サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第38章 裁き(公義)をなおざりにする

 

~語るべき裁きを語らず、心地よいメッセージしか語らないかつてのパリサイ人の道を歩み続ける現代の教会~ 

 

【テキスト】ルカの福音書11:4244

42.だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。

43.忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。

44.忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」

 

本日は、「裁き(公義)をなおざりにする」という題でメッセージしたいと思います。テキストに沿って見ます。

 

 

 

42.だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。

 

ここでパリサイ人の問題点について書かれています。それは、彼らがなおざりにしていることに関してです。彼らは「はっか、うん香、あらゆる野菜」などの十分の一を納めています。十分の一を納める、これは良いことなのです。また、はっか、うん香、あらゆる野菜などのこまごました物に関して、欠かさず十分の一を神に納めること、これはさらに良いことです。しかし、彼らに問題点があり、それは、彼らの歩みかたが片寄っており、忘れている、なおざりにしていることがある、それが問題なのです。そして、不思議にも彼らがなおざりにし、忘れ去っている事柄は、現在の教会にも通じます。

 

「公義・・・なおざりにしています。」

 

公義とは聞き慣れないことばです。このことばに関連して、私が思い起こせるのは、公義隠密なんてことだけです。よく意味のわからないことばです。このことばは、KJVでは“judgement”、「裁き」と訳されています。ですから、公義をなおざりにするとは、要するに神の裁き、義、厳しさに関して口をつぐむ、語らない、ないがしろにするということを語っているのです。

 

事実、ユダヤ教はそのような宗教、神の裁きを語らない宗教であり、彼らの中に今でも存在するパリサイ人、ラビは、聖書のことばに難癖をつけ、屁理屈をつけ、御言葉を骨抜きにする人々です。

 

彼らは、公義すなわち、裁きについて語らない、ないがしろにしていると主に非難されています。なぜ、彼らは裁きについて語らないのか?それは思うに、人からの栄誉、賞賛を受けるため、そのため人間よりの、人に迎合したメッセージを語っていたと理解できます。まさに聖書で言う偽預言者の歩みです。

 

聖書は、偽預言者についてこう語ります。

 

参照 ルカによる福音書6:26

26.みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。

 

全ての人からほめられる時、それは、人のことだけを考えた八方美人の説教をしているからであり、しかし、それは神の前には、にせ預言者の道であると、そう主は語っているのです。

 

メッセージ、説教ということがわかりづらいのなら、これを対人間関係と考えればわかりやすいかもしれません。

 

誰に対してもおべんちゃらを言う人なら、敵はできません。みんなからの評判は良くなるものです。逆に直言ばかり言う人は嫌われます。

 

その当時のパリサイ人の聖書に関する話、メッセージは、皆人を向いたものであり、人の喜ばないこと、この町に裁きが来るぞなんてことは言わない、すなわち公義、裁きをないがしろにしている、無視している、語るべき責任を果たしていない、そうイエスは非難しているのです。

 

そして、それは悲しくもまさに現在の教会に通じます。キリスト教会はユダヤ教化し、牧師はパリサイ人化し、人に迎合するメッセージしか語らなくなりました。

 

大切な君、そのままの君でいい、神の愛などばかり強調され、来らんとする裁きについて述べる人は少なくなっているのです。

 

終末の裁きについても教会はあまり語らなくなりました。カトリックでは、もう教皇が終末はないことにしたらしいです。信じられないことばです。聖書がはっきり明言する終末がないとは、とんでもない異端教理であり、そんな教理には断固反対すべきなのに、「良かった、良かった、怖い終末がなくなってラッキー」などと語るカトリック教徒は、全く愚かな異端者どもです。

 

彼らは、天地は過ぎても過ぎ去ることがないと言われたキリストのことば、終末のことばを嘘だとか、間違いだとか言いたいのでしょうか?もし、本当にそう思っているのなら、これは明らかに異端であり、逸脱した教えです。

 

そして、そう語るローマ法皇こそ、ここで非難されている、公義、裁きをないがしろにするというパリサイ人の道を歩む愚か者です。

 

愚か者はローマ法皇にとどまらず、日本のにっきとかハッカとかいう教団ももう終末なんか語らない、世の終わりのことなんて語らないと聞いたことがあります。それが本当なら、この人々も同じく、キリストの非難したパリサイ人の道、公義、裁きをないがしろにする道をばく進する背教者どもです。

 

しかし、主はあきらかに公義すなわち、裁きをないがしろにしたと言って、パリサイ人を非難していることを忘れてはいけません。ですから、堅く主の御言葉を行おうと志す人々は、彼ら、迎合者の進んだ愚かな道ではなく、公義、裁きについて、しかるべき、ことばを語るべきなのです。

 

