サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第17章 サマリヤのシモン
~現代のシモンはカトリックの法王~
【テキスト】使徒の働き8:5-25
5.ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
6.群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
7.汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8.それでその町に大きな喜びが起こった。
9.ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
10.小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
11.人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
12.しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
13.シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
14.さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
15.ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
16.彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
17.ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
18.使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
19.「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
20.ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
21.あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
22.だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
23.あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
24.シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
25.このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。
本日は「サマリヤのシモン」という題でメッセージしたいと思います。
聖書は、主イエスの時代、サマリヤに大きな聖霊の働き、大傾注があったことを述べています。サマリヤの女の箇所でもそのことを述べ、今回のテキストにおいても素晴らしい聖霊のバプテスマがサマリヤに下ったことが記されています。
主イエスの時代は終末の時代の型であり、サマリヤが属していたかつての北イスラエルは現在のカトリックの型では?と私は理解しています。ですから終末の日に長らく迷っていたカトリックの人々の上に約束の聖霊が下る日が来ると思われるのです。その観点から、今回の箇所を見ていきたいと思います。
順に見ます。
5.ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
このとき、12使徒の一人ピリポがサマリヤに下っていきました。ピリポという名前には、「馬」という意味が含まれています。馬とは、ヤコブ書によれば、教会、集会のたとえです。同じ意味合いで、終末の日、この聖霊の力を帯びてカトリックの教会を訪れるプロテスタントの一群の人々がいるでしょう。
「プロテスタントの助けなんか受けるものか」と言う人もいるかも知れませんが、しかし、我々は「書かれたこと」を超えることができないことを覚えて下さい。
この日、神の民の間に2つの国、2つの首都があり、そのうちの一つ、エルサレムから下った、使徒により、もう一つの都市サマリヤの人々に聖霊の火が下ったのです。同じ意味合いで、終末の日、カトリックにおける大傾注は明らかにエルサレム、すなわちプロテスタントから「下る」人々により、もたらされると聖書は語っていることを覚えて下さい。「救いはユダヤ人から来る」と書かれている通りです。
6.群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
その日、カトリックの人々は、このプロテスタントから下る人々の聖霊のしるしを見、そして、そのことばに耳を傾けるようになるでしょう。
7.汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
この日、神により選ばれた神の民であったはずの北イスラエル、サマリヤにおいては、汚れた霊につかれた人々、中風、足のきかない人がいました。同じように神に愛されているはずのカトリックの教会においても、霊的な問題を抱えている人、また、中風、すなわち働けない人、また、足なえ、すなわち信仰の歩みが伴わない人々がいるかもしれません。しかし、そのような人々もその日、神に遣わされた人々の働きの中で癒されていくでしょう。
8.それでその町に大きな喜びが起こった。
この神の働きを見て、「その町に大きな喜びが起こった」のです。同じようにその日、カトリック教会に起きる神のわざを見ることにより、この教会に大きな喜びが起きるでしょう。
9.ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
さて、このようにすばらしい神のわざを見たので、「ハッピーエンド」といきそうなところですが、しかし、聖書はこのサマリヤの町における問題点について述べています。それはこの町で魔術を行っていたシモンという人物についてです。
このサマリヤが、たしかにカトリックの予表だとするなら、このシモンとは誰を表すのでしょうか?
このことを考え、このシモンという人物に隠されている謎について見てみたいと思います。このシモンという魔術師は、ここにしか出てきません。強いて彼の意味合いを考えるなら、彼の名前から考えてみるしかないでしょう。このシモンという名前について聖書全体で考えるなら、たとえば、「シモン・マタイ」という人は聖書に出てきません。また、「シモン・ヨハネ」という人も出てきません。ですから12弟子のマタイもヨハネもこの「シモン」とは関係がなさそうだということは類推できます。
