サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

第3章 人間の堕落と神の救いの計画

 

 マルチン・ルターの宗教改革を、一言で表現するならば、「罪と救い」の問題です。宗教改革についての評価は様々ですが、その本質は文字どおり「罪」とは何か?、「救い」とは何か?という現実問題なのです。

 

.人間の堕落と罪について

 

 罪について、ローマ・カトリック教会はどのように理解しているでしょうか。カトリック要理の第4課「人間の堕罪と神の救いの計画」の項の中に、「人間の堕罪(原罪)とその結果」という項目があります。ここでは、次のように説明しています。

 

.15 人間の堕罪について聖書は何を教えていますか?

.聖書が教えているように、愛によって神に造られた人間は、神から受けた自由を乱用し、自己の完成を神の他に求め、神に背いて罪を犯しました。人間が自分のうちにも自分のまわりにも経験している悪は、人間を造った善なる神から来るものではなく、根本的には罪の所産なのです。しかし、神は罪に陥った人類を見捨てることなく、救いの道を常に人々に開き、悪に打ち勝つために御子イエズス・キリストを遣わされました。(創世記3章、ローマ5:12-21参照)

 

 この説明文によると、この意見が正統的であるように聞こえます。しかし、注意深く読むと不思議なことに気がつきます。それは、「神から受けた自由を乱用し、自己の完成を神の他に求め、神に背いて罪を犯しました」という理解です。たしかに神は人間をロボットや人形のように創造したのではありません。神は自由意志をもった人格的存在として創造したのです。その自由意志をもって、神に従うことも拒否することもできるのです。人類最初の人間アダムは、その自由意志をもって神に逆らい不従順の罪を犯しました。創世記3章の記述を見ると、サタンの象徴である、蛇が「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです」(創世記3:5)と誘惑しています。重要な点は、「神のように善悪を知る者となる」ということです。サタンは、「あなたは神の位置につける」と誘惑したのです。それは、絶対者になれるということです(これは無神論者の構造でもあります)。

 

 カトリック要理で説明しているような、「自己の完成を神の他に求めた」結果ではありません。しかもこのローマ・カトリック教会の説明では、神の創造は未完成であったと言っているものなのです。神はアダムの創造を本当に未完成の状態でなされたのでしょうか。第1のアダムは、完成された人間アダムです。このアダムが、自分の自由意志によって不従順となり罪人となったのです。

 

 そして、第2のアダムであるイエスが受肉したのです。この受肉のイエスは、真の神であり真の人間です。ですからパウロはローマ書5章において、第一のアダムの不従順によって人類に罪が入ったと言います。これと同じように第2のアダムであるイエスは、従順によって義を人類にもたらしたと言っています。したがって、ここで問題になるのはローマ・カトリック教会の「創造の未完成」という理解です。決して神は中途半端な創造をしたのではありません。人間の自由意志によって崩れたのです。

 

 この創造と堕落の記述に関することについて、思想霊感説に立っていることを付け加えておきます。したがって、「人間に関するメッセ-ジであり起源ではない」と言うのです。新カトリック教理には、「とても感動させるこの聖書の不朽な部分は、神の前にいる人間のことを要約したものとして決して取りかえることができない。しかし人類の始まりの叙述として取りかえることができる(いな、とりかえねばならない)」としています。また、ローマ・カトリック教会の神学者であるカール・ラーナーは、「史実に関する報道として理解する必要はない」「これらのことが人類の起源に起こったに違いない、という説明である」としています。あくまでも、史実というよりも思想的なメッセージです。プロテスタント諸教会にも思想霊感説に立って理解する人々がおります。このような人々と似たり寄ったりの理解ということです。

 

 しかし逐語霊感説にたっている者たちにとっては、一言一句間違いのない出来事と理解し信じます。したがって、アダムの創造は歴史的事実です。

    (アダムの創造は歴史的事実)

 

 

次にカトリック要理では、人間の堕落の状態について説明をしています。

 

.16 人間の堕罪の状態とは、どういうものですか?

A.人間の堕罪の状態とは、人祖が人類のはじめに犯した罪の結果、すべての人間が神との親しい交わりを欠き、罪の支配下に陥ったことです。

 

(A)人間の最初の罪に由来する、この神からの分かれ目の状態は、キリスト教の古来からの伝統によって「原罪」と呼ばれています。

(B)聖書が語るように、堕罪によって人間の心の秩序が乱れ、人間は苦しみを経て、死を体験するようになりました。

 

 このように説明されています。この説明で、一つ気になるのは「キリスト教の古来の伝統によって『原罪』と呼ばれています」という点です。この「原罪」という表現は、初めてパウロが用いたものです。ですから、「古来」という表現は適切なのでしょうか。また、この場合「古来」というのは、いつ頃のことを指しているのでしょうか。

 

 聖書の中で代表的な記述として、「私は自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法がよいものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ書7:15-17)というパウロの苦悩があります。小田部司教は、このパウロの苦悩の問題について、ルターやカルヴァンは、これが人間の堕落の証拠であり原罪であるとしているが違うとしています。

 

 では何と理解するのか。彼は「人祖堕落の証拠ではなく、われらの意志の発動以前のものであるがゆえに罪でありえない」「われらが自由意志によって邪欲にしたがって初めて罪が生まれるので、邪欲それ自身は決して罪でも原罪でもない」と言います。

 

 しかし、イエスは、「わたしはあなたがたにいいます。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯しているのです」(マタイ5:28)と、言っています。

 

 明らかに、聖書と反する理解をしていると言わざるを得ません。パウロの苦悩は、原罪の問題です。人間の都合によって、聖書を解釈してはいけないのです。

 

 このようにローマ・カトリック教会は自己矛盾を犯していると言えるのではないでしょうか?

