サマリヤの女

  カトリックへの警告!!

 

 

第3章 律法の専門家に関して 

 

~律法の専門家が鍵を持ち去るとは何を意味するのか?~ 

 

【テキスト】ルカ11:4952

“だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。私は言う。この時代はその責任を問われる。』忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」

 

律法の専門家は知識のかぎを持ち去ると書いてあります。だから、私たちは律法の専門家を警戒する必要があります。もし、律法の専門家には、無条件に従えとでも書いてあるなら、その通りにすべきです。しかし、そうは書いてありません。

 

今の時代、律法の専門家とか律法学者とはどのような人々に相当するでしょう。律法学者の語源は“grmma”(書く、文字、本)であり、いわゆる聖書の専門家です。だから今の聖書の神学者、注釈家等に相当するでしょう。

 

たしかにイエスの時代の律法の専門家たちは間違っていたでしょう。しかし、かといって、私たちは今の時代に現在の“律法の専門家に相当する人たちを警戒するべきなのでしょうか。私は警戒すべきだと思います。なぜなら、 “昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。”(ローマ15:4)と書いてあるからです。イエスの時代、“律法の専門家が知識の鍵を取り去ったのなら、今もその可能性はあると思った方が良いのです。これらの人を警戒するとは畏れ多いようですが、しかし、主の警告に従うべきです。まず、吟味すべきです。吟味して正しければ受ければ良いのです。

 

     (律法の専門家たちに誤りを指摘するイエス・キリスト)

 

 

さて、彼らのどこが問題なのでしょう。彼らは律法、聖書のことばの専門家です。人々は病気に関しては医者に聞き、数学に関しては数学の先生に聞くように、聖書の意味については、律法の専門家に聞くのです。もし、専門家が間違っていたら問題が生じます。医者が風邪の薬と下剤を混同するなら、患者みんなに大きな迷惑や混乱が起きます。同じように律法の専門家が間違える時、神の民に大きな損失と混乱が生じるのです。勿論間違えようと意図して間違える専門家は、いないのです。しかし、敵の戦略はこの部分に集中しており、結果として敵に惑わされている律法の専門家は多いのです。

 

聖書自体は変わらない神のことばであり、誰に対しても同じ言葉が書かれています。しかし、その解釈が異なる時、聖書は全く別の本のようになり、聞く人に全く別の結果を起こすのです。

 

たとえば、異端のものみの塔がそうです。彼らは彼ら独自の“新世界訳という聖書を持っています。これこそ聖書原典からもっとも忠実に訳された聖書ということになっています。その聖書を読み、彼らのテキストに沿って話を聞いていくといつの間にか、イエスは神でなく、救いは行いによるのであり、輸血は罪ということを納得してしまうのです。また、カトリックもそうです。同じ聖書を読んでいるはずなのに、信者が忠実にその聖書解釈を聞いていく時、いつのまにか教皇は無原罪、マリヤも無原罪、煉獄はあるという間違った教えを納得してしまうのです。

 

私はものみの塔の人を個人的に何人か知っています。みんな真面目な人です。また、その伝道熱心さは、クリスチャン以上のようにさえ思えます。礼儀正しいし、悪い人たちのように思えません。しかし、彼らは異端です。彼らが一生懸命活動すればするほど、神の御心を損なっています。何がまずいのでしょう。問題は一つです。それは彼らにとって“律法の専門家、すなわち御言葉を解釈する人たちが間違えているので、組織全体として全く間違った組織となっているのです。

 

聖書の解釈を説く人、すなわち“律法の専門家にあたる人の役目が大事だということが分かります。主が“律法の専門家が知識の鍵を持ち去ると警告された時、我々はどのように反応すべきなのでしょう。今はイエスの時代ではないからと無視するべきなのでしょうか。いいえ、少しは警戒すべきではないでしょうか。

 

敵はどこを攻撃すればもっとも効果的なのかを知っています。そして、主もこの問題を前もって知っていて預言されたのです。私たちだけが、無知であって良いとは思えません。知識の鍵を持ち去るとはどういう意味なのでしょう。主の御心は私たちが主に関する知識に富むことです。

 

たとえば図書館に多くの本があるとします。しかし、その図書館の入り口の鍵を持ち去ってしまったら、誰もそこに入ってそこの本を読むことはできません。聖書には多くの知識がつまっています。表面的に見える意味だけでなく、神の知恵によって隠されている多くのたとえ、知識、奥義があります。

 

           (聖書に真理の知識がある)

 

 

しかし、鍵を持ち去られ、そこに入ることを禁じられたのなら誰も入ることはできません。そしてまさに“律法の専門家はそのことをすると言うのです。そのようなことは現在でもあり得るでしょうか。私はあり得ると思います。

 

鍵を持ち去るということの例は、たとえばものみの塔の信者たちがそうです。彼らは救いの鍵を持ち去られており、どんなに忠実に奉仕し、集会に通っても救いに至りません。しかも恐ろしいことに彼らはその鍵が持ち去られていることさえ知らないのです。同じことはローマカトリックの人たちにも言えます。

 

どのようにして、鍵を持ち去るのでしょう。それは色々な方法があります。たとえばⅡペテロの“私
的解釈ということばです。これをカトリックの聖書解釈者は“公の解釈以外の解釈は禁止というようにとります。結果として、教会の伝統的な解釈-その中には、教皇無原罪との解釈や教えもあるのですが、それ以外の解釈ができなくなりました。ある人が聖書を読んでいて、聖霊が正しい教えを語りかけてもそれを発表できなくなりました。たしかに彼らは知識の鍵を持ち去ったのです。

 

また、比喩やたとえの解釈に関しても、伝統的な解釈以外はだめということになりました。あえてそういうことをすれば、異端だということで、迫害するのです。たしかに彼らは“知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。

 

このテキストの聖書箇所を見ると預言者や使徒を迫害するのは、“律法の専門家であることが分かります。彼らはどのように預言者を迫害するのでしょう。それは預言者でもあるイエスを迫害したようにおこなうと思われます。彼等はイエスのことば尻をとらえ、質問攻めをして、そして挙句の果てには主を悪霊つき、異端者として排斥したのです。

      (イエスを石打にしょうとしたユダヤ人たち)

 

 

聖書のことばが真実なら、“律法の専門家は、今までもそしてこれからも使徒をそして預言者を迫害していきます。

  (使徒ステパノもユダヤ人に迫害され、石打にされて眠りについた)

 

 

ですから、これらのことから次のことが言えます。主に遣わされた者には、“律法の専門家による迫害がつきものだということです。ですから、主のしもベとして選択をせねばならないこがあると思われます。一つは、人から悪く言われないために“律法の専門家に反発されそうなことは全く言わないということ。または、人から悪く言われても、神のみからの栄誉を求める道を選ぶかです。 

 

誰も進んで異端と言われたい人はいません。しかし、主が“律法の専門家から、排斥されたのなら、その弟子が多少のことを言われるのも仕方が無いかと思われます。さらに主の御心をおこないたいと思います。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-