サマリヤの女

 

カトリックへの警告!!

 

第15章 パンを食べず、水を飲まないこと 

 

~カトリック(ヤロブアム王)の教えを受け入れるプロテスタント(ユダ)に対する神の扱いについて~

 

【テキスト】Ⅰ列王記13:1,734

1.ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。

7.王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」

8.すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。

9.主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。

10.こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。

11 ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、この人が王に告げたことばも父に話した。

12.すると父は、「その人はどの道を行ったか。」と彼らに尋ねた。息子たちはユダから来た神の人の帰って行った道を知っていた。

13.父は息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、

14.神の人のあとを追って行った。その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、「あなたがユダからおいでになった神の人ですか。」と尋ねた。その人は、「私です。」と答えた。

15.彼はその人に、「私といっしょに家に来て、パンを食べてください。」と言った。

16.するとその人は、「私はあなたといっしょに引き返し、あなたといっしょに行くことはできません。この所では、あなたといっしょにパンも食べず、水も飲みません。

17.というのは、私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」

18.彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。

19.そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。

20.彼らが食卓についていたとき、その人を連れ戻した預言者に、主のことばがあったので、

21.彼はユダから来た神の人に叫んで言った。「主はこう仰せられる。『あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、

22.主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」

23.彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。

24.その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。

25.そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。

26.その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」

27.そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。

28.彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。

29.そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。

30.彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。

31.彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。

32.あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」

33.このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。

34.このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。

 

本日は「パンを食べず水を飲まないこと」という題で、メッセージします。

                 (パンは=御言葉のたとえ)

 

 

 

 

                 (水は=聖霊のたとえ)

 

 

 

主の語られた「パンを食べるな。水を飲むな」との命令に関して、その意味をとらえていきたいと思うのです。

 

順にテキストを見ていきます。

 

1.ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。

 

ヤロブアムは分裂した北イスラエルの最初の王です。今の予表としては、現在のカトリックを指すと思われます。ここに、ユダ、今で言うプロテスタントの予表である国から、神の人が来るのです。ですから、ここで記されている話は、カトリックとプロテスタントの信仰の問題です。もっと、具体的に言えば、プロテスタント(ユダ)は、カトリック(ヤロブアム王のイスラエル)の教えを受け入れるべきかどうかという事柄に関する話なのです。

 

7.王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」

 

ここで食事について語られています。食事とは、パンと水のことであり、すなわち、パンである御言葉に関する教えと、水である霊の働きに関するたとえです。カトリックのパンと水を受けろという申し出がユダ、プロテスタントの神の人に対してあったわけです。

 

8.すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。

9.主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。

 

「あなたといっしょにまいりません。」とは、要するにカトリックの歩みに同調しないということです。ですから、マリヤ崇拝、法皇崇拝、外典の聖書等、カトリックのどの歩みにも神の御心はありません。「また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。」と言われています。ですから、カトリックのパン、御言葉の教理を受けるべきではないのです。最近、カトリックでは、「マリヤはキリストと共なる我らの購い主」という冒涜そのものの、「マリヤの第5の教義」なるものを成立させようとの動きがあるということです。こんなパン(教え)を決して受けてはいけないのです。また、「死んでも聖人の遺体が腐らない」という怪しい霊の「水」を受けるべきではありません。これらのパンにも水にも神の御心がありません。神は明確に、これらを食べず、飲まないよう、語られたのです。

      (マリヤはキリストと共同の贖い主ではない)

 

 

 

 

また「もと来た道を通って帰ってはならない。」とも神は命じました。これは何をあらわすのでしょう。このことばを理解するには、「道であり、真理であり、命である」と言われたキリストのことばを思い起こす必要があります。キリストこそが道なのです。しかし、この時、ヤロブアムの北イスラエル、今で言うカトリックは、その道を踏み外していました。「道であり、真理である」キリストの道を歩むなら、永遠の命に至るでしょうが、今のカトリックの道を辿ると、そこには、滅びと災いが待っているのです。

 

「地獄は無い」「進化論は正しい」「ファテイマのマリヤ(悪霊)を拝みましょう」などという、これらのすすめのことばの先には、滅びと地獄しか待っていません。カトリックが勧めているこれらの教えは、キリストのことば、聖書と真っ向から対立した教えであり、それゆえ「命の道」ではないからです。それゆえ、彼らが辿った道、その「もと来た道を通って帰ってはならない」と主は言われるのです。

 

10.こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。

 

 

ベテルに来たときの道は神の御心の道とは異なっています。この道には、神の御心は無いのです。

 

(聖書の御言葉こそ真理であり、御言葉から外れた教えは命に至る道でない)

 

 

 

11.ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、この人が王に告げたことばも父に話した。

 

さて、ここベテルにも預言者、すなわち、神に仕えている、神の御心が分かるとされている人がいます。

 

12.すると父は、「その人はどの道を行ったか。」と彼らに尋ねた。息子たちはユダから来た神の人の帰って行った道を知っていた。

 

ここでも、「どの道を行ったか」というように「道」について語られています。ですから、これらの箇所の主題は、神がいるか、教会があるかという問題ではなく、その「道」すなわち、「どのような方法で神に仕えるか」という問題であることが分かります。マリヤを通して、神に祈るべきなのかどうか、法皇を通して神に仕えるべきかどうか、これらの道は正しいのかどうなのかという問題なのです。

 

13.父は息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、

14.神の人のあとを追って行った。その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、「あなたがユダからおいでになった神の人ですか。」と尋ねた。その人は、「私です。」と答えた。

15.彼はその人に、「私といっしょに家に来て、パンを食べてください。」と言った。

16.するとその人は、「私はあなたといっしょに引き返し、あなたといっしょに行くことはできません。この所では、あなたといっしょにパンも食べず、水も飲みません。

17.というのは、私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」

 

