サマリヤの女

 

  カトリックへの警告!!

 

 

第5章 死後の世界について  

 

 この死後の世界については現実的な話題です。人間には、死後の世界があるなしの賛否が、今も昔も論議せられています。特に現代社会において、この種の関心が高まっています。この問題は生命の尊厳、生命の倫理に関する大きな問題でもあります。人間の共通因数は死です。人間の死は私の死です。死は、決して他人事ではありません。人間は、死を決して避けて通ることはできません。人間はこの世に生を受けてから死に向かって生きる存在です。クリスチャンは死後、どこに行くのでしょうか?いいえ、人間は死後どこに行くのでしょうか?聖書は、死後の問題をどのように説明しているのでしょうか?このような問題について、ロ一マ・カトリック教会の見解を見てみましょう。カトリック要理第14課「死と死後のこと」を参照します。  

   

.60 人間は死んでからどうなりますか?  

.人間は死んでから、からだは土にかえり、霊魂は一生の善悪について神に裁かれます。各人は死後神のさばきを受け(私審判)、すべての人々は世の終わりによみがえってから一緒にキリストのさばきを受けます。(公審判) 

 

.61 死後のさばきを受けて、人間はどのようになりますか?  

.死後のさばきを受けて、人間はそれぞれ、ただちに天国の幸いか、地獄の罰か練獄のきよめを受けます。 

 

.62 天国の幸いは何を意味しますか?  

.天国の幸いとは、三位一体の神をありのままに見て、その愛と光栄にあずかり、さらに復活されたイエズス・キリストをはじめ、聖母、諸聖人と親しく交わって、喜びを共にすることです。 

 

 この天国の幸いを得るのは成聖の恩恵をもち、少しも罪の汚れがなく、償いも残っていない人です。また、この世で得た各自の成聖の恩恵といさおしとの度合いによって、永遠の光栄と幸いの度合いも異なります。 

 

 なお、世の終わりのよみがえりの後、光栄あるからだをもつ人間として、この天国の幸いにあずかります。  

 

.63 地獄の罰は何を意味しますか?  

.地獄の罰とは、大罪を持ったまま人間が、神から永遠に離れてキリストを失い、特殊の苦しみを受けることです。  

 

.64 練獄のきよめは何を意味しますか?  

.練獄のきよめは、天国の幸いを受ける幸いを受ける前、心の汚れを完全にきよめ、残された償いを果たすことです。(マカバイ記下12:42-46参照) 

 

 このように、死と死後に関することを抜粋してみました。この内容を図にしてみますと次のようになります。  

 

公審判 天国 ←─┐

 審判  結果 練獄──┘祈祷・善業  

     私審判 地獄

 

 このように信仰問答を図で表現してみると理解しやすいと思います。これらはプロテスタント側から見ると、理解に困難を覚える点がいくつかあります。例えば公審判、私審判、練獄等がそれにあたります。ヘブル書の著者は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と言っています。

 

 つまり審判が定まっているのであって、練獄行きが定まっているのではないのです。

 

.審判について

 

 彼らの説明によればこの裁きには、私審判と公審判の2種類があるとしています。この2種類の審判について述べていきましょう。ただし、私審判の中に煉獄思想が存在しています。この問題にも少々説明を加えます。

 

(1)私審判

 

 この私審判とは、死後直後に行われる審判のことです。この審判には、2つの種類に分類することが出来るとしています。それは、「派生的なもの」と「本質的なもの」です。この派生的なものは、部分的な償いとしています。本質的なものは、永遠の刑罰を意味するとしています。つまり前者は生前の行為に対する審判であり、後者は徹底的な審判ということです。彼らはこの審判の場所について、「死者の世界は、時間や空間はないので、場所は考えられない」しかし、審判の基準について聖書の中に言及されているとしています。その箇所は、マタイ19:16以下であるとします。この箇所には何が書いてあるのか?それは、一人の青年が主イエスのところにやって来て、「先生。永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と訪ねています。この問いに対して、「戒めを守れ」と言われた。この戒めの中で特に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という点を強調されたのです。ですから、この「愛せよ」という命令を慈善の業(愛徳)による基準と理解しているのです。愛の業に根拠があるわけです。ですから十字架による贖いに根拠においているのではなく、業に根拠をおいているのです。