 

 ローマ・カトリック教会には、罪に対する理解に驚くべきものがあります。それは、罪には「小罪」と「大罪」の2つがあると説明しています。私たち、プロテスタント諸教会にとって罪は罪です。よく殺人罪と嘘の罪(偽装罪)は、どちらが重いですか?と、質問する方々がおられます。刑法の上では、殺人罪は無期懲役か死刑です。偽装罪は、書類送検ぐらいのものでしょう。人間社会では、はるかに殺人罪のほうが重いのです。しかし、イエス・キリストの十字架の前では、罪の重さはつり合うのです。罪に差別はありません。それだけ、十字架は重いのです。

 

 しかし、ローマ・カトリック教会は罪の重さを秤にかけるように比較しているわけです。「大罪」と「小罪」に違いについて簡単に述べてみましょう。カトリック要理の第13課「罪と罪のゆるし」という項に次のように説明されています。

 

罪・・・大罪・小罪について

 

.罪とはどういうものですか?

.罪とは悪いことと知りながら自由意志をもって神に背くことです。

 

.大罪とはどういうものですか?

.大罪とは重大な事柄について、はっきり意識し、完全に承諾して、神に背き、神の愛から離れることです。大罪は神に対する忘恩と屈辱であり、成聖の恩恵を失わせ、永遠の滅びを招くものです。

 

.小罪とはどういうものですか?

.小罪とは小さな事柄について、あるいは重大な事柄であっても、はっきり意識せず、あるいは完全に承諾しないで神に背くことです。小罪は成聖の恩恵を失わせませんが、神の愛を傷つけ、煉獄の苦しみを招きます。また、小罪を重ねることによって、大罪に陥る危険も大きくなります。

 

.大罪とは?

 

 ローマ・カトリック教会にとって、罪とは自由意志をもって意識的に神に背くことと説明しています。大罪については、はっきり意識し、完全に承諾して、神に背くことと説明しています。また、神の愛から離れることとも説明しています。この2つの定義に共通している大前提は、自覚的自由意志があるかないかです。自分の自由意志によって神に背く時、罪となるということです。また、自分の自由意志によって神に逆らうことをせずに従順であるならば罪人でないことになります。聖書は、アダムの末として生まれた人間は意識があろうがなかろうが罪人であると言っています。人間は、みんな生まれながら罪人であり、罪人の頭です。

 

 ローマ・カトリック教会において、罪人が救われるというのは、神の恵みであるが道徳や功徳が必要である、と言います。つまり努力が必要であるということです(この問題は後で述べます)。彼らはイエス・キリストを信じて義とされた者は、道徳的生活を努力して生きていかなければならないとします。この道徳生活がある基準を下回った場合、救いの恵みが破棄され、神の命を失うとしています。したがって救われた者が永遠の命を失わないように道徳的生活をしなければならない。この努力を怠った時、永遠の命を失うということなのです。これがキリスト者にとって大罪です。

 

 彼らは十字架の救いを否定していることになります。また、この大罪を犯さないように道徳的努力をします。ですからローマ・カトリック教会の人々は、ボランティア活動に対して熱心である、とも言うことが言えます。

 

.小罪とは?

 

 小罪は、直接に神の恵みや永遠の命を失うことはないとしています。この説明によると小罪には、2種類の区別があることがわかります。それは、

 

故意に承認して犯す罪

過失や無意識に犯す罪の二つです。

 

 この故意罪や過失罪ということは、よく理解できます。しかし問題は、これらをどのように理解し、取り扱っているかです。これらの罪について、「矯正と努力があるかないか」ということが中心の問題なのです。特に矯正と努力がない場合、大罪に陥り恵みと永遠の命を失うとしているのです。逆に言えば、矯正の意志と努力があるところでは問題にならないということなのです。練獄についての問題は、後で説明します。

 

 結局、大罪と小罪の差は、量的な差ではなく、質的な差ということです。悔い改めではなく、努力が必要なのです。

 

 

.救いと神の救いの計画問題について

 

 私たちプロテスタント諸教会にとって、救いと言えば十字架以外にはありません。聖書には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒行伝4:12)と宣言しています。どころがロ一マ・カトリック教会は、どうもそうではないのです。この問題も少々複雑になります。上記で使いました用語、道徳という問題、マリヤ問題、聖人問題、などが絡んでいるからです。1つ1つ整理して述べることにします。

 

《神の救いの計画と救い》

 

 神の救いの計画について、基本的な理解は共通しています。カトリック要理 第5課 救い主の計画の項に次のように説明しています。

 

.17 堕罪した人間を救うためには神はどのような計画をなさいましたか?

