サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第22章 パンのささげもの
~聖書のメッセンジャーは聖く、欠陥があってはならない~
【テキスト】レビ記2:1-24
1.ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。
2.ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。
3.近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。
4.姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。
5.彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。
6.彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。
7.彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。
8.あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。
9.祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。
10.兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。
11.どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。
12.聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしは主である。
13.彼は処女である女をめとらなければならない。
14.やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。
15.彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別する主だからである。」
16.ついで主はモーセに告げて仰せられた。
17.「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。
18.だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。盲人、足なえ、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、
19.あるいは足や手の折れた者、
20.せむし、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。
21.祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。
22.しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。
23.ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別する主だからである。」
24.モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。
本日は「パンのささげもの」という題でメッセージしたいと思います。
聖書の中には、たびたびパンについて記載されています。これらはみな、御言葉及びその奉仕、すなわち御言葉を取り次ぐ奉仕、説教に関するものと思われます。
説教、メッセージは我々クリスチャンの信仰の根幹に関わる問題ですが、このことに関する聖書の教えを見ていきたいと思うのです。
順に見ます。
1.ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。
ここに祭司アロンについて書かれています。祭司は、主の前にパンを捧げるものであり、それは、そのまま、今の時代に神と人の前に命のパン、すなわち御言葉のメッセージを語る牧師、教師のたとえです。彼らについては死んだものに近付き、身を汚してはいけないことが書かれています。
2.ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。
3.近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。
4.姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。
死んだものに近付き、身を汚してはいけないことが書かれています。死んだ者に関して、新約聖書は、「罪が熟して死に至る」と書いてあります。すなわち、罪と死は関係があるのです。
6.彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。
ですから、これは、神と人の前にパンをささげる祭司、今で言う牧師、説教者は、罪から離れること、罪により身を汚してはいけないことについて書いてあるのです。神のことばを語るものは、この世の映画、テレビ、雑誌、その他罪へと導く物へと一線を画し、そして罪から離れるべきなのです。かつての日、神の前にパンをささげる祭司の役割は栄光に満ちたものでした。同じく、いえ、それ以上に今、神と人の前に命のパン、すなわち御言葉を取次ぐ牧師、教師の働きは栄光に満ち、また、聖なるものであることを知るべきです。「彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。」と書かれている通りです。
