サマリヤの女

カトリックへの警告!!

 

第35章 安息日の主 

 

~安息日で象徴される7つ目のミレニアムは実は冒涜の日、安息のない日となることを暗示している~ 

 

【テキスト】ルカによる福音書6:15

1.ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。

2.すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」

3.イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。

4.ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」

5.そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」

 

本日は、「安息日の主」という題でメッセージしたいと思います。

 

聖書はその十戒の中で、「安息日を覚えて聖とせよ」と命じています。このように聖書が命じている時、我々は安息日すなわち、週の7日目、すなわち、7つ目のミレニアムに関して、どのように理解すべきなのでしょうか。ことばを変えると、この今から始まろうとする、7つ目のミレニアムはどのような時代になると予想できるのでしょうか?

 

偽ユダヤのガセネタやら、すっかりそれを吹き込まれている愚かな人々は、至福千年の時が来る、千年のすばらしい時代が来るなんて言っています。しかし、それは本当か?

 

私の理解は違います。むしろ全く逆です。これからの千年は至福どころか、呪い、困難、冒涜、すりかえ、偽り、善を悪、悪を善と呼ぶ時代が来ると思われるのです。なぜ、そう言えるのか?

 

説明します。聖書は律法に関して以下のように述べています。

 

参照 Ⅰテモテへの手紙1:9,10

9.すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、

10.不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。

 

すなわち、神の戒め、おきて、律法は正しい人を対象というより、律法を無視する不従順な者のためにあると言うのです。だから、安息日に関する戒め、すなわち、週の7日目を聖とせよ、何の仕事もするな、という時、それは、実は「律法を無視する不従順な者のために」書かれている、すなわち、7日目、7つ目のミレニアムに大いに冒涜を働く人々を対象に書かれている、また、大いに仕事、すなわち、行いを強調する人々を対象に書かれているのです。

 

逆に言うと、7日目、すなわち、7つ目のミレニアムは冒涜的な人々、神を冒涜、キリストを冒涜する人々で教会が満ちる、また、行いを強調する教理に教会が席巻される、それを暗示しているのです。

 

戒めすなわち、律法が大いに強調される時、それは、実は戒めを破る人々が大いに存在する、そのことを暗示しています。それはこの世の世界でも同じです。

 

ある時、小学校へ行くとします。するとその廊下に「廊下を走らない」とポスターが書かれています。「廊下をばたばた走る子がいるんだな」と想像されます。

 

さて、代わってあるアメリカの荒れた高校へ行くとします。たとえば、廊下に「銃を学校へ持って来てはいけない」などと書いてあるとします。その時、どんな事態が想像されるでしょう?

 

「日本の小学校では廊下を走らないことしか注意していないが、こちらの高校では、銃のことまで、書いてある。こっちの方が、注意が大いに行き届いている」などと思いますか?多分誰も思わないでしょう。日本の小学校で銃のことが書いていないのは、そんな子は誰もいないから、そんな恐れはないから、書いていないのです。そのような戒め、注意、聖書用語で言う「律法」は不要なのです。逆にアメリカの高校では「銃持ち込み」に関する注意、もしくは、律法が必要なのです。

 

こちらの方が荒廃しており、憂慮すべき事態なのです。

 

さて、これらの例に基づいて上記の律法、安息日、7日目、7つ目のミレニアムに関して考えるなら、この時代に対して別の面が見えて来るはずです。神は週の他の日に対しては、聖とすること、何の仕事もしないことは命じませんでした。しかし、この7日目に対してのみ、そう命じました。逆に、この日こそ、問題の日、人間で言えば、問題児、特別な日であることが想像されるのです。

 

この7日目、安息日で象徴される7つ目のミレニアムは実は冒涜の日、安息のない日となることを聖書は暗示しているように見えるのです。

 

 

 

 

この理解に基づき、テキストを見ていきます。

 

1.ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。

 

麦はパンに通じ、それはまた、御言葉に関するたとえです。弟子たちは麦の穂を摘む、すなわち、御言葉に関する仕事に従事し、また、イエスと共に麦すなわち、御言葉を食べていたのです。このことに何らも問題もないと思われます。しかし、ある種の人々にとり、これは問題行動のように見えます。それは、その日が週の6日間ではなく、7日目、安息日のことだからです。この日は特別な日、善を悪、悪を善と呼ぶ日なのです。

 

2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」

 

安息日に弟子たちが麦の穂を取り出すこと禁止され、非難されました。同じく、7日目には、主の弟子がメッセージしたり、また、イエスにある御言葉の解釈を語ることは禁止されます。それは、この日には許されないのです。この時代は、黙示録に「獣のしるしをつけてない者に売ることも買うことも許されない」と書かれた時代であり、売り買い、すなわち、贖いに関すること、救いに関することは、悪霊を受けた人しか許されなくなります。同じようにパン、御言葉に関することも、主の弟子には許されなくなるのです。

 

3.イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。

4.ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」

 

ここで、麦を食べることは、実は祭司の供えのパン、特別なパンを食べることと対比することが書かれています。そうです、これらは対比します。ですから、弟子が安息日に麦を食べてよいかどうかは、祭司のパン、神の前に特別に提供される命の御言葉に弟子があずかってよいのかどうかということと関係します。そして、それは主によれば、許されること、非難すべきことではないのです。同じく、終末の日に主の弟子が真のパン、神からのメッセージにあずかり、これを扱うことには、御心があります。ですから、たとい、非難がこれからあっても、びっくりしたり、やめるべきではないのです。このこと、7つ目のミレニアムの時に主の弟子が麦の穂を摘むため、すなわち、神の御心のメッセージをするため、非難されることは、かねてから預言されていることなのです。

 

「自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」

 

私たちはこの日が来ても、決して引いてはいけません。逆に自分も食べ、他の者、すなわち、私たちの身近な人々にもそのメッセージを伝え続けるべきなのです。

 

5.そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」

 

主は「人の子は、安息日の主です。」と言われました。なぜ、主はわざわざそう言われたのでしょうか?

 

知るべきことは、週7日のうち、他の日に関して主は、「人の子はこの日の主です」とは言わなかったことです。しかし、主は特別に安息日、週の7日目に関して名指しで、「人の子は、安息日の主です。」と言われたのです。我々はこの日に関してどう理解すべきなのでしょうか。想像できることは、この日、安息日と言われる特別な日において、「イエスは主でない」という教えが席巻し、また、大いにもてはやされるということです。

 

私たちはすでに7日目にいます、7つ目のミレニアムにいるのです。そして、今、キリスト教会で起きつつある多くのムーブメントの特徴は、他の「主」を強調し、キリストから人々を切り離すものだということです。

 

たとえば、カトリックはロザリオの祈りを強調します。その祈りはもっぱら、マリヤに対してなされるものです。それで、カトリックの人々は、この祈りをすればするほど、真の救い主を離れ、悪霊に深入りするようになります。

 

また、ベニー・ヒンだのビル・ハモンだの、他の主を強調する働きはプロテスタントでも顕著です。

 

この時代は明らかに他の主を強調し、イエスを「主」の立場から切り離そうという時代です。しかし、主に着く人々はこの日を預言し、前もって語られた方のことばを忘れてはいけません。たとえ艱難時代が来ようと来まいと、私たちの贖い主が今さら変わるわけではありません。愚か者の惑わしに連なってはいけません。

 

この方こそ、「安息日の主」なのです。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-