聖書はもちろん、裁きのみを語る書ではありません。しかし、それこそ創世記のノアの洪水の裁きから、黙示録のバビロンの裁きに至るまで、あらゆる形で、神の裁きについて記してあることも事実なのです。私たちはその聖書の記述に従い、主旨に従い、適切な方法で、裁きについても語るべきなのです。聖書の裁きの箇所に来るたびにその箇所をスキップしたり、この箇所の裁きは皆さんと関係ありませんなどと人々に根拠のないぬか喜びをさせ、実質公義、裁きをないがしろにする御言葉を盗む者となってはいけないのです。

 

時代と共に終末の様相がますます明らかになるにつれ、日本のキリスト教会は、福音派といわず、ペンテコステ派といわず、益々教会は来らんとする裁き、公義については語らなくなりました。むしろ、ありもしない架空の祝福や恵みについて語ります。

 

しかし、旧約の真の預言者たち、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどがこぞって、神の民に来らんとする、神の裁きについて語ったように、新約の今も真の預言者、教師は新約の神の民に来らんとする裁きについて語るべきなのです。

 

「神への愛とはなおざりにしています」

 

この時、主イエスはパリサイ人たちが、神への愛をなおざりにしていると非難しています。さて、このことは現代も同じであることを知りましょう。

 

現代の教会においては、「神への愛」はなおざりにされています。「神の愛」は大いに強調されているのですが、神への愛はなおざり、無視されているのです。言うまでもないかもしれませんが、神の愛と、神への愛とは違います。神の愛とは、「神がどんなに我々を愛しているのか、どれほど愛しているのか」を途方もなく、とめどもなく、どこまでも強調することであり、それは、今の教会で散々、強調され、我々は嫌というほど、神の愛については聞かされています。

 

一方、神への愛とは、我々が神をどう愛するか、神のために何を犠牲にし、何を行うかということに関する話であり、今の教会では人気のないトピックです。

 

人間を対象に言うなら、「親がどれだけ、自分のため、色々やってくれるか、金をくれ、部屋をくれ、自動車を買ってくれ、食べ物をくれるか」という話ではなく、逆に我々が親のため、どれほどのことができるか、「時間を犠牲にし、金を犠牲にし、場合によっては命を犠牲にして仕えるか」という問題なのです。この2つは全く逆の事柄です。

 

神からどれだけ受けるかという自分中心の事柄でなく、神のため、どれだけ捧げるかという神中心の事柄を扱っているのです。

 

今の教会では、神の愛のオンパレードです。神はあらゆる形で我々を愛しており、途方もなく、とめどもなく愛しているということになっています。ルターは、神の愛は果てしなく、百万回も殺人、姦淫も許すといったとのことです。大ルター様に、もの申すのは恐縮ですが、少し言い過ぎかと思われます。

 

ルターに影響されたのかどうだか、今の教会では、神の愛が増幅し、拡大し、膨張し、もうすごいことになっています。そのままの君でいい、すなわち、悔い改めなんかいらないらしいです。また、セカンドチャンスで、裏切り者ユダも天国へ入れるようになっているようです。

 

神の愛の追求者、発見者、敬愛すべき(軽蔑すべき?)ローマ法皇様の御意見では、神はあまりにも愛であるために、めでたくも地獄の裁きはないことになったとのことです。すごい進歩です。

 

神の愛も21世紀ともなると進化するようです。もう御言葉の範囲など、とうに超えており、聖書とは無縁の道を現代の教会の「神の愛」は、ひた走っています。しかし、私から一言いわせていただくなら、どんなに人の耳に心地良い教理でも御言葉の範囲を超えたなら、それは、異端と呼ぶべきものです。

 

人間の世界でも親に金をよこせ、うまい物を食わせろなんて要求ばかりするドラ息子、ドラ娘にかぎって、親のためにプレゼント一つ用意したりしないものです。現代のクリスチャンもドラ息子みたいなものになりつつあり、自分にとって、都合の良いあらゆることを神には要求しますが、しかし、神への愛には関心がありません。そしてそれゆえに、信仰的に場合によっては精神的にも異常をきたしています。

 

神を愛する、具体的には神の御心を行うことに心を費やし始めると、それは自分にとっては損なようで、実は自分の信仰も歩みも建て上げる、益となることを知りましょう。

 

現代の教会、それはどのような教会なのでしょう?それは、神への愛など決して言わず、逆に神にあれをしろ、これをするなという傲慢な教会なのです。

 

逆に神のことばを守る、神を愛するゆえにこの世と一線を画す、そういったことはあまり言われなくなった時代なのです。

 

教会は、かつてのパリサイ人の道をひたすら歩み続けています。

 

しかし、このような時代にあっても神の義(公義)を語り続け、神への愛を語り続ける人々に御心があります。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-