5.彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。
頭、頭の髪は、「権威に遵う」ことと関係があるようです。モーセの権威に逆らったコラの名前の意味が「はげ」、毛がないことはそれを語り、また、新約聖書に女が権威に遵うことを勧める記述と共に髪の毛について書いてあることもそれをあらわすのでしょう。すなわち祭司、神に仕え、そして命の御言葉を扱う者は権威に従うことを心掛けるべきということです。人間における権威の始めは、父母でしょう。父母を敬えとは権威に遵うことを含みます。霊的な面での父母は、自分を育てた牧師、教師ということでしょうか。
ですから自分を育てた牧師にどう対応するか、きちんと権威を認めるかは大事なことです。何でも牧師の言うことは全て正しいとは言いませんが、しかし、この面において、書かれた範囲を超える者は災いを受けることを知りましょう。
6.彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。
「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。」と書かれています。ですから、神の御言葉を、もし我々が取り扱い、そして、それによって人々が養われる立場に立つなら、それは大変感謝、そして光栄ある仕事です。しかし、その場合、「彼は聖でなければならない」、すなわちこの世の汚れ、流れ、風俗、習慣、ならわし、読むもの、聞くものにより、汚されてはいけないのです。汚れたものになるなら、我々はこの務めを全うできません。
私は知っています。神は我々の能力を求めてはいません。しかし、我々が聖であることは求めておられます。
「彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。」
火による捧げものとは何か?火は霊のたとえであることは何度も書いた通りです。ですから神の祭司、現在で言う、牧師、また、御言葉の用に立つ者は、神からの火のささげもの、すなわち霊を注ぐ奉仕をしていることを知って下さい。
霊は人を通して流され、説教者を通して人に及びます。牧師が語り、祈り、預言をし、奉仕をする時、実はそれはまた、自分を通して、火のささげものをささげる、すなわち、霊を下しているのだということを知りましょう。
その霊は神からのものでなければなりません。
7.彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。
淫行で汚れている女とは何でしょう?女は教会のたとえでしょう。淫行で汚れている「教会」とは、すなわち、あちこちの教え、この世のもの、キリスト以外の宗教との姦淫に精を出している教会ということでしょうか。仏教やら、ヒンズー、イスラム教との対話(姦淫)に余念がない、また、ローマ由来の女神崇拝、マリヤ崇拝に余念のないローマカトリックなどはその例でしょうか。この教会の神父達は、聖書より、法皇に聞き従うことを良しとし、その結果かどうか、大いに性的スキャンダルを起こし、恥を受ける愚かなバアル教の預言者みたいな人が多いようですが、しかし、主につく人は、「彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない」すなわち、このような姦淫の教会に着いて行ってはいけないと書かれていることを知るべきです。
「また夫から離婚された女をめとってはならない。」
「夫から離婚された女」とは何を指すのでしょう。
女が教会を指すなら、その夫とはすなわちキリストを指します。夫から離婚された女、すなわちキリストから離婚された教会など、存在するのでしょうか?そんなことはあり得るのでしょうか。聖書はあり得ると語っているように私には思えます。
夫に離婚された教会はあり得るのか?その離婚された教会の特徴は何でしょうか。それは、人間の「夫に離婚された女」を考えれば分かります。
「夫のある女」と「離婚された女」とは異なります。本人がそう言わなくても周りには、いずれ分かってしまいます。なぜか?
*稼ぎ手がいないので、食べるもの、飲むものがなくなる。
*収入がないので、着るものにも困る。
*男の守りがないので、泥棒や強盗に入られる。
日本のプロテスタントの中にもいくつか、夫すなわちキリストから離婚されたとしか思えない教団、教会があります。彼らはかつての戦争の時、キリストを公然と裏切った教団、教会です。しかし、彼らが離縁された女であると、それはどうして分かるのか?何を根拠に見分けるのか?上記条件が当てはまる教会がそうです。
いわく、
*食べるもの、飲むものがなくなる:すなわち、命のパンであるメッセージがろくでもないものになり、いくら聞いてもちっとも養われない。また、聖霊の水がないため、ちっとものどの渇きが癒されない。
*着るものに困る:すなわち義の衣がなくなり、代わりに罪をあらわにするようになる。道徳的に悪くなり、この世の人と変わらなくなる。
*泥棒や強盗に入られる:すなわち、キリスト教会を狙う獣の教えや、霊に苦もなく、騙される。エキュメニカルや、近代神学、また、あの悪霊の第3の波に惑わされるものとなっていく。