ここでもまた「パンと水」「道」について再度語られています。このこと、今で言うとカトリックの教えや霊を受けるかどうかという事柄が、非常に大事な事柄であることが分かります。

 

このユダからの神の人に対して、再度この「パンを食べる、水を飲む」こと、また「その道を行くこと」に関して惑わしが来るのです。

 

このカトリックの御心で無い歩みに対して、伝統的なプロテスタント教会は、以前は、はっきりと一線を引き、距離を置き、それに触れないようにしてきたのです。しかし、今話が変わってきました。このようにして、神に命じられた通りに戒めを守ってきたユダの神の人、すなわち、プロテスタントの信仰の勇士たちに対して、終末の日にもう一度、「このパンを受け、この水を受ける」ことに関しての惑わし、誘惑が来ることでしょう。しかし、この誘いに乗ることは、実は滅びと災いに入ることなのです。

 

(合同は聖書的でない)

 

 

18.彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。

 

神の警告と戒めを守るユダの神の人に対して、この預言者は、何と偽りを述べて騙そうとします。「御使いが主の命令を受けて・・・」と語るのです。そして悲しいかな、このユダからの神の人はこの「惑わし」に騙されてしまうのです。この神の人は愚かな過ちを犯しました。しかし、今の時代、御使いが語った、マリヤが語ったという「彼らの国の神の人」の声を聞いて、ほいほいとその教えについていくプロテスタントの人々も実は、同じ過ちを犯していることを知らなければなりません。

 

19.そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。

 

家は教会のたとえです。ですから、この神の人は彼の教会、すなわちカトリック教会に入り込み、そのパン、すなわち教えを受け入れたのです。また、その水、すなわち、惑わしの霊を受け入れたのです。

              (騙しに乗ってはいけません)

 

 

20.彼らが食卓についていたとき、その人を連れ戻した預言者に、主のことばがあったので、

21.彼はユダから来た神の人に叫んで言った。「主はこう仰せられる。『あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、

22.主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」

 

このベテルの預言者のしたことは全く騙し討ち、ずるい仕打ちです。また巧妙です。しかし、これはこの時だけの話ではないのです。逆にこれは、終末の日に「プロテスタントの人々」を覆す巧妙な惑わしの「型」、「方法」を予表していることを知らなければなりません。そして、終末の日に、この惑わしに惑わされるプロテスタントの人々は先祖たちの墓に入らない、すなわち、かの日に信仰の先祖たちが受けるはずの、蘇りの命を受けないのです。このことを銘記しなければなりません。

 

23.彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。

24.その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。

 

 

獅子がこの神の人を殺しました。獅子は、「悪魔が獅子のごとく巡り歩く」と書かれているように悪魔のたとえです。ですから、このパンを食べ、水を飲み、この道へ引かれていく者は、最後には、獅子、悪魔のえじきになることを知るべきです。

 

すでにこのカトリックの教会にいる多くの人々は、悪魔のえじきになり、「聖書をそのまま信じる人は文献学の素養の無い愚かな人だ」などと、惑わされたことを口走り、信仰も報いも何もかも敵に奪い取られた情けない歩みに入っています。

 

25.そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。

26.その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」

 

この神の人は、神があらかじめ語られた警告の通りに、獅子に滅ぼされました。同じように、今、このカトリックに関する警告を語られている神の声を聞きながら、それに背く時、同じ結末、獅子の惑わしと滅びの中に入るでしょう。

 

28.彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。

29.そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。

 

この神の人は、ユダの出身でありながら、その死体は、ユダではなく、北イスラエルで葬られました。同じように終末の日に、プロテスタント出身でありながら、カトリックの偽りに巻き込まれた人々はそこで霊的な死を迎えるでしょう。彼は決して、プロテスタントの歴代の信仰の勇者たちの墓には入りません。そして、墓に入らない以上、復活の日に彼らと同じ誉れと報いを受けることはないでしょう。むしろ、永遠の忌みに入るのかもしれません。彼らは不信仰に巻き込まれ、罪に巻き込まれ、偽りに巻き込まれていくのです。

 

30.彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。

 

この神の人は、ユダと血族である北イスラエルの人々から、「ああ、わが兄弟。」といたみ悲しまれました。彼らは互いに兄弟だからです。同じように、偽りに巻き込まれ、霊の死を迎えるプロテスタントの人々は、その兄弟である、カトリックの人々から、「ああ、わが兄弟。」といたみ悲しまれることになるでしょう。

 

31.彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。

 

「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。」と北イスラエルの預言者は語ります。ですから、ユダの神の人がその先祖たちの墓に入らず、先祖たちが受ける、蘇りの栄光を受けることができないように、この北イスラエルの預言者も蘇りも栄光も受けないのでしょう。これらの2人の人々がそうであるように、まことにサマリヤの道、カトリックの道は偽りであり、そこには、神の御心が無いことを知らなければなりません。

 

32.あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」

33.このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。

 

「一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し」と書かれています。主の祭司はレビ人、すなわち主に着く(レビとは「くっつく」の意味)人々がなるべきなのですが、この教会では、一般の人、主の弟子でない人々が仕えているということなのかも知れません。

 (主イエスにくっ付いた者、主に忠実な主の御心を為す者を選ばれる)

 

 

 

34.このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。

 

このこと、「主に任命されていない人々が神父となる」ということは、大変な罪です。それにより、「ヤロブアムの家」すなわち、カトリックの教会が「罪を犯すこととなった」からです。そして、「ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。」と書かれています。このことばを厳粛に受け止めるべきです。すなわち、このカトリックの道には、まったく神の御心は無く、この道を歩むなら、「地の面から根絶やしにされるように」なるからです。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-