に一度のディナーミーティングと月に一度の朝食会を持っていました。

 

 ディナーミーティングでは、通常キリスト教ビジネスマンに彼の証言をしていただくようにお招きすることになっています。私たちは聖書研究会と祈祷会を始めました。

 

 噂を聞いて何人かのカトリック教徒が聖職者を含めて、私の家庭での祈り会と聖書研究会に来始めました。私はその司祭とも友人となり、私たちは連れだって別の会合にも参加するようになりました。さらに多くのカトリック教徒が、私たちの会合にも来はじめ、私はボール州立大学のカトリック教徒の教授を招き、私たちの交わりで話をしてもらうほどになりました。

 

 これら多くのカトリック教徒たちが異言を求め、それを受けるまでに時間がかかりませんでした。その時、私は、ただ、彼らがすでに救われていて、聖霊のバプテスマを受けていたのだと当然考えておりました。聖職者、修道女、およびその他は、異言を受け取りはじめていました。私は、異言は、私たちと同じ聖霊経験で、イエスを共有したことの「しるし」であったと信じることにおいて過ちを犯しました。これは、「ローマによる福音」についての私の無知によるもので弁解の余地がありません。

 

 私は週一回の講義を、6週間教えるように招かれました。司祭、修道女その他の人々がそこに出席していました。そして明らかになったことは、彼らは、救いの賜物を理解することに困難を持っていることです。私はそれが、ローマ(カトリック)から彼らに与えられている「束縛の霊」のためであり、彼らが幼児洗礼に信頼し、ローマ(カトリック)が福音を無効にした、別の教義によると信じています。

          (カトリック教会の幼児洗礼)

 

 

私はその大学でのカトリック・カリスマ祈祷会に、たった一人の非カトリック教徒として出席するようにと招かれました。あるカトリックの祈りのグループは異言で話していて、多分イエスの母、マリヤから直接来る罪深い性質の非聖書的な解釈を受け取っていました。これは救われていない人が、神ではない別の霊によって、「異言」を受け取ることの、もう一つの証拠でした。多くのカリスマ的なカトリック教徒は異言を受け取った後、さらにマリヤに傾倒してゆきます。  

 

 カリスマ運動の中に一度入った多くのカトリック教徒は、聖霊のさらに興味深い配偶者としてのマリヤに傾倒してゆきます。デイトン大学のカトリック・カリスマ・フェローシップは、その「経験」以来ずっと、彼らがより多くの愛着をマリヤに抱いていることを報道機関に報告しました。  

 

 カトリックのカリスマ運動で高名な人物で、多くのFGBMFI会議で話したことのあるカトリック司祭がある晩、大勢のグループに向かって話していました。話の後に、彼は来て、「新たに生まれる」ようにと、会衆に「変わる決心」を呼びかけました。 

 

 私は落ち着かない気持ちになり、集会が終わった後にいくつかの質問をするために彼に接近しました。私は彼に、イエスが救われる唯一の道であるかどうか、を尋ねると、彼が非常に明白に「ノー」と言ったので、さらに尋ねました。あなたは再び生まれる必要があり、救われるためにイエス・キリストを信じる必要がありますか、と尋ねると、「ノー」と彼は言いました。彼は、「新しく生まれる」という言葉で、何を意味していたのでしょうか。  

 

 彼がそれによって意味していたことは、神の霊によって新生することとは関係がなく、異言あるいは何らかの種類の主観的な感覚を受けたならば、それが新しく誕生するしるしだという意味だったことは明らかでした。  

 

 彼が語ったその点について、私は彼を非難しました。彼は非常に怒り、その全身は震えはじめました。私は彼をFGBMFIに報告しましたが、何もそのことについての応答はきていません。  

 

 不思議なことは、2種類のローマ・カトリック教徒がいるように思われることで、神がすべての父であり、そしてだれも迷子になっていないと信じる人々、そしてローマ(カトリック)に忠実な大多数の人々です。これらの両方のタイプに救いが必要です。 

 

 私はFGBMFIが今に至るまで、神に用いられていると信じ、多くの人々がこの団体の努力を通して救われています。しかし、私とその他の人々は、エキュメニカルの霊と一致という重大な罪を犯していました。私たちは、偽りの望みという安心を、真の救いが必要であった人々に与えてしまったのです。 

 

 人が真実のキリスト教徒になり、その時「現実の」イエスを受け入れる時に、その人は正しい方向に導かれるであろうし、ローマから離れる方向にいるでありましょう。  

 