キリストにより離縁された教会には、こんな特徴があります。
8.あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。
祭司は聖でなければならない、なぜなら、彼は「神のパンをささげるからである」と書かれています。神のパンを捧げる、祭司の務めはかつて光栄な職でした。なぜなら、彼は「神の」パンをささげるからです。今の神のパン、すなわち聖書のことばを語る、牧師、説教をする者の務めも同じく、いや、それ以上に栄光に充ちています。そして、この職、すなわちメッセンジャーにとって、一番の問題、ポイントは聖であること、聖別されることであることを知ってください。もし私たちがこの世の汚れの中にあり、この世と変わらないものなら、この務めを全うすることはできません。
9.祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。
この務めは光栄、名誉な働きであり、それゆえその責任も重いことを知りましょう。もし、身を汚す、すなわちあえて、罪、汚れの中に入り、この務めを汚すなら、その時、「火で焼かれなければならない」ことが書かれています。火は霊のたとえであり、すなわち惑わしの霊の手に陥るということです。
そして、その惑わしの中で、目がくらまされ、そして、あの悪霊を注ぐ男、ベニー・ヒンやフリーメーソン、悪魔礼拝者の噂の高いビリー・グラハムなんかがすばらしい人に見えてしまうのでしょう。
10.兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。
「頭にそそぎの油がそそがれ」と書かれています。この時、神が誰かを大祭司に任命するなら、その人の頭の上には、油が注がれました。大祭司になることと油を注がれることとは、セットになっていたのです。同じ意味合いで今の時代においてもこのことは1セットです。すなわち、我々がこの仕事に任命され、神のパンを扱う仕事に召されるなら、神はその人に油を注がれるのです。
これは理屈ではなく実際です。論より証拠、その奉仕に立てば分かることです。さて、このこと、聖霊の油を受けるということ、これは光栄であり、尊いことです。しかし、それゆえに責任があることをも知りましょう。
「その髪の毛を乱したり」とは何を意味するのか?頭の髪の毛は権威と関係があります。その流れから考えるなら、権威秩序を乱すということでしょうか。奉仕者は、神のそして、人の権威を尊重する者であるべきです。
「その装束を引き裂いたりしてはならない。」とは?着物、装束が義、すなわち、裸を覆い隠すという意味を持つので、「装束を引き裂き」、結果として、裸を見せることは、罪をあらわす、罪と関係するということのように理解できます。御言葉の奉仕に与る者は罪から解放される必要があります。
11.どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。
「どんな死体のところにも、行ってはならない」とは、死体、すなわち、罪と関係のあることばです。どのような種類の罪であっても、罪を犯すクリスチャンと交わりを持ってはいけないということでしょう。
「自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。」
たとえ、両親のためでも罪に入るなということでしょう。父が仏壇を拝めといっても罪を犯すべきではないし、母が未信者との結婚を勧めても従うべきではないでしょう。さて、この両親とは、肉の両親というだけではなく、信仰の親というニュアンスもあるかもしれません。その主旨から考えるなら、自分の信仰の父母、すなわち牧師や神父から勧められたことでも、促しがあっても罪と関係するなと、そのように御言葉は語っているように思えます。
信仰の父母が私たちに罪へ誘うということがあり得るのか?残念ながら、今は大いにあり得る時代です。
たとえば、カトリック教徒が「パパ様」すなわち、父と呼ぶローマ法皇がその際たるものでしょうか。
あの悪霊の教え、しょっちゅう予言が外れる、悪霊マリや崇拝をこの法皇は奨励します。また、イスラム教や仏教によっても救われるなどというトンデモ教理を広げ、「この方による以外救いはない」と語った、聖書の教えに反することをその信徒に伝えています。
しかし、神により立てられた説教者は、これらの偽りの教えがたとえ、法皇から来ようが、また、教団リーダーから来ようがその偽りにならわず、逆に堅く御言葉に立ち、神の語られたことのみを語るべきです。それが、われらを祭司として、選んだ方に報いる道です。
あの愚かな女、ことばなる方、キリストの言葉を投げ捨て、法皇に聞き遵い、結果として、ヒンズー教もキリスト教も同じようなものだと思い込んだ女、ユニバーサリスト、自分の救いがおぼつかなかったカトリック信徒、マザー・テレサのような愚か者になってはいけません。
12.聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしは主である。
聖所から出ていくとは何を意味するのか?聖所は神の臨在のある所です。ですから、神の臨在から出ること、祈りを放棄するのでなく、祭司すなわち現代の時代において、神に仕える者は祈りの生活に入るべきと語っているのでしょう。
かつての日、聖所から出ていく祭司は、「聖所を汚す」者でした。同じ意味合いで、今の時代、ろくに祈りも神との交わりも持たず、人間の猿知恵に満ちた注解書の丸写し説教、テープレコーダー説教に勤しむ牧師、説教者は、まさしく聖所を汚していると神は語られていることを知りましょう。