.神は、堕罪した人間を憐れんで、救い主イエズス・キリストをお遣わしになり、キリストを通して人間を罪から解放し、キリストのもとに全人類を1つに集めることをなさいました。

 

 このように、この問題については基本的には共通していると言えます。しかし、イエス・キリストの救いに預かるために善業が必要であると言うのです。ですから、どうしたら救いに預かるのか、という点において違いがあるのです。新カトリック教理には、「神の働きは、私たちに責任と発展をあきらめさせるのではない。却って、私たちがあるだけの方法で、罪と悪とみじめさに自ら働き、善業を積み、愛することができるように私たちを解放してくれる」と説明されています。つまり救いは神からの恵みとしての賜物であるが、この恵みを維持するため、救いの完成に至るために善業を積めと言っているのです。

 

 ですから、「われわれが、キリストの救済にあずかり、天国の幸福を受けるためには神よりの恩恵を賜り、善業をもってこれに応じなければならない」とも言うのです。救いを受けることについて、カトリック要理 第12課の「神の恩恵」という項に次のように説明しています。

 

成聖の恩恵・助力の恩恵

 

.53 神の恩恵とはどういうものですか?

.神の恩恵(恩寵)は人間をイエズス・キリストの救いにあずからせる神の恵みです。

 

 この恩恵は、神との特別な交わりと聖霊の働きを意味し、人間の本性と能力を越えているので「超自然の恩恵」とよばれます。エペソ2:4-8を引用しています。この神の恩恵には、成聖の恩恵と助力の恩恵とがあります。

 

参照 エペソ人への手紙2:-

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 

.54 成聖の恩恵は何を意味するのですか?

.成聖の恩恵は、人間を神の前に正しいものとして、神との親しい交わりに入らせ、神の子とし、神の生命にあずからせ、永遠の喜びを得る資格を与えます。なお、成聖の恩恵を受けている人の内には、父と子と聖霊が特に親しくお住まいになっておられます。

 

 コリント6:11、ローマ8:15-17、コリント3:16、6:19、ヨハネ14:23、エペソ5:3、コロサイ3:12、ガラテヤ5:22、ローマ6:22、ヤコブ3:2、マタイ6:12を引用しています。

 

参照 Ⅰコリント6:11

6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 

参照 ローマ8:15-17

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

参照 コリント3:16、6:19

3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 

参照 ヨハネ14:23

14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 

参照 エペソ5:

5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。

 

参照 コロサイ3:12

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 

参照 ガラテヤ5:22

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

 

参照 ローマ6:22

6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

 

参照 ヤコブ3:

3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

 

参照 マタイ6:12

6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 

.55 助力の恩恵は何を意味するのですか?

.助力の恩恵は救いを得させるために、人間の心を照らし強める神の助けです。この恩恵によって人間は信仰を抱き、心を改め、義人は聖性に進み、死ぬまで成聖の恩恵を保つことができます。人間は神の恩恵を受け入れ、それに従うようにしなければなりません。

ピリピ1:6、2:12-13が引用されています。

 

参照 ピリピ1:6、2:12-13

1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 

 以上のように説明しています。ローマ・カトリック教会独特の表現ですから、ちょっと頭の中が混乱してくるはずです。彼らは人間が救いに預かるのは聖霊の助けによる神の恵みである、と言っています。それはその通りです。しかし、恵みには2種類あるというのです。それが、「成聖の恩恵」と「助力の恩恵」ということなのです。これらを簡単に言うならばこのようになります。

 

.成聖の恩恵とは?

 

 天国に入る資格を指します。ですからキリストにある霊的な命です。ヨハネによる福音書3章3節にあるように、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」を引用します。そして、この霊的な命はイエスの御名を信じる者に与えられる恵みということなのです。さらにこの恵みは、イエスの御名を信じる者の内に、三位一体の神が内住する恵みと理解します。つまりパウロの言う「信仰義認」を言っているような感じがします。しかし、この救いの恵みについて、プロテスタント諸教会が理解するようには受け取っていません。むしろローマ・カトリック教会は、「われわれの有する神的生命は善業(祈祷と秘跡とを含む)によって増加する」と言うのです。

 

 さらに三位一体の神が内住する、という問題です。たしかに私たちが、イエスの御名を信じた結果、神との破れは回復し新しい命の中を生きる者となります。そして聖霊なるお方は内住されます。しかし、聖霊なるお方に心の人生の王座を明け渡しているでしょうか?自分の肉が王座を占めているのが現実です。ですから聖霊の導きに私たちは従えないのです。パウロは肉について、「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この2つは互いに対立していて、そのためにあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようにものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、めたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(ガラテヤ6:17一21)と説明しています。罪と死の法則の奴隷になっているのです。この法則と原理から解放されるために十字架に帰る必要があります。

         (天国のイメージ)

 

 

パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きておられるのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という聖化の経験が必要であることを言っています。このキリスト経験を通して初めて、心と生活の王座に聖霊が座り、一切を支配してくださるのです。この経験を通して、命の御霊の本則・原理の中で生きる者になるのです。こうして従えない者が従える者に変えられるのです。ジョン・ウェスレーは、この経験について「第2の転機」「聖化の経験」などと言います。この経験こそが、内住のキリストが王座を占め、神の宮としての歩みをするのです。

       (ジョン・ウェスレー)

 

 

.助力の恩恵

 

 この助力の恩恵ということについて、ローマ・カトリック教会の神学者や司教たちは次のように説明します。彼らは、神は人間の一生を通じて恵みが注ぎ続けているが、この恵みに対して応答することが大切であるとします。その応答として、善業を営むことによって霊的生命が与えられ、その維持と成長が与えられると理解しています。つまり信仰の土台の上に善業の実を結ばなければならないとしているのです。結局、ヤコブの言う「行為義認」を言っているのです。しかし、このヤコブの行為義認についての理解は誤った理解です。