 

 ローマ・カトリック教会は、死後においても救済の道を開くためにトレント公会議においては、「練獄の存在」「死者のためのとしなしの祈り」の有効性について教義として決定しました。また、第二バチカン公会議において、練獄についてコリント5:10以下を私審判の根拠としました。そして、死後練獄で清めを受けることを再確認しています。あるいはベネジクト12世の憲章においては、ベネジクツス・デウス(1336年)が私審判は信ずべきものとして決定したのです。これらのことについて、ローマ・カトリック教会の里脇浅次郎によれば、「勿論、ここに私審判の教えが始まったというのではない。実は徐々に発展した真理がここに至って明確にされたというに過ぎない」と言っています。本来聖書の真理は、徐々に発展するものではなく啓示によって開かれるものです。このようにローマ・カトリック教会において、真理は徐々に発展するものという理解を一面にもっています。その結果、人間は死後直ちに私審判を受けるが同時に回心のチャンスも与えられているとまで言います。

 

(2)練獄

 

 私審判の結果、死者は3つのコ一スに分類されます。それは、天国と練獄と地獄です。ここでの問題は、練獄についてです。練獄は、どんなに神に忠実な信仰深い人であっても、罪が完全に赦されていない者(小罪が残る者)が行く所なのです。そこで祈祷と善業を行い、功徳を積み、罪が浄化されるまで留まる場所なのです。また、そこにいる霊魂は、聖徒のとりなしの祈りやミサの犠牲によって浄められ救われると言うのです。このような状態を中間状態と言います。練獄は完全な悔い改めをできなかった人の救済の道なのです。悔い改めの不徹底な原因は、自我(被造物)に執着し断切れなかったからと言います。これは仏教で言う煩悩のことです。この煩悩を断切る場所として、一時的な苦痛を伴う場所という意味があるわけです。しかし、この練獄は永遠の世界が開かれると存在しなくなるとしています。

 

 さて日本人は神道国家ですから、お清めといって塩で浄めます。ローマ・カトリック教会は、この塩に対して練獄の浄めは火による浄めであるとしています。しかも練獄の火という表現は、クレメンス6世の書簡やパウロ6世などによる「信仰宣言」に出てくることを一つの根拠としています。もう1つの根拠として、パウロは、「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かりました」(コリント3:15)と言っているということです。それはパウロは練獄の火をくぐりぬけて助かったのだと解釈します。この理解は、聖書解釈の諸原理を無視したものです。しかし、ローマ・カトリック教会にとってこのような練獄の状況を、「浄めの状態」「浄めの場所」と表現しています。

 

 この練獄についての根拠をどこに求めているかと言いますと外典です。外典のどの箇所かと言えばマカベ後書12:42以下です。ここにはユダヤが祖国のために死んだ兵卒のために祈った記述があります。ここを根拠としているのです。もう1つ、彼らが主張する点があります。それは、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」(ペテロ3:19)を根拠にしています。この箇所から、イエス・キリストは十字架の死後、天国に入る前の練獄という場所に行って何かを宣べ伝えたと言うのです。この箇所の解釈については後で触れます。

 

 カール・ラーナーは、この練獄について大胆な意見を言っています。それは、東洋の諸文化世界において、輪廻転生という理解があることに着目するのです。そして東洋世界で言われる「生まれ変わり」は中間状態からの可能性が考えられるとまで言っています。ただし、「『生まれ変わり』は永遠にとどまることなく、時間的に継続される、人間の宿命であるかのように理解されてはならぬ、ということである」と融合的な理解をしています。

 

(3)公審判

 

 公審判とは、プロテスタントでいう世界大審判のことを指しているようです。ですから死んだ者から甦り、その後に生きている者が主の審判の前に出されるのです。里脇浅次郎によれば、「公審判は、復活した人間全体の外的かつ公的な裁きである」と説明しています。

 

 ローマ・カトリック教会に「あけぼの」という雑誌があります。この中に、教理に関する質問と回答のコ-ナ-がありますので参考にしてください。

 