しかし、さらに考えるなら、新約聖書の中には、「シモン・ペテロ」という人は出てきて、彼の名前の中にこの「シモン」という名前が含まれていることを我々は思い起こすことができます。断定はできませんが、しかし、この魔術師シモンは、シモン・ペテロと何らかの関係がある人なのかもしれないということはとりあえず、私たちは想像できるのです。
さて、サマリヤ、すなわちカトリックの中でシモン・ペテロと関係のある人と言えば、(自称)ペテロの後継者、ローマ法皇のことだということは、これも誰でも知っていることなのです。ですから、このシモンというサマリヤの魔術師とは、他でもないローマ法皇のことを指している可能性があることを知りましょう。
「彼は以前からこの町で魔術を行なって」
さて、このシモンという人物は「異邦人から神が選び取った」と言われるイスラエルの首都サマリヤで、何と「魔術」を行っていたという人物です。このことは、不思議です。魔術は神の霊から来たものではなく、神はそれを禁じているのに、この国、神の民が住むイスラエルの国の首都サマリヤで、この魔術師は追放されもせず、逆に大いに人気を博していたようなのです。
このことは矛盾しているようですが、しかし、歴史的な事実でした。同じように今の時代のサマリヤ、すなわちカトリックのシモン・ペテロの後継者と称する人々が、じつは「魔術師」だということもあり得るのかもしりません。魔術師は神から来たものではない霊により、しるしや不思議を行うものです。同じ意味合いで、ファテイマ、ルルド等、悪霊としか思えないマリヤと称する霊を受け入れる現代のシモン(ペテロ)も、じつは魔術師に過ぎないと聖書は語っているのかもしれません。たしかに仏教や、ヒンズー教、イスラム教の霊を際限なく受け入れ、妥協し、それを信者に勧めている現代のシモン、神の創世記のことばを偽りと言うがごとくに進化論迄受け入れている彼は、神の霊を受けている人というより、悪霊を拝する魔術師であると言ったほうが適切でしょう。また、「以前から」ということばにも語りかけがあります。この法皇が魔術と関係がある、悪霊をこの教会に持ち込んでいるということも昨日今日のことではなく、「以前から」、すなわちずっと前の法皇の代からなのです。
「自分は偉大な者だと話していた。」
この教会の問題の元凶である法皇、ありとあらゆる誤りにこの教会の信徒を導く彼らの特徴は、「自分は偉大な者」だと言っていることです。たしかに歴代法皇の大言壮語は驚くべきものであり、普通の人が聞けば、誇大妄想狂か、気違いかと言われることを平気で述べています。誇大妄想?すなわち、「自分は無原罪(!)」「無謬(間違いがない)(!!)」「キリストの代理人(!!!)」などと言う常人とは思えない事柄を平気で彼は述べているわけです。
無原罪とこの現代のシモンは、自分が何を言っているのかよく分かっていないことを主張しているわけですが、しかし、歴代法皇の歴史を少し調べるなら、法皇職に着いた人々の中には、めかけを何人も持って沢山子供を生ませたり、何百人という女性と関係したり、法皇職を金で手に入れたり、さらには殺人と関係したり、普通の人以上に罪にまみれていることが分かります。法皇は無原罪などということは、唯一罪の無い方、キリストを辱めることであり、また、キリストのみによりもたらされる救いをないがしろにしていることなのです。
また、現在のシモン、「法皇は無謬(間違いがない)」などという主張は、さらに驚く主張へとつながります。すなわち彼らは、「歴代の聖人が書いた聖文書には間違いがある。聖書も聖文書の一つだから、聖書にも間違いがある(!?)。しかし、法皇は無謬(間違いがない)である。したがって、もし聖書のことばと法皇のことばとが食い違うなら、(聖書を投げ捨てて)法皇のことばに従え。」というトンデモない事柄を主張しているのです。
「ことばは神」と言われた方のことばより、「自分のことば」を受け入れろ、などと勘違いしたことを主張する現代の魔術師シモンは全く恐れ気もない人間です。
また、彼は「自分はキリストの代理人」など、かつての12使徒のペテロが聞いてもびっくりすることを述べています。こんな妄言を受け入れ、「ことばは神である」と言われた方のことば、聖書を投げ捨て、また、聖霊の声に耳を傾けず、この魔術師の声に聞き従い、悪霊マリヤ等を礼拝する人々には祝福が無いことを知りましょう。
10.小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
かつての日、聖書の神の民の町サマリヤにおいて、「小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が」この魔術師シモンに対して、関心を抱きました。不思議なことですが、
1.彼は魔術師なのに、
2.神の民の多くの人が彼に関心を抱いたのです。
同じように、この教会、カトリック教会でもっとも有名な人と言えば、何と言ってもローマ法皇でしょう。彼は、
1.悪霊的なマリヤ崇拝、異教的な仏教、ヒンズー教との一致を提唱し、仏像を教会に持ち込んだ、魔術的な人間なのに、
2.この教会の多くの人が彼に関心を抱いています。
「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
かつての日、神の民の都において、人々は皮肉にも、神の霊ではない、魔術の霊に導かれたシモンに対して、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と誤解、だまされていました。神の霊と魔術の霊はまったく異なり、その結論も結末もまったく違うのですが、サマリヤの神の民には、その区別がつかなかったのです。彼らには清い水と毒の水を区別する目がなかったのです。これらは悲しいかな、事実でした。そして今のサマリヤ、カトリックにおいても神の民の目は盲目であり、魔術と神の霊を区分することができないようです。彼らは今の時代に、パパ様、パパ様などと言って、現代のシモンの魔術にだまされているのです。
12.しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた
さて、このように魔術も神の力も区分できない盲目の人々の間にも、神の憐れみのときが来て、魔術ではない、真の神の力を見るようになりました。ここで、「男も女もバプテスマを受けた」と書かれているように、終末の日にも真の神の霊にバプテスマ(染み込ませるの意)される人々が現れるでしょう。
13.シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