       (行為義認を唱えたヤコブ)

 

 

 

このように2種類の恵みについて説明しました。しかし、何がなんだか混乱をしたのではないかと思います。この「成聖の恩恵」と「助力の恩恵」の関係について述べてみます。 

 

 この2つの関係は、ローマ・カトリック教会にとって、恵みと恵みの維持の関係ということです。さて、成聖の恩恵の聖書的根拠としているいくつかの聖句を引用しています。 

 

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ書2:8一9)

 

 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いによらず、召してくださる方によるようにと・・・(ロ一マ9:11以下)

 

 このように罪からの救いは、神の賜物であり神からの一方的な恵みであると説明しています。この点においては、プロテスタント諸教会も同様です。ローマ・カトリック教会の神学者カール・ラーナーも、業ではなく信仰による以外に救いはない、と主張しています。この点について共通しているとも認めています。しかもカール・ラーナーはこの恵みについて、「『この恩恵のみ』という思想は、キリスト教的かつカトリック的心情において見出されるものなのである」と言います。この「神の恵み」を思想としているのは、いささか頷けません。この恵みは思想ではなく、歴史的事実です。詳細なことはさておいて、救いについて「信仰のみ」を承認するという点においては同じであるということです。

 

 さて、問題は助力の恩恵ということです。彼らは今、述べたように「信仰によってのみ」救われると言います。しかし、この救いの恵みを維持していくために必要なものは、善業であるとします。戸塚文卿司祭は、「神は恩寵をわざによらずして与えたもうのではあるが、われらは自由意志をもって、ふさわしくこれに協力し、信仰の土台に善業の実を結ばなければならない」と説明しています。このような理解を「善業必要説」といいます。この善業必要説の聖書的根拠をどこに求めているのでしょうか。

 

 ああ愚かな人よ。あなたは行いのないに信仰がむなしいことを知らないのですか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありあませんか。(ヤコブ2:20一21)

 

 行いのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)

 

 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことは決してありません。(ペテロ1:10)

 

 これらのことを行っていれば(新改訳)  これらの善業を行っていれば(カ)

 

 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば決して罪に陥ることはありません。(新共同訳)

 

 これらの聖句を根拠に、聖書が善業を求めていると主張しています。さらに、それらを支える聖句として以下のように引用します。

 

 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(コリント13:2)

 

 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。(マタイ7:21)

 

 いくつかの聖句を検討し釈義していきましょう。その上でローマ・カトリック教会の主張が正しいか否かを判断する必要があります。

 

 ヤコブが言うところの「行いによって義と認められた」「行いのない信仰は、死んでいるのです」ということは、何を意味しているのでしょうか。ローマ・カトリック教会が理解するように、善業によって義とされる、救いの恵みを維持する手段として理解・解釈することは困難です。困難どころではない、無理です。

 

 ヤコブは行為義認の問題ついて、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないによって全うされ」(ヤコブ2:21-22)と言っています。創世記の記述を見ても、アブラハムが善業によって義と認められたという内容はありません。むしろ信仰によって義とされています。

 

 ヘブル書には、「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクを献げました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとり子をささげたのです。・・・彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは、型です」(ヘブル11:17-19)と記述されています。アブラハムには、復活信仰が与えられていたのです。また、全焼のいけにえ(献身)として、最も大切なものを神に献げたのです。アブラハムは、この行為によって義と認められたのです。行為義認とは、そういうことを言うのです。どこにも善業によって義と認められたなどとは書いていません。

   (イサクを捧げるアブラハム)

 

 

ペテロが「これらのことを行っていれば、つまずくことは決してありません」と言っている意味は、どういうことでしょうか。ペテロがこの手紙を書いた理由は、「偽教師が出現したから」なのです。この点については、ユダの手紙の背景と同じです。その内容の中心は「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」(ペテロ2:1、ユダ4)ことです。つまり、「贖いの十字架の否定」ということです。

 

 彼らは十字架のキリストを否定し、不敬虔な者であり、汚れており、肉欲と好色を愛する(ペテロ2:2、10、14、ユダ4)生活をしていました。そればかりか、迷っている多くの者を誘惑し福音から離れさせました。(ペテロ2:14、18)

 

 また彼らは大胆で、尊大な者であったのです。一見、彼らの言うことはもっともらしく聞こえるのです。しかし、その教えと行いにおいてイエスの十字架と贖いを否定しているのです。

 

 ペテロが、ペテロ1:10において「ますます熱心に」というのは、1:5の「あらゆる努力」を受けて用いている言葉です。「召されたことと選ばれたこと」とは、神がキリスト者をご自分の目的のために用いようとされていることを意味しています。召された者は、召しにふさわしく歩むことが求められているのです。つまりクリスチャンは、イエス・キリストから委ねられた使命に生きるということです。決して善業を行っていれば救われる、などとは言っていません。まして救いの恵みを維持するために善業を積めなどと言っているのではなりあません。むしろなぜ、召されたのかが大切です。それは遣わされるためです。

 

(イエスから天の御国の鍵を渡され、手紙を通して召しについて語ったペテロ)

 

 

ヨハネは次のように言っています。「あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(ヨハネ15:16)と。実に私たちが召されたのは、神の約束された御国を受け継ぐためであり、実を結ぶ人生を生きるための選びです。しかもキリストの使徒として生きるためなのです。

 