 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)

 

Q.このように、聖書にはしばしば「地獄」のことが言及されています。これは、神さまが愛であるというところと、とても開きがあるように思えます。神さまがやさしい父親のような方なら、なぜ地獄などという恐ろしい所をお造りになったのですか。

A.この質問は、いろいろな方からいただきます。聖書の理解の仕方を学ぶ上で好例だと思います。つまりイエスも新約聖書の記者たちも、当時のユダヤ世界に流布していた、「黙示文学」という特殊な文学の表現やイメ-ジを使って語ります。しかし、私たちは比喩として用いられたイメ-ジを、文字どおり実存としてとらえるのではなく、むしろそれが言おうとしている人間の現状を読み取らなければなりません。「地獄」とは、人間が自由な判断をもって神の招きを拒絶することがあり得る、という可能性を表現するものです。それは、今の人間の生き方をまじめに判断するように呼びかける役割をイメージ、いわばイラストとも言うべきものです。

だから神は地獄などをお造りにならなかった、と言ってよいでしょう。ただ、人間は神さまに逆らって、自分で神から決定的な形で遠ざかることができるという、そういう自由と責任を与えられています。あえて言うなら、地獄は人間が自分で作るものです。

 

 聖書を読むとき大切なのは、一つ一つの言葉にとらわれるのではなく、イエスの告げた福音の心から理解していく、ということです。イエスは神のことを、罪人の帰りを一日千秋の思いで待ちわびている父親のような方として告げました(ルカ15章参照)。どんな罪を犯しても、お詫びすればゆるしていただけます。神はすべての人の救いを望んでおられます。そして、私たちの救いのために、その御子さえくださったのです。

 

「わたしたちはすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)

 

 これに関連して、カトリックの伝統的な「公教教理」で言われる「練獄」について述べておきましょう。人が沢山の罪を犯したまま死んだとき、やはり神に清めていただかなければなりません。練獄とは、その清めのことを言います。それが具体的にどういう形でなされるのか、私たちにはわかりません。やはり神に背いてきたことを直視することは人間にとって痛みでしょう。しかし、練獄の火とかその期間とかは、ある時代の状況の中で、ある民族の想像に基づいて言われるようになったものです。神は私たちが生きている間に犯した罪を清めて、私たちの生の営みを変容し、永遠の命へと高めてくださいます。

 

 だからこそ、死者のために祈ることは大切です。神を信じる者は、生きていても死んでいても一つの神の家族を造っています。キリスト者は、すべての死者、とりわけ亡くなった親族や友人のことを神のあわれみのみ手に委ね、神がこの人を永遠の命に導いてくださるように祈っています。(あけぼの 1992.4月号 P22参照)

 

 上記の文章は重要なことを語っています。その1は、聖書観が思想霊感説にたった理解ということです。その2は、練獄の根拠を外典に置いていたり、民族思想に根拠を置いていたり自己矛盾があるということです。その3は、「地獄は人間が自分で作るものです」と言っているように地獄の否定です。その四は、「罪を犯した人間は練獄で清められる」という理解は十字架否定ということになります。結局のところ、聖書そのものの理解でなということなのです。

 

 非常に不思議なことに、ローマ・カトリック教会の信徒の中にはむしろ地獄を肯定している人々も存在するのです。肯定する人々は、これを「苦悩の所」(ルカ16:28)、「永遠の刑罰」(マタイ25:46)、「消えざる火」(マルコ9:44)などと形容しています。つまり、ロ一マ・カトリック教会内部においては、統一した見解がないということも言えるのです。

 

参照 ルカ16:28

16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

参照 マタイ25:46

25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

 

 さて、上記の内容を聖書に聞いていくことにします。人間の死・死後の問題は、終末論に関するものです。この終末論は、来世論とも言います。この終末論について少々触れてみます。

 

 

 

 

.終末の語義  

 

 終末の意味は様々ありますが、いくつかを簡単に説明します。その第1は、単純に人間の死を意味しています。第2は、歴史哲学における理解です。それは永遠による時間の切断と理解します。第3は、黙示文学的意味です。この呼び方は、古典的終末論とも言われます。これは文字通り、「来世」または「世の終わり」ということです。あるいは世の終わりにおける一連の出来事とも言えます。 