その日、シモン、すなわち法皇に着く人々も真の神のわざを見るようになるのでしょう。
14.さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
15.ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
この日、聖霊は「ペテロとヨハネ」を通して下りました。「聖霊は神の霊だから、人間なんか通さないでも与えられるのではないか」と言う人もいますが、しかし、どうも神は「器」を通して聖霊を下すことを神の方法として定めているようです。聖霊は水、油、ぶどう酒にたとえられますが、これらは液体であり、コップ、茶わんのような何らかの器を使用せず、そのまま持ち運ぶことは不可能です。同じ意味合いで、神はこの「聖霊の水」を人の器、ここでペテロ、ヨハネに代表される人々を通して与えることを終末の日にも望んでいます。ペテロ(石)とは、石、岩にたとえられる弟子の歩みをする人々の予表、またヨハネは主に愛された弟子を指します。
「サマリヤの人々が神のことばを受け入れた」
ここで、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと書かれていることは暗示的です。彼らがこのとき、神のことばを受け入れたと言うなら、逆にそのときまで、彼らは「神のことばを受け入れていなかった」ということになるからです。
北イスラエルの首都サマリヤ、すなわちダビデ、ソロモンの治世に連なるこの神の国において、何と彼らは「神のことばを受け入れていなかった」と聖書は語るのです。
このことは暗示的であり、また預言的です。なぜなら現在のサマリヤ、カトリックの教会においても彼らは「神のことば」を受け入れていないからです。
「私たちが神のことばを受け入れていない?変な言いがかりはやめて下さい。」と言う方もいるかもしれません。しかし、それなら私は聞きます。偶像を礼拝するなと「神のことば」は書いてあるのに、この教会にマリヤ、聖人等あらゆる偶像があるのはなぜですか?「たしかにマリヤの像に頭を垂れるが、これは崇敬であり、礼拝ではない」などと多くの人が詭弁を弄しているのはなぜですか?地上の誰をも「父」と呼ぶなと「神のことば」には書いてあるのに、法皇を「パパ様、パパ様」と呼ぶのはなぜですか?「神のことば」は、キリストを「唯一罪の無い方」と書いているのに、そのことばを偽りとするかのような「マリヤ=無原罪」という冒涜的な教えを提唱しているのはなぜですか?
このようにこの教会は、神のことばを拒絶し、受け入れていないのですが、しかし、聖書によれば、その日、彼らはこの「神のことば」を受け入れるようになるでしょう。
16.彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
ここに、サマリヤの人々に関して、彼らが「イエスの御名によってバプテスマを受けていた」だけで、「聖霊がまだだれにも下っていない」ことが書かれています。
このことも暗示的、預言的です。彼らは「イエスの御名によってバプテスマ」、すなわち彼らの中にイエスの名前だけは浸透(バプテスマ)していたのです。すなわち彼らは名目上、また実質を伴わないことばの上だけでイエスの名を知っており、よく話したり、議論したりしていたのです。
しかし、「聖霊がまだだれにも下っておられない」、すなわち彼らの霊においては、この方の霊を受けていないし、また、そのバプテスマにより歩みを変化させられてもいなかったのです。
17.ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
しかし、その日、始めて彼らはこの方の霊、聖霊を受けるようになるでしょう。この日は、サマリヤの井戸の女の話にも示されているサマリヤ、カトリックに聖霊が下る日、感動的な日です。
18.使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
19.「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
20.ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
シモンは聖霊を授ける権威を金で買おうとしましたが、それは神の方法ではありません。
21.あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
22.だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
この日、使徒シモン・ペテロは、サマリヤのシモンに「このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません」と明言しました。同じように終末の日、現代の魔術師シモンと彼の魔術に追随する人々に終末のペテロ(石=弟子)は同じことばを言うでしょう。「あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。」。彼らの心は悪霊の偶像、マリヤを慕っており、「仏教徒も救われる、地獄はない」等のあらゆる偽りの教義に満ちているからです。
しかし、もし彼らが今までの歩みを全く悔い改めて正しい主の道に立ち返るなら、「あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」
23.あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。
この教会の法皇に聞き従う多くの人々は、「苦い胆汁と不義のきずなの中」にいます。それゆえ、彼らは盲目となり、何が真理なのだか分からないのです。しかし、これらの悪と不義を離れて主の正しい道を見ることを主は望んでおられます。
25.このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。
この日、救いはユダヤ人から出て、サマリヤの人々は彼らから福音を聞きました。ユダヤ人は、ユダ、イスラエルの2国のうち、南のユダ国の人々であり、今のプロテスタントの予表です。終末の日に神のわざは彼らからあらわれるはずです。この日、サマリヤの人々は、「福音」を聞いたのです。神の民、また、聖書も律法学者も持っていた彼らですが、しかし、彼らは、「福音」を聞く必要がありましたし、また、その福音は彼らを救ったのです。同じ意味合いで、終末の日、カトリックの彼らは真の「福音」を聞くようになるでしょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-