 ここでペテロが、「確かなものとしなさい」と言っていたのは、神の召しと選びは人間の努力に根拠があるのではない。神の恵みを日々の生活の中で、新しく召しと選びを確かなものとしなさい、ということです。というのは、神の召しと選びの中にとどまり、自己満足している人々が存在したからです。そうであってはならないのです。もし、そうであるならば、そこには「つまずき」が始まっているからです(エペソ1:18-19、ピリピ3:14)。

 

参照 エペソ1:18-19

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 

参照 ピリピ3:14

3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

私たちはペテロが言うように熱心に、召しと選びを確かにするために、使命に生きることです。パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:14)と言います。このように使命に従って歩むのです。このことをおこなっていれば、つまずかないのです。決して善業をおこなうようにとは言っていません。

 

 戸塚文卿司祭は、「私は、善業すなわち道徳は義とされるに必要か否かとの問題にうつる。われらカトリックはそれを次のように考える。われわれはただ信仰のみによって救われることはできない」と言います。では、救われるためには何が必要なのか。人間の救霊は神の有効なる恩恵と人間の自由意志との協力による8)というのです。やさしい教理問答の210の項には、次のようになっています。

 

.210 助力の恩恵は救いを得るために必要ですか?

.助力の恩恵は、救いを得るためにすべての人にとって、必要です。

 

 まさに自己矛盾が起こっているとしか言いようがありません。ローマ・カトリック教会にとっては、神からの一方的恩寵としての救い(成聖の恩恵)と善業としての道徳的行いや功徳を積むこと(助力の恩恵)による救いなのです。

     (戸塚文卿司祭)

 

 

一方では信仰義認を言い、一方では行為義認の間違った理解をもって努力を求めているのです。結局、救いの2重、3重構造ができているわけです。このような理解について、「神人共働説」と言います。これはまさに、人間の救いは神と人間の共働の業によるという説です。救いのためには恵みに対する人間の協力が可能であり必要であると主張します。同時にこの協力すら神の恵みの先行によるということを明確しています(トリエント公会議 DC1525以下参照)。結局、十字架否定を言っています。まさにそれは福音ではありません。イエスは十字架上で、「すべてが終わった」と語り、命を引き取りました。この意味は、「救いが完成した」という意味であることは言うまでもありません。

(弟子たちや群衆に真理を伝える イエス・キリスト)

 

 

またパウロは、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。・・・『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」(ロ一マ10:9一13)と言っています。

 

 やさしい教理問答の116と117には、罪の赦について次のように説明されています。

 

.116 神は何によって人の罪をおゆるしになりますか?

.神はイエズス・キリストの御功徳によって、人の罪をおゆるしになります。

 

.117 罪のゆるしはどうして得られますか?

.罪のゆるしは自分の罪を痛悔して、イエズス・キリストのお定めになった洗礼、あるいは告解の秘跡を受けることよって得られます。

 

 このように十字架は否定されています。そして洗礼と功徳が罪の赦しの根拠とされているのです。

 

 

 

.善業必要説の問題について 

 

 今まで説明してきましたように、ローマ・カトリック教会は、救いには善業が必要であると言います。この彼らの主張に少し耳を傾けてみることにします。

 

公教要理問答

340 その行う善業は永遠に報いられる価値のあるものとなります。

 

 ここで言う、「永遠に報いられる価値」というのは、善業の功徳のことを言います。紀元529年に開かれたオランダの宗教会議において、「われわれの行う善業は報償に値する。されど、善業に先立つ神の自由な賜なる恩恵は、善業の欠くべからざる条件なる」と決議しています。そしてこの「徳」について、やさしい教理問答に次のように説明されています。

 

.194 徳とは何ですか?

.徳とは善を行い、悪を避ける習慣です?

 

 しかもこの徳にはいくつかの種類があるのです。

 

.195 超自然徳とは何ですか?

.196 信仰の徳とは何ですか?

.197 希望の徳とは何ですか?

.198 愛の徳とは何ですか?

.199 キリスト教の完徳とは何ですか?

 

 このように、「超自然徳」を「信仰の徳」「希望の徳」「愛の徳」の3つに分類しています。そして、「キリスト教の完徳」を特別なものとして、扱っています。さらに続けて教理問答には、こうなっています。

 

.201 完徳を目指して励むには、どうしたらよいのでしょうか?

.完徳を目指して励むには、イエズス・キストの模範を仰いで、教えをよく学び、熱心に祈り、秘跡をたびたび受けるようにします。そして常に、自分に打ち勝ち、悪は小さいことでもこれを避け、辛いことをも我慢して、人々に奉仕するように努めることです。

 

 ここで、「超自然徳」について少し説明をしておきます。この超自然徳とは、「超自然の善を行うために、神の超自然の御働きによって与えられる徳です」と教理問答には説明されています。徳の定義と超自然の定義を検討してみると次のようなことがわかります。第1は、善業を行うために神の力が必要で、第2は、「超自然の善を行うため」の神的善ということ、この2つです。何が天国の報酬に値する善業であるか、という善業が功徳を生じる条件として述べています。要約してみます。

 

悪しき行為であってはならない。これは倫理的意味ではない。様々な誘惑に勝つこと自体が報酬を受けること。

 

善業は自由意志より出たものでなくてはならない。

 

功徳が積めるのは、この世においてのみである。

 