 

 これらのことを一言で、「終末論」(エスカトロジー)と言います。しかし、ここでは第3の黙示文学的意味が問われているわけです。 

 

(1)人間の死  

 

 人間の死については、色々と論じられています。特に現代社会においては、ターミナル・ケアとか死の準備教育という言葉で話題になっています。日本ではダブーとされていた死の問題が、ようやく言葉で論じることができるようになってきました。しかし、死とは何か?死の正体は何か?また、生とは何か?ということには至っていません。かつて私は、「死の臨床学会」に出席した経験があります。そこで論じられていたのは、死の問題ではありませんでした。今、そこにいる死に行く患者さんの肉体的苦痛をどのように取り除くかが中心なのです。それは、「死の臨床学会」と言うには、ほど遠い内容でした。 

 

 聖書によれば、人間の死は肉体と霊魂の分離です。肉体は土に帰り、霊魂は神に帰るのです。伝道の書には「ちり(肉体)はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道12:7)と、はっきり言っています。しかし、死は決して終わり・消滅(無化)ではありません。なぜ、人間は死ぬのでしょうか?パウロは、「そういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、一それというのも全人類が罪を犯したからです」(ロ一マ5:12)と言っています。また、ヘブル書の著者は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とも言っています。このように、人間の死は罪の結果なのです。 

 

 ところが、イエス・キリストによって死は克服されたのです。ヨハネは、「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者が、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と、イエス・キリストの言葉を記述しています。このように、死は決して終わりではなく、イエス・キリストの復活の命に預かることです。そして永遠にイエス・キリストと一緒に永遠の生きるのです。  

 

(2)死の中間状態と練獄 

 

 私たちは、教会生活をしている中でこの中間状態のことは以外と聞かされていません。むしろ天国という言葉は良く聞くのですが、概念や観念として語られ、また聞いていることが少なくありません。具体的に天国とは、いかなる所なのでしょうか。 

 

.旧約聖書における死と死後の世界 

 

 旧約聖書において、死はどのように理解されていたのでしょうか。死は、全ての人間に及ぶ神秘的な事件です。詩篇49篇の詩人は、「しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい」(詩篇49:12)と言っています。ヨブ記には、死について「恐怖の王」(ヨブ18:14)という表現をしています。死は、人間にとって獣のように恐ろしいものであり、恐怖の王ということなのです。人間は、この死の恐怖と戦い悩みと続ける(詩篇55:4)存在です。死の恐怖と戦い続けた人間が、死後の世界を問うことは当然なことと言えます。

 

 人間は死を迎えると、「息絶えて、その民に加えられる」のです。創世記25:8、17、35、29、49、29、33、民数記20:26、27:13、31:2、申命記32:50等を参照してください。つまり、死は生の断然ではなく連続性があるとしているのです。そして、問題は、どこに行くかです。その場所は、黄泉と呼ばれるところです。民数記16:30、33、詩篇55:15などに「黄泉」という表現があります。この黄泉の世界は、善人も悪人も関係なく全てすべて死んだ者が行くところなのです。黄泉は、「滅びの穴」(ヨブ26:6)、「忘れた国」(詩篇88:12)、「音なきところ」(詩篇94:17、115:17)、「暗き地、暗黒の地」(ヨブ10:21-22)、「暗黒の門」(ヨブ38:17)、「地のちり」(ダニ12:2)などとも呼ばれています。

 

 エンドルの口寄せ女が、サウル王のために死んだサムエルの霊を呼び起こした出来事(サム28:7-9)は有名です。この場合、サムエルの霊はどこから来たのかと言えば黄泉の世界からです。ですから旧約において天国という言葉の意味は黄泉の世界のことなのです。この世界は、善人と悪人が一緒に混沌とした世界であるということです。

 

参照 サム28:7-9

28:7 サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」

28:8 サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」

28:9 すると、この女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」

 

.新約聖書における死と死後の世界

 