13.彼は処女である女をめとらなければならない。
14.やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。
「淫行で汚れている女」とは何か?女が教会のたとえとするなら、この世や他宗教と交わり、一つになり、聖なる方を汚す教会こそそれでしょう。仏教や、イスラム教との一致を目指す、あの姦淫の教会、カトリックこそ、その汚れた女であり、そのカトリックとのエキュメニカルな一致を目指す、プロテスタント教会も同じく汚れた女です。
神につく祭司、説教者はこれらの汚れた女、教会と一線を画すべきです。
15.彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別する主だからである。」
子孫を汚すとは何を意味するのか?かつての日、祭司が淫行で汚れた女と結婚するなら、その子孫は汚れた者となり、汚れた血が家系に入ることになりました。これは良いことではありません。同じく今の時代、祭司である牧師が、淫行で汚れた女すなわち、エキュメニカルやらカトリックやら近代神学等で汚れた教会と関係を持つなら、その結果として、その子孫は汚れた者となります。子孫とはその教会で救われ養われる信者のことです。その子たちは、汚された者となるために、罪から解放されないのです。
16.ついで主はモーセに告げて仰せられた。
17.「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。
18.だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。盲人、足なえ、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、
体に欠陥のある者は神のパンをささげてはいけないと書かれています。障害者を差別しているなどと、短絡的なことを言ってはいけません。これらはたとえであり、隠された意味合いがあります。盲人は霊的な目が開かれていないもの、見ることのできない人を指すのでしょう。足なえは歩行に困難があります。ですから、きちんと信仰の歩みをしていない人のことでしょう。手足が長い、短いとのことばも信仰の歩みと関係します。足が短い、すなわち、歩みが遅すぎて、主の歩みについていかないものは問題があります。また、長過ぎる、すなわち、歩みが熱心なのは良いが、しかし、主を追い越して行き過ぎた熱心に入る人も、また困るわけです。決して、短足の人は牧師になるなという意味ではありません。
19.あるいは足や手の折れた者、
20.せむし、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。
湿疹のあるものは何がまずいのか?湿疹はうみであり、それを通して病が移ります。伝染するのです。同じく、説教する者が罪の中におり、また、変な惑わしの霊の中にいると、それは聞いている会衆へ伝染します。ですから、まずいのです。
また、「こうがんのつぶれた者」とは、「子を生む」ことと関係します。すなわち、新生と関係するのです。要するに伝道や改心、新生に関心を持たないもの、力を入れない者は、パンをささげる、すなわち、説教者にはふさわしくないと語っているのです。
21.祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。
22.しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。
身に欠陥のある者は「神のパンをささげてはならない」、しかし、彼はそのパンを「食べることができる」と書かれています。パンをささげることと食べることは違うことが分かります。パンすなわち、御言葉を取次ぐ、メッセージすることと、それを会衆として、食べるすなわち、聞くこととは異なるのです。そして語る者には、聖であることが求められています。
繰り返して言います。いかにこの務め、すなわち、神のパンをささげる勤めは尊いのでしょう。神はそれをこのように聖とされました。この務めを尊ぶ者は神から尊ばれます。しかし、ないがしろにする者は、そうすることにより、神の裁きを招くことを知ってください。
23.ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別する主だからである。」
24.モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。
祭壇は神の前にささげものをする場所です。今の時代における、奉仕を意味するのでしょうか。「身に欠陥がある者」は、神の奉仕にふさわしくないと語っているのです。
このことは単に説教する人々ではなく、いわゆるキリスト教界の奉仕、活動に携わる総ての人に関係する事柄です。具体的に言えば、キリスト教会の出版、神学校等、あらゆるミニストリーの働きとも関係すると言えます。
さて以上のように神は明確にパンを捧げる働きに携わる祭司、すなわちメッセンジャーに関して繰り返して、聖でなければならないこと、欠陥があってはならないことを述べています。
この奉仕は何と尊い奉仕でしょうか。神のことばを尊び、身を慎み、この務めを尊ぶ者に祝福と栄光があることを知りましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-