成聖の恩恵(恵み)を求めても、功徳を積むことができないのは葡萄の木であるイエスにつながっていないから報酬を受けられない。

 

永遠の報酬に値する善業は超自然的善業でなければならい。そして、助力の恩恵を受ける。

 

超自然的功徳を得るためには、超自然的な動機(目的)が必要である。

 

 彼らが、この一つ一つの内容の聖書的根拠としている、聖句を検討していきます。についての聖句は、「ああ、私が福音をのべないなら、禍なことだ。私が、すすんでそれをするなら報いがある』(Ⅰコリント9:17)【ドン・ボスコ訳】

 

 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には努めがゆだねられているのです。(コリント9:17)【新改訳】

 

 イエズスは、「なぜよいことについてたずねるのか。よいお方は、ただ一人である。あなたが命に入りたいのなら、掟を守れ」とお答えになった。(マタイ19:17)【ドン・ボスコ訳】

 

 イエスは彼らに言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。(マタイ19:17)【新改訳】

 

 コリント9:17は、「報い」という言葉の解釈の問題です。パウロは、ここで何を意味して「報い」と言っているのでしょうか。この箇所の前後関係からわかる問題は、「権利」の問題です。これの内容は、生活費を受ける権利です。パウロは、キリストの福音に少しも妨げにならないように権利を行使しませんでした。しかも、9:18においてパウロは「では私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです」と言っています。つまり、「福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与える」こと自体が最高の「報い」なのです。彼らが言うように、「様々な誘惑に勝つこと自体が報酬を受けること」という意味ではありません。

 

 マタイ19:17は、富める青年の話です。この話は、19:16-30です。この19:16の「ひとりの人」というのは誰か。20-22節には「青年」であり、ルカ18:18によれば「役人」です。このひとりの人は、マルコ10:17によれば「走りよって、御前にひざまずいて、尋ねた」とあります。この話の全体から熱心な求道者であることがわかります。彼はまじめであり、人望もあり、財産もあり、熱心に求道するこの青年の唯一の関心はなんでしょうか。それは、「どんな良いことをしたら、永遠の命を得ることができるか」ということです。永遠の命が何か善業をすることによって得られると思っていたのです。この理解は、パリサイ人的な考え方です。

 

 この青年にイエスは、戒めを守るように求めたのです。イエスが要求した戒めは、モ一セの十戒の後半の要約です。これは人間関係における義務です。この要求に対する、青年の答えは「そのようなことはみな、守っています」ということでした。しかし、戒めを厳格に守っていても、永遠の命を得ることはできないのです。イエスがこの青年に求めたことは功徳によって永遠の命は得られないということです。にも関わらず、ローマ・カトリック教会は戒めを守れと言います。

 

 これは明らかに非聖書的理解ということになります。むしろイエスは富に捕らわれた自我の罪を一切捨てて従うように求めておられるのです。イエスは、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私に従って来なさい」(11節)と言います。この青年は、悲しんで去っていったのです。その後、イエスは弟子たちに「金持ちが神の国に入ることはむずかしい」と言われました。この「むずかしい」について、不可能と理解する人もいます。永遠の命は、功徳によって得られるのではなく、頑固な自我を捨ててキリストに従うこと以外に得ることは、できないのです。

 

 むしろ自由意志をもって自我を捨ててキリストに従うことが大切なのです。

 

 についての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明しています。

 

 私をおつかわしになった方のみわざを、私たちは昼の間におこなわなければならない。夜がくれば、だれもはたらけない。(ヨハネ9:4)【ドン・ボスコ訳】

 

 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜がきます。(ヨハネ9:4)【新改訳】

 

 私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体でおこなったきおとの善悪にしたがって、報いを受ける。(コリント5:10)【ドン・ボスコ訳】

 

 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体あってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(コリント5:10)【新改訳】

 

 ヨハネ9:4について考えてみましょう。ヨハネ9章は、盲人の癒しについての記述です。ヨハネ7章から仮庵の祭りを背景とした論争と「私は世の光である」というイエスの主張が述べられています。この9章は、ヨハネの福音書における第6の奇跡として盲人の開眼の奇跡が記述されています。ユダヤ人たちは、霊的盲目であったのです。そのため、イエスが神から遣わされた世の光であることを認めることができませんでした。しかし、イエスがこの生まれつき盲人の眼を開眼するしるしを見せて下さいました。このことは、イエスは肉眼だけではなく霊的な眼の開眼を与えるお方であるとことを示しています。まさに、イエスは人を闇の世界から光の世界に導くお方であるということです。したがって、「わたしたちは、わたしを遣わした方」とは、イエスの公的宣教の時ということを昼という象徴的な表現をもってあらわしています。この場合、「わざ」というのは、宣教のわざのことです。イエスが世の光であるように弟子たちも世の光なのです。この宣教の使命にイエスは弟子たちを参与させようとしておられるのです。決して昼の間に功徳を積み、善業を行えと言っているのではありません。

    (世の光として来られた イエス・キリスト)

 

 

 

コリント5:10について考えてみましょう。この聖句の「キリストの審判の前で」というのは、キリストの絶対的審判を意味しています。神の審判は、神の聖さと公平を意味しています。なぜパウロはこのようなことを言うのでしょうか。それはパウロは死を憧れていたのです。それはキリストに喜ばれ神の栄冠を得ることに対する憧れです。この憧れが、パウロを使命に熱心な者としたのです。イエスから与えられた使命を果たすためには、肉体がなければできないのです。この肉体をもって、神の意志を行うことも悪を行うこともできるのです。したがってパウロは肉体をもって、キリストに喜ばれるように用いたいという願いから言っているのです。決して明るいうちに功徳を積めように勧めているのではなりません。