 旧約聖書と新約聖書は連続性があります。ですから、決して関係がないと言うことはできません。したがって、死と死後の問題についても連続性があるわけです。新約聖書の中では、死と死後の問題をどのように理解しているのでしょうか。旧約聖書と同様に死者は善人、悪人関係なく黄泉の世界に行くのです。しかし、黄泉の世界は新約において2つの世界に分けられています。それは、未信者が置かれる場所と信者が置かれる場所の2つです。前者を「陰府」(ハデス)といい、後者を「天国」(パラダイス)と言います。

 

 ルカによる福音書16章には、「金持ちとラザロ」の出来事が記述されています。生前、金持ちは贅沢な着物を着、贅沢な遊びをして暮らしていました。その反面、門前で全身おできがいっぱいの貧しい暮らしをしているラザロがいたのです。やがて金持ちもラザロも亡くなりました。この貧しいラザロは、死んで御使いたちによって、アブラハムの所に連れて行かれました。このラザロに対して、金持ちはハデスに行きました。ハデスに行った金持ちは、苦しみながら目を上げると、はるかかなたにアブラハムのふところにラザロがいるではありませんか。金持ちは、「アブラハムに私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と告げました。これに対してアブラハムは、「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。それだけではなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらえ越えて来ることもできないのです」と答えています。

 

 ここでわかるように、死後の世界には「陰府(ハデス)と天国(パラダイス)=アブラハムのふところ」と呼ばれる2つの世界があることがわかります。また、この2つの世界には大きな淵があり往来不可能な世界であることが言われています。

 

 

    (陰府「ハデス」と天国「パラダイス」

 

 

それだけではなく、非常に大切なことが述べられています。この金持ちはアブラハムに、「父よ。ではお願いします。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人しかありませんが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください」と依頼しています。この依頼に対してアブラハムは、「彼らには、モ一セと預言者があります。その言うことを聞くべきです」と答えています。ここでは旧約聖書だけで十分だ、と言っているわけです。このアブラハムの答えに対して金持ちは、「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」と言います。すかさずアブラハムは、「もしモ一セと預言者との教えに耳を傾けないなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と、言い返しています。

 

 

 聖書のメッセ一ジを聞かない者は、どんな方法を用いても無理であると言っているわけです。また、ローマ・カトリック教会が言うような、練獄という中途半端な中間状態はないということです。神の裁きは、中途半端ではなく徹底的なものです。

 

 

 パウロは天国(パラダイス)と陰府(ハデス)の関係について、「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こういわれています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた』一この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下だられた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。」(エペソ4:7-10)と言っています。

 

 

 この箇所には、天国(パラダイス)と陰府(ハデス)の関係が暗示されています。イエス・キリストは、最も低い所に下られたお方なのです。このようなお方ですから、高い所に上ることができたのです。これはイエス・キリストが黄泉(シェオール)に下って、多くの捕虜(キリスト者たち)を引き連れて、天国(パラダイス)に移行されたということです。ですから初めてイエス・キリスト御自身が死の世界に入り込んで天国(パラダイス)を創造されたのです。

 

 

 ペテロは、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」(ペテロ3:19)と言っています。この言葉によれば、キリストは霊において捕らわれの霊たちのところに行って宣教したと言っています。このキリストの陰府における、宣教については多義の解釈があります。

 

 

捕らわれ人たちに宣教をしたのはキリストではなくエノクとする説 

 

 

ノアの時代に受肉以前のキリストが霊によって宣教したとする説

 

 

使徒たちが聖霊によって罪に捕らわれている人々にキリストに代わって宣教したとする説 

 

 

キリストが十字架で死後、キリストは復活する以前に霊において生かされハデスに捕らわれていた人々に宣べ伝えたとする説

 

 

キリストが伝えたのは福音ではなく、単なる断罪であるとする説

 

 

キリストは救いの業が勝利を得たことを悪い霊たちに宣言して歩いたという説(このことは、悪い霊たちにとって悪い知らせになります)

 

 

ノアの時代に神に従わなかった人々にキリストが救いの第二の機会を与えたとする説

 

 

不信仰のまま死んでハデスで苦しんでいる霊に罪の赦しがあることを伝えたとする説

 

 

