サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第34章 マリヤの胸をつらぬく剣 

 

~かつてマリヤに語られた「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」とのことばを見ていく~ 

 

【テキスト】ルカの福音書2:34,35

34.また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

35.剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

 

本日は「マリヤの胸をつらぬく剣」という題でメッセージしたいと思います。かつてマリヤに対して語られた、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」とのことばを考えてみましょう。

 

 

        ( 御言葉の剣)

 

 

テキストに沿って見ます。

 

34.また、シメオンは両親を祝福 し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

 

この時、シメオンはマリヤに対して語りました。ですから、これはマリヤに関する預言です。そしてその預言は第一義的には、イエスの母マリヤという2000年前の女性に関する預言なのですが、しかし、そのことにとどまらず、マリヤの名をもって呼ばれる霊、もっと端的に言うなら、マリヤの名の偶像崇拝、マリヤ崇拝に関しての預言ともとれるのではないかと思われるのです。

 

そのような考えは、とっぴであり、恣意的(しいてき)であるとの意見もあるかもしれませんが、しかし、個人的には、よくも悪くも聖書が語っていることを忠実に読みたいと思っているのです。

 

かつて私たちはペテロに関する記述を見てみました。その時、彼ペテロに関する多くの記述は単にペテロ個人に関するものというだけでなく、さらにペテロの名をもって呼ばれる人々、すなわちペテロの後継者を自称するローマ・カトリック法皇及び彼らに率いられるローマ教会に関する預言であることを見たのです。

 

このことは当初はとっぴな考えのようにも思えたのですが、しかし、事実多くのペテロに関する預言がペテロの後継者を自称する人々にも該当することを見たのです。

 

マリヤに関しても同じことがあるかもしれない、すなわち今、このカトリックの教会で、大きく盛んになっているマリヤ礼拝に関して聖書は預言しているのかも知れない、そしてこの箇所はその預言の一つではないのか、そう私は思っているのです。

 

「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ」

 

この子とはもちろん主イエスのことです。この主イエスが現れた時代のことを考えてみましょう。この時に関して、聖書は、「教会時代の初め」というより、「旧約時代の終わり」というようにとらえているように思えます。聞いたことがないかもしれませんが、しかし、このことはよくよく理解してください。主イエスの時代は明らかに旧約の終わりなのです。イエスの時、この時、ユダヤ教の会堂があり、預言者(バプテスマのヨハネ)がおり、また、モーセ、アロンに連なる祭司がいました。この時は旧約の終わりなのです。そのすぐ後のパウロの時になると状況は一変し、教会があり、牧師がおり、長老がおり、執事がおり、宣教があります。逆にパウロのこの時はたしかに教会時代の初めなのです。

 

ですから、「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ」とは、要するに「旧約時代」というある時代の終わり、その世の終わり、時の終わりにあらわれたナザレのイエスに関する説明なのです。旧約時代の終わりにある一人の男の子が現れ、その子を基準にしてこの時代の人々は区分、色分けされてしまう、ここではそのことを語っているのです。

 

そしてそれはまた別の時代の終わり、世の終わりに起きてくる男の子に関する預言でもあります。それは以下の男の子のことです。

 

参照 黙示録12:5

5.「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」

 

さて、ことばの意味合いを考えてみましょう。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ(set=用意され)とはどういう意味合いなのでしょう?言わんとしていることはこういうことです。

 

終末の日は、区分の日であり、ある人は立ち、しかし、また、主に着かない人は倒され、区分され、より分けられ、また、洪水や地震のもとで倒されていく、そのことを言うのです。そして、その区分、より分けは一体何をもって行うのか?その試金石のように用いられるのが他でもない、この男の子であると、そのように聖書は語っているのです。

 

このことはまさにこの男の子、主イエスに関して成就しました。イスラエルの人々は主イエスをどう取り扱うかにより明確に区分されました。主に着くペテロを始めとする12弟子(イスカリオテのユダは除く)は建て上げられ、高められ、神の前に誉れを受けたのです。しかし、この主イエスを否定し、攻撃した人々は皆、倒され、恥を受けました。主が十字架につけられた後、イエスを否定したエルサレムの人々はその後、あろうことか、偽メシヤを受け入れ、その甘言に乗り、ローマへの反乱に参加し、最後はローマ軍により最後の一人まで、殺されてしまったのです。紀元70年のことです。

 

「また、反対を受けるしるしとして定められています。」

 

このことばは一見奇妙なことばです。約束された救い主である主イエス・キリストに関して、シメオンはこの子は「反対を受けるしるし」であると述べているのです。逆に「救いのしるし」「安息のしるし」とは述べていません。ですから、これは旧約という「時代の終わり」にあらわれる男の子であるイエス・キリストの特殊な使命に関して語っているのです。

 

「反対を受けるしるし」ということばを考えてみましょう。たとえばその例は、あのオウム真理教のA尊士でしょうか。彼はカルトの権化のようにあらゆる人々から非難されました。

 