についての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明します。

 

 あなたたちは、私の語ったことばを聞いたことによって、もう刈りこまれたものである。私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私のかれらのうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちはなにひとつできないからである(ヨハネ15:4一5)【ドン・ボスコ訳】

 

 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:4一5)【新改訳】

 

 (手紙を通してメッセージを伝える使徒パウロ)

 

 

彼らはぶどうの木であるイエスに一致すればするほど、成聖の恩恵(信仰義認)が増加するとしています。ここで聖人問題が登場します(この聖人問題は後で説明することにします)。彼らは聖人と凡人を区別して理解します。聖人は凡人よりも成聖の恩恵である神の永遠の命に溢れているとしています。そして功徳の多いのは、聖者の祈祷と償いであり価値があるとするのです。この聖人の功徳にイエスは感動し、心動かされるのであると信じています。したがって、ぶどうの木であるイエスにしっかりと結合しているのは聖人であって凡人ではないと理解しているのです。ぶどうの木であるイエスに結合しきれていない凡人は、聖人の力を必要とします。そしてその根拠として、「わたしのしもべヨブは、あなたがたのために祈るであろう」(ヨブ記42:8)を引用します。ヨブのように、とりなしの祈りをしているというわけです。このようなことから、彼らは聖人の代理祈祷を好むのです。

 

 ヨハネの福音書15章は、イエス・キリストと私たちの関係をぶどうの木と枝で譬えています。イエスを信じ、罪を悔い改め救いの恵みを受けた者は、ぶどうの木と枝の関係に入るのです。その結合が中途半端であるとか、ないとかということは問題ではありません。しっかりと結合しているのです。しかし、問題は不必要な枝があることです。葡萄酒はぶどうの実から作ります。良質な葡萄酒は良質な葡萄がなければ作れません。どのようにしたら良質な葡萄が作れるのか。それは、栄養が分散しないように無駄な枝を栽培人は切り落とすことなのです。この作業によって、肝心な葡萄そのものに栄養が行き届くのです。無駄な枝とは何か?それは、神を第1と出来ない事柄です。神はそれを切り取られるのです。キリスト教会は、イエス・キリストの十字架の贖いによって集められた共同体です。また、キリストのからだです。キリストのからだ(木)に結合された者(枝)となったのが私たちです。神の側からしてみれば、結合された者です。しかし、人間は自分の自由意志によってそれを拒否することができるのです。私たちが、ぶどうの木であるイエスにとどまり続け、無駄な枝を切り落とされるとどんな実を結ぶのか?イエスは、「わたしがこれらのことをあなたがたに話たのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)と言っています。つまり喜びの実を結ぶのです。この喜びは、完全な喜びです。イエスに従い、愛と戒めの中にとどまる生涯は、苦痛ではなく喜びになるのです。ですから教会は、喜びの満ちているところであるのです。したがってローマ・カトリック教会のように功徳を積む、積まないの問題ではなく、イエスに従うか否かの問題なのです。

 

    (イエスさまは ぶどうの木)

 

 

ヨブ記42:8についての問題も同様です。ヨブはたしかに、友人たちのためにとりなしの祈りをしています。これは聖人ヨブが功徳を積むことのできない友人たちのためにとりなしの祈りをしている、ということではありません。私たちが人々のために取りなしの祈りをするように、ヨブは友人たちのために祈っているのです。決して功徳が足りない友人たちのために祈っているのではありません。 

 

についての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明します。

神はモ-セに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」といわれました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:15-16)【新改訳】

 

 何事かを自分のしたことと考える資格は私たちに自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。(コリント3:5)【新改訳】

 

 神はモーセに「私は、あわれもうとする者をあわれみ、情けをかけようとしる者に情けをかける」と言われた。こうして、選びはのぞむ者、走る者にかぎらず、神のあわれみによる。(ローマ9:15-16)【ドン・ボスコ訳】

 

 何事かを自分に帰する資格を、私たちはもっていない。いや、私たちに資格を与えたのは神である。(コリント3:5)【ドン・ボスコ訳】

 

 パウロはローマ書9章において、選びの問題について論じています。それは、選民イエスラエルがキリストの福音を受け入れないままで、神に捨てられている状態にあるのかということです。パウロはモーセの例を挙げ、神の選びは専制君主的な決定によるのではない。ただ、神のあわれみによる選びによると言っているのです。なぜなら神は全く自由であり、誰からも束縛されることがないお方です。神は、あわれみたいと思う者を憐れみ、いつくしみたいと思う者をいつくしむことができるお方なのです。それは人間の正義や倫理や善業を越えた、神の主権的自由なのです。それは神が絶対者であることの当然の結果なのです。

 

 ローマ・カトリック教会は、天国の栄光は、人間の努力によって得られるものではない。神の助力がなければ無理であるとします。それは神の助力がなければ善業をする力がないという理解なのです。もちろん罪人である私たち人間は、救われる資格はありません。しかし、資格がないからといって、神の力を受けて善業することによって救われるのでもない。あくまでも、神の一方的な十字架の恩寵によるのです。そして、恩寵による選びなのです。

 