 私は、この中で「」を支持します。他の諸説は、第1:少々無理な解釈であること、第2:イエスの十字架の否定につながること、第3:死後において救いの機会があるということは新約聖書のメッセ一ジに反することなどがその理由です。したがって死後において救われる機会が存在する、というような練獄説は、非聖書的な理解と言わなければなりません。 

 

 

 このように旧約聖書中には、陰府(ハデス)と天国(パラダイス)=アブラハムのふところという世界が存在するという記述はありません。旧約聖書においては、黄泉の世界のみなのです。この黄泉という一つの死後の世界が新約聖書中、2つの世界に分けられています。これはイエス・キリストが死の世界に入り込んで陰府(ハデス)と天国(パラダイス)の世界を創造されたことによるのです。ですからキリストにあって死んでいた者は天国(パラダイス)に置かれます。キリストを否定して死んだ者は、陰府(ハデス)に置かれます。キリスト者にとって、キリストの再臨まで眠り、憩い、置かれている場所が天国(パラダイス)なのです。パラダイスは、イエス・キリストから始まったのです。これが中間状態の聖書的な姿です。決して中間状態が、練獄説に基づいた世界ではないのです。 

 

  

 

『旧約聖書』 『新約聖書』           

 

 

天国(パラダイス)=アブラハムのふところ

 

黄泉陰府(ハデス)

 

 

 

 

.再臨とさばき  

 

 旧約聖書においては、人間の死は一回限りの言及であり黄泉に置かれます。しかし、新約聖書において人間は死後、天国(パラダイス)=アブラハムのふところと陰府(ハデス)に分けられています。問題は、天国(パラダイス)と新天新地との関係です。多くのキリスト者たちの中に、天国と新天新地が同一視されたり混乱したりしている人々が少なくありません。かつて、「ある神学生から天国と新天新地の関係が分からない」と質問を受けたことがありました。これも一つの良い例だと思います。再臨について少々述べていきましょう。現在の教会とキリスト者は、再臨信仰が欠けているように思えてなりません。再臨について少々述べていきましょう。  

 

(1)キリストの再臨の約束 

 

 新約聖書中には、イエス・キリストの再臨について1/3も記述されています。それだけ再臨について重要視していることがわかります。再臨の約束について聖書から引用してみましょう。  

 

 イエスは、彼らに言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」(マタイ26:64)

 

 そのとき、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(マルコ14:26)

 

 そして、こう言った。「ガラテヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒行伝1:11)

 

 このようにイエス・キリストは、人間の世界に再び来られる約束をしています。

 

         (キリストの再臨)

 

 

 

(2)再臨のしるし

 

 

 私たちは信仰があってもなくても、終末のしるしについて敏感です。もしかすると、キリスト者でない者の方が敏感なのかもしれません。聖書では、終末のしるしについて何と言っているでしょうか。イエスがオリーブ山で座っておられる時、弟子たちが「世の終わりの前兆について」尋ねています。イエスの答えを見てみましょう。「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」(マタイ24:35)とあります。聖書の言葉は変わりません。聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。

 

 (世の終わりについてイエスにたずねる弟子たち)

 

 

 

偽キリストと偽預言者の出現(キリスト者への警告) 

 サタンは、真のキリストと再臨を非常に恐れています。ですから人々を欺き惑わすために偽キリストと偽預言者を起こすのです。 

 

偽真理と惑わし(キリスト者への警告)  

 偽キリストと偽預言者の出現は程度の差はあれ、いつの時代にも存在していました。問題は偽りの真理によるそそのかしです。偽りの真理が日常生活に溢れ、人々がそれがあたかも真理であるかのように信じるのです。そして、人々は神に従うことを拒むようになります。ヨハネは、「全世界は悪しき者の支配下に置かれている」(ヨハネ5:19)と言っています。また、パウロは次のように言います。 

 

 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(Ⅰテサロニケ2:8-12 )

 

 イエス・キリストは次のように言われました。

 

 だれでも惑わされないように気をつけなさい。それは多くの者が私の名によって現れ・・・多くの人を惑わすからである。・・・また多くのにせ預言者たちが起こって、多くの人々を惑わし・・・にせキリストたちや、にせ預言者たちが起こって、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするからである。(マタイ24:4-5、11、24) 