ちょっと話がそれますが、オウム真理教の事件も我々に伝えられているような単純なカルト事件というより、「ユダヤの真相を暴こうとしたオウム真理教」を壊滅させるために、嘘つきユダヤが仕掛けた事件:という面があると多くの人が指摘しています。詳しくはここでは語りませんが、それらしい点がいくつも存在します。どちらにしても、ヒトラーといい、オウムといい、マルコポーロ雑誌といい、乗っ取られた阿修羅HPといい、偽ユダヤの真相を暴くものは徹底的に壊滅させられるということが今の世の常識であり、定まった法則です。

 

ですから、いずれ、角笛HPといい、このHPといい、あらゆるもっともらしいスキャンダル、大掛かりな工作で作られた事件、真偽こもごもな噂の中で消えていくかもしれませんし、また、秘かになりすましに乗っ取られるかもしれません。それらの偽りを信じる人々の方が多いのかもしれませんが、今はまだその時が来ていないので、このように警告を伝えています。(20051020日:今は乗っ取られていません)しかし、そうではあっても、かつての主イエス、またパウロが危険の待ち受ける、エルサレム、そこにまっしぐらに向かったように、主への奉仕の中には、評判が落ちるだの、命が危ないだのそんなことを考えていてはできない奉仕があるのです。

 

話を戻しますが、主が「反対を受けるしるし」と言われた時、いいことで評判になるのでなく、カルトのリーダーみたいに、悪者の代表みたいに扱われるということを語っていると思われます。そして、そのことは成就しました。福音書を見るかぎり、主イエスは、まさに悪逆カルトのリーダーのように、当時の宗教専門家たちに扱われており、また、そのように人々から見なされ、十字架に付けられたのです。同じことが終末にも起き、カルトグループと見なされる、しかし、実際は神の御心に沿った、「男の子」があらわれるでしょう。

 

35.剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

 

さて、男の子があらわれる時、それはまた、剣の戦いが起きる時でもあります。剣は御霊の剣すなわち、神のことばと書かれているように、御言葉のたとえです。すなわち、教理論争のことを指すのです。

 

その教理論争の中で、剣がマリヤの心さえ刺し貫くことをシメオンは預言しました。このことは、かつて2000年前イエスの母として来た、マリヤに成就したとは思えません。なぜなら、イエスの母であるマリヤが剣で刺し殺されて死んだとは、誰も聞いていないからです。それでは、このことばは、どのように成就したのでしょう?またはするのでしょうか。

 

私が思うにこのことばは、今カトリックで盛んに行われているマリヤ崇拝と関係したことばではと思うのです。

 

多くの反キリストの働きがありますが、マリヤ崇拝もまた、大きな反キリストのムーブメントです。反キリストと言うと、全くキリストの逆を行う、悪の権化というニュアンスを感じるかも知れませんが、この語の意味合いはそうでもありません。反キリストということばには、「キリストの代わり」という意味合いがあり、キリストの代用となり、キリストになり代わり、その座を占めるものこそ、その反キリストなのです。

 

その意味合いを考えるなら、「かつて、キリストがいた時は彼が教会を治めていたが、今は私が治める」なんてしゃしゃり出ているペテロの後継者こと、ローマ法皇はまさに反キリストそのものです。

 

彼らはあらゆるみことばをすりかえ、地獄はない、創世記は神話だなどと、すっかりキリストのことばを台無しにしています。

 

同じ意味合いで、今、カトリックで盛んに勧められている、マリヤ礼拝は、まさに反キリストの働きなのです。キリストの代わりにマリヤに祈り、求め、聞く、これはまさに反キリスト礼拝なのです。ロザリオ の祈りは、主に、マリヤに祈る祈りなのです。

 

愚かなカトリック教会、御言葉に着くプロテスタントの多くのクリスチャンの殉教の血を流したこの教会はその当然の報いとして、かくのごとく反キリスト礼拝に興じるようになったのです。

 

しかし、時が来ており、愚かな彼らが真理を知る時が来ています。剣の戦いが起きようとしているのです。それは、御言葉、教理に関する戦いです。

 

カトリック教会の中心に座して揺るぎのないこの悪霊マリヤ、ローマ以来の女神崇拝に戦いを挑む、人々、勇士が現れてきます。勇士は立ち上がり、捕虜とされた人々を奪い返すようになるでしょう。捕虜とは、情けなくもキリストとそのことばを投げ捨て、悪霊マリヤを神の霊と思い込む盲人信者の群れ、愚か者のカトリッククリスチャンのことです。彼らの多くは最後まで、愚かなままであり、悪霊と運命を共にするかもしれませんが、しかし、立ち返る人々がいます。

 

戦いの一番槍はプロテスタントの群れから出るでしょう。そして、召された勇士はこの悪霊女の胸を刺し貫くでしょう。その日こそ、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」とマリヤに対して語られた預言が成就する日です。この悪霊女に対する戦いを始めるべく角笛はすでに吹き鳴らされており、この声を聞き分けた勇士は戦いの備えをなすべきなのです。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-