 コリント3章における問題はなんでしょうか。パウロは、この箇所において福音宣教の資格について語っているのです。パウロは決して、福音宣教の適格者とは考えていません。むしろ不適任者であると考えています。そのような者が、神のあわれみと恵みによって資格を与えられていると言うのです。パウロは自分の働きが、自分の力によるものではないことを十分に知っていました。神の恵みが自分の弱いところを支え、用いて宣教の働きをさせてくださっている確信に立っているのです。福音宣教の資格は、神から与えられているのだと言うのです。

 

 パウロは救われるための資格や福音宣教の資格はないが、恩恵の助力によって資格を与えられた、と言っているのではない。福音宣教の資格は、神から与えられると言っているのです。パウロは善業を肯定しているのではないことがわかります。

 

 についての聖書的根拠として次のような聖句をもって説明します。

 

 人に見せるために人前で善業をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。・・・彼らはすでに報いを受け取っているのです。・・・隠れた所で見られておられるあなたがたの父が、あなたに報いてくださいます。・・・彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6:1-16)【新改訳】

 

 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント13:13)【新改訳】

 

 人にみせびらかそうとして、他人の前に善業を行わないように気をつけよ。そんなことをすれば、天においでになるあなたたちの父からの、すべてのむくいがうけられない。だからほどこしをする時には、偽善者が、人の尊敬をうけようとして、会堂や町でするように自分の前でラッパをならしてはいけません。・・・そういう人はすでにむくいを受けとってしまったのである。・・・あなたがたの父がむくいをくださる。・・・そうすれば、かくれたことをごらんになるあなたがたの父が、むくいてくださる。(マタイ6:1-16)【ドン・ボスコ訳】

 

 今あるものは、信仰と希望と愛の三つである。その内でもっとも偉大なものは愛である。(コリント13:13)【ドン・ボスコ訳】

 

 マタイ6:1-16の問題について検討してみましょう。この箇所を分解すると細かくなります。したがって、私は大きく一言でこの箇所のテーマを「報酬と動機」と付けました。ユダヤ社会の宗教生活には、3つの善なる柱となるべき行為があったのです。それは、施し祈り断食の3つです。イエスは、決してこの3つを否定してはいません。しかし、しばしばこの3つの事柄に関して、間違った動機でなされていたのです。イエスはこのことについて警告を与えたのです。それは神の栄光のためになす行為であるべきものが、自分の栄光のためになされているのです。つまり施しをする行為の動機が間違っているのです。施しをする人々の中に自分の寛大さを示し、感謝と賞賛を集めようとしていることが少なくなかったのです。祈りについても同様です。人々の中には、神と語るのではなく人々に語りかけるように祈るのです。そして彼らは、いかにも信仰深いように演技をしているのです。断食も同様です。断食の時、神の前でへりくだるのではなく、人々の前でへりくだるのです。いかにも自分が義人であり忠実な者であることを見せようとしているのです。

 

 このような人々に対してイエスは警告を与えています。この「報い」という理解自体は、聖書的な主張の1つです。しかし、これはご利益、功徳を意味しているのではありません。正しい意味での理解を欠くと非聖書的になってしまうのです。パウロは「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2:6)と言っています。ここでパウロは、善業によって救われると言っている意味ではないことは言うまでもありません。

 

 コリント13:13の問題は、善業・功徳について肯定的な意味で愛の業を求めているとしているのでしょう。たしかに愛の業は大切です。しかし、その動機が問題です。私たちが報酬を計算に入れた愛の業を行ったらどうでしょうか。それは愛と言うことができるでしょうか。むしろ計算高い、腹黒いと言われてしまいます。愛は報酬を期待しないのです。愛はどこから来たのでしょうか。ヨハネは、「愛は神から出ているのです」(ヨハネ4:7)と言っています。ですから愛を求めるということは神を求めることなのです。それは十字架のイエスを求めることです。また、豊かなキリスト経験をすることです。ローマ・カトリック教会のように、救われるために善業・功徳としての愛を求めろ、ということではありません。また、救われるために純粋な動機が必要であるというのでもありません。むしろ聖書は救われるためには「求め」が必要であると言っています。イエスが道を通っている時、二人の盲人が大声で「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫び続けています。イエスがツロとシドンの地方に行かれた時、カナン人の女が叫び声をあげて「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けています。サマリヤの女との出来事においても同様です。この女は、「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と求めています。

       (サマリヤの女)

 

 

イエスは、求める者に救いを与えて下さるのです。決して救いのために善業・功徳をせよというのではありません。パウロは、「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても救いを受ける私たちには、神の力です」(コリント1:17一18)と言っています。人間が救われるために、十字架以外の条件を付けてはいけないのです。今も昔も未来も、「十字架以外に救いはない」のです。

        (救いは十字架のみ)

 

 

 

引用文献  

 

.新カトリック教理  P328  J.ヴァン・ブラッセル著(山崎寿賀訳)  エンデルレ書店

 

.戸塚文卿著作集 カトリック読本  P105  中央出版社

 

.新カトリック教理 オランダ新カテキズム  P311  J.ヴァン・ブラッセル著(山崎寿賀訳)  エンデルレ書店

 

.キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論  P151  カール・ラーナー著(百瀬文晃訳)  エンデルレ出版

 

.      同          P476 エンデルレ出版

 

.戸塚文卿著作集 カトリック読本  P107  中央出版社

 

.      同          P66   中央出版社

 

.      同          P112  中央出版社