   

偽預言者と人々の惑わし(神に従わない人々への警告)

 

 また、多くのにせ預言者が起こって、多くの人を惑わす。また、不法が増し加わるので、多くの人の愛が冷える。(マタイ24:11-12)

   

 しかし、人の子が来るとき、彼は地上に信仰を見いだすであろうか。(ルカ18:8)

 

   

 

 人間社会には、ノアの時代のように不法が増し人々の愛が冷えるのです。また、キリスト者たちの間では信仰を捨て、偽の真理に引き込まれて行く人々が増大していきます。その他に戦争、飢饉、疫病、地震、迫害等のことが聖書で言われています。このような点においては、ローマ・カトリック教会も一応同様の見解に立つと申し上げて置きましょう。しかし、文字通り信じるのではなく象徴的に理解し信じるのです。

 

        (ノアの時代)

 

 

 

(3)再臨のありさま 

 

 イエス・キリストは、どのような姿で再臨なされるか、ということです。ある人々は、キリストはすでに再臨されたと主張します。また、ある人々は、イエスは、ペンテコステの時「霊的」に再臨したとします。しかし、再臨そのものを否定する人々も存在します。これらの再臨に関する理解は、どれも非聖書的です。聖書はイエスが人類の救いのために初臨(受肉)したように来臨なさると言っています。ヘブル書の著者は、「キリストも、多くの人の罪を負うため一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:28)と言っています。復活、昇天のキリストは、再び来られるのです。  

 

キリストは見える姿で来られるのです

 ゼカリヤは「彼らはわたしを彼らが刺した者を見る」(ゼカリヤ12:10)と預言しています。イエスは、ユダヤ人に対して「主の御名によってきたる者に祝福あれ」というとき、再び彼を見るであろうと言われた(マタイ23:39)のです。ルカは使徒行伝において次のように言います。

 

 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼のそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります』(使徒行伝1:10-11) 

 

 このようにイエス・キリストは眼に見える姿でおいでになるのです。しかも、十字架上で両手両足に打たれたくぎのあとを持ったままの姿で、です。

 

 

 ヨハネは、「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。ア一メン。」(黙示録1:7)と証言しています。

 

 

 再臨の主は、人格を持ったお方として眼に見える姿でおいでになります。そして、イエスを信じない者たちにとっては恐怖であり、嘆きです。しかし、イエスを信じる者たちにとっては、慰めであり喜びです。

 

 

イエスは雲に乗り、雲と共に天から来られる

 

 ダニエルは、「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗って到着する」(ダニエル7:14)と預言しています。黙示録には、「見よ、彼は雲と共にこられる」(黙示録1:7)とあります。

 

 

イエスは突然、盗人のように来られる

 

 イエスは、いつ来られるのか。何年何月という具体的な記述は聖書の中にはありません。イエス自身も知らないのです。知っているのは、父なる神ご自身だけなのです。では、いつ来るかを知ることが大切です。パウロは、「主の日は夜中の盗人のように突然こられる。・・・突然の滅びが彼らを驚かす。そして、それからのがれることは決してできない」(テサロニケ5:2-3)と言っています。イエスは、突然やって来るのです。

 

 

イエスは栄光に包まれて来られる

 

 イエスご自身は、目で見える姿で突然盗み人のようにやって来ます。そして、雲と共に、です。しかし、そのありさまは父の栄光のうちに、御使たちと共にやって来るのです。マタイは、「人の子は必ず父の栄光のうち、御使たちと共に来る。・・・人の子が天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見る」(マタイ16:27、24:30、26:64)と言っています。

 

 

イエスが来られると死んだ者から甦る

 

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主ともにいるのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります(テサロニケ4:16-17)とあります。

 

                

 

 このように、再臨の主がおいでになるとき「キリストにある死者が、まず初めによみがえる」のです。この時、どこから甦るかということが問題になります。実は、その場所がパラダイス(天国)なのです。

 

 

引用文献

 

 

.カトリックの終末論 里脇浅次郎著  P35  聖母文庫

 

 

.キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論  P581  カール・ライナー著  エンデルレ書店