 ある福音的人々は、もはやローマ・カトリック教徒は、伝道の対象と考えられるべきではない、なぜなら彼らはクリスチャンだから、と言っています。ラテン諸国にいる私たちの兄弟姉妹、その他の人々、そして福音のために彼らの人生を捧げ、その結果数百万人のローマ・カトリック教徒が福音を信じるのを、目の前で見た人々に対して、これはなんという悲しい論評でしょうか。福音伝道の未来は正しい考察の中にあります。  

 

 私はカトリック・カリスマ運動と共に働いた8年間で、次のような結論に達しました。私は無知なままであり続け、ローマ・カトリックの教義の中を確認しなかった、つまり「キリストのみを信じる信仰による恵みの救い」の教義について、彼らが本当は何を信じているかということを本気で見ようとしてはいませんでした。私は彼らが当然聖書の福音を信じているのだと考えていました。じつに歴史的にも、そして前述の逆となる教え、つまりローマ・カトリック教会は義が彼らのサクラメント(儀式、秘跡)を通じて授与されるものであり、義はその中にあり、これを通してその人の中に義となると彼らの教義として教えているのです。結果としてローマ教会は、信仰のみによる義という聖書的な教義を非難します。  

 

 もしカトリックではない教会が、ローマ・カトリック教会の持つ教義を持っているなら、カトリック集団と同列の「カルト」と見なされるでしょう。

 

 私はほとんどのプロテスタント教会が、「ローマによる福音の何たるか」を知らないことに気づきました。そして彼らがどのように「聖書のみ」を防御すべきか、その方法を知らないので、ローマ・カトリック教義を弁明する者の餌食になりやすいのです。多分、私たちはプロテスタント教会の中に、「宗教改革」を必要としているのでしょう。

 

 ローマ・カトリック教徒に対し、彼らが他の仲間たちに証しすることができるようにカトリック教会にとどまるように命じることはFGBMFIの標準的な態度でした。私はそこまで遠く及びませんでしたが黙っていました。この点では私は誤りでした。しかし、私は彼らが本当に新生していないのに、最終的にローマ教会に残るならそれは彼が再びローマ教会の中に失われてゆくことなのだと気付いた時点で、これは、じつは非常に危険な態度であったと思うようになりました。私は救いのためにはキリストのみと信じたほとんどの人は、その後ローマ・カトリック教会を出たと信じます。

 

 キリストが、私たちのためになしたことによる救いを否定し、私たちがなすことができるおこないの中に価値があるとするこの教会に、彼らがとどまり続けることができるでしょうか。

 

 快楽主義的なこの時代に健全な教義を犠牲にして、感情と経験を強調する傾向の増大は、その境界線があらゆる新しいエキュメニカル宣言によって、よりあやふやになり、快適宗教団体を世界に提示しています。この傾向はローマ・カトリック教徒といくつかの福音主義/カリスマ派の間で特に顕著です。

 

 そして、あるエキュメニカル・ミーティングにおいては、新生した真の福音主義者/ペンテコステ派など本当のキリスト者たちが、ニュー・エイージャー、統一主義者、ローマ・カトリック教徒と一緒になり、「共通の経験」という名目のもとに、一緒に彼らの一致を祝うために集まることにより、その境界線はさらにぼやけたものになっています。これは深刻な欺きです。

 

 異言で話すことは神からの有効な経験であるが、しかし、それは必ずしもいつも聖霊によるものとは限りません。それは偽物であるかもしれません。サタンは神の賜物の模造品を持っています。救われることなく経験を受け取ることができること、それは多くの問題をもたらしています。主要な問題は、救われているから大丈夫だという誤った感覚であり、それが何度もあなたをオカルトの中に導き、真実の福音から遠く離れさせているのです。

 

 私はカトリック教徒のほとんどが異言のしるしを捜し求め、結果として彼らは偽りの異言を受け取るのだと信じています。もし、彼らが異言で話すからといって、それをもって私たちが彼らを兄弟姉妹として誰をも認めるならば、その時、私たちは危険な坂道、カトリック教、ないしは、別の誤りの道へと向かっていることになります。

 

 霊的経験だけでは、一致する基礎とはなりえません。一致(エキュメニカル)とは、健全な教義の上に基礎を置かなければなりません。「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。」(第2ヨハネ10.11)

 

 上記の聖書が文脈上、他の異端(キリストが肉体をとって来たことを否定する)に当てはまっていても、私はそれらが救いの福音に関連しているので、カソリックとの一致に関しても適用され得ると信じます。

 

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)