サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第44章 剣の刃に倒れる
~背教、堕落のゆえにその報復として神の怒りが堕落した神の民に下る~
【テキスト】ルカの福音書21:20-24
20.しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21.そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
22.これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23.その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
24.人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
本日は、剣の刃に倒れるという題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。
21.しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
この節の「滅亡」と訳されたことばは、以下の「荒らす憎むべき者」と同じことばです。
参照 マタイの福音書24:15
15.「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)」
ですから、ここで言われているのは、エルサレムという中東の都市の滅亡というより、教会の荒廃、堕落、教理の俗下のことが言われているのです。
普通、この世の国や都市、人も軍隊に囲まれて滅びるものです。歴戦の勇将、織田信長も自分のいる本能寺が明智光秀の軍に囲まれた時、滅びを悟ったものです。
同じく、麗しい都エルサレムによりたとえられる神に愛された教会も、その滅ぶ日、堕落し、荒廃し、俗化する日が来ます。それは、軍隊に囲まれる日、敵に包囲される日です。
その日はもし、我々の目が開かれているなら、もう来つつあり、教会は敵の軍で囲まれつつあります。教会の東の城壁には、悪霊リバイバルの一団が押しかけ、踏み入ろうとしており、この攻撃による崩壊の日が来ようとしています。また、西の門には、6万語もの語句を削ったNIV訳聖書、はたまた、ユダの福音書、ダ・ヴィンチ・コードなど、聖書の記述を崩壊させようとする敵がなだれ込もうとしています。ここでも崩壊が近いのです。
同じく北の門には、背教教会カトリックとの合同を叫ぶ、エキュメニカル派が押し寄せており、南の門には、ハリー・ポッター、ナルニヤ物語、ヤベツの祈りなどの魔術推進派が押しかけており、ここでも崩壊の日が近いのです。
21.そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
ここでは、都から立ち退くことが勧められています。一回、「都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい」と言われ、再度、念押しするように再度、「いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。」と繰り返して言われているのです。このこと、都に入らないことが大変大事であることが分かります。この都から出ることは、以下の都、バビロンから離れることをもといに考えると理解しやすいと思われます。
参照 黙示録18:4
4.それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女(バビロン)から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。
バビロンから離れるのは、「その罪にあずからないため、また、その災害を受けないため」です。同じく敵に包囲され、堕落、崩壊していく世俗教会、エルサレムの都に我々が入らないように勧められているのも、「その罪にあずからないため、また、その災害を受けないため」なのです。これから、教会の堕落、崩壊、背教がすさまじい勢いで進むでしょう。
その時、我々のなすべきことは、この都の中にとどまり、改革を叫ぶことなどでは決してなく、逆に、この都を出ることなのです。
22.これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
このことばを理解するためには、この日が誰に対する報復の日だかを理解することが必要です。このことは、旧約聖書を読めば理解できることです。旧約聖書の中で繰り返し繰り返し記載されていることは、神の民の堕落、背教、そして、その結果、神の怒りが神の民に臨むという歴史です。
神の民の背教、堕落のゆえに神の報復として、イスラエル、ユダの民は、敵に敗れ、アッシリヤ、バビロンへ捕囚となって連れて行かれたのです。
彼らの堕落、崩壊、離散、捕囚は旧約の中で、多くの預言書に預言され、書かれているのです。
さて、旧約のイスラエルの民に起きたことは、また、新約のイスラエルであるクリスチャンの堕落に関する予表です。多くの聖書の預言は終末の日に関して語っており、その日、神の怒りが堕落、背教の民に下ることを語ります。ですから、この報復とは、神から、背教の民に下される報復のことを指すのです。
23.その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
身重の女、乳飲み子を持つ女とは、ミルクしか飲めない、堅い食物を食べられない、たとえや謎を解くことのできない信者、牧師しかいない教会のたとえです。この種の教会は悲惨です。なぜなら、終末に関する事柄は、たしかに聖書に書かれているのですが、それは皆、たとえや謎を使って書かれているのです。
したがって、それらの柔らかい乳しか食べることのできない教会では、終末の聖書の記事を理解できません。したがって、災いを未然に理解することも対処することもできないのです。
結果、文字どおりにしか聖書を理解できず、エルサレムに第三神殿ができるだの、中東の7年間の平和条約だのの、嘘に巻き込まれていき、惑わされるのです。
「この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。」
この地に大きな苦難が臨むと書かれています。この第一義的な成就は、エルサレムの西暦70年における、ローマによる陥落です。堕落、背教し、神の子を十字架に付けたエルサレムの住民は、ローマにより最後の一人迄殺されました。世の終わりにもこの苦難が再現するのでしょうか。もし、そうなら、堕落、背教した新約の神の民に大きな苦難が臨む日が来るようになると理解できます。
全世界規模の教会への苦難の日、私は聖書に基づき、この日がいずれ来ることを前もって語っておきます。
「この民に御怒りが臨むからです」と書かれていますが、このローマによるエルサレム攻撃は、神の怒りのゆえです。神は義人、イエスを殺したエルサレムの住民に怒りを燃やし、彼らを最後の一人迄殺したのです。同じことが終末に再現するでしょう。
終末の日、神のことばに堅く立つゆえに殉教する人々が現れますがそのことに関する神の怒りが新約のクリスチャンに対して臨むようになるでしょう。それは、どんな形で来るのか、具体的には分からないのですが、しかし、何はともあれ、かつてのエルサレムへの攻撃が大規模に再現するようになるでしょう。
24.人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
「剣の刃に倒れ」とは、「御霊の剣、すなわち神のことば」とのみことばから理解するなら、聖書のことばや、教理に関することと考えられます。
終末の堕落した教会は、あらゆるおかしな教理に倒されていく、そう理解できるのです。現実はこのことばを裏書きしています。再建主義、おかしな艱難前携挙説等、あらゆるおかしな教理が今のキリスト教会を席巻しています。
「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」
かつての神の民はバビロンへまたアッシリヤへ連れて行かれました。一つの民族が捕らえられ、また、他の国に移されると言う不思議なことがかつて起きたのです。このことは、未来に関する予表です。終末の日にも神の民が捕らえ移されるということが起きるのです。これは、物理的なことではありません。しかし、信仰的、霊的に神の民は別の国に移されていくのです。
あるクリスチャンたちはアッシリヤの国へ移されていくでしょう。アッシリヤは我々の理解では、カトリックのあらゆる間違えと関係していると思われます。カトリックの人々は、世界の中心、イスラエル、エルサレムに住む人々ではありません。逆に中心から外れ、遠い地、本来の聖書の教えから、かけ離れた所に住む人々です。
彼らは聖書にも間違いがある、間違えがないのは、教会だけであると主張しています。これは、聖書の教えとは正反対、まるで地球の反対側からの意見みたいなものです。聖書は明らかに主イエスのことば、聖書について、「天地は過ぎ去っても私のことばが過ぎ去ることはない」と、決して聖書のことばが変わったり、変化したり、移り去ることはないことを語っています。また、他の箇所では、「律法の一点、一画が過ぎ去るより、天地が過ぎ去る」ほうがたやすいことが書かれています。
律法とは何だか古めかし言い方ですが、要するに聖書のことばを言っているのです。ですから、カトリックの人々の教理は聖書と正反対の教理なのです。彼らは大いに移された人々、地球の反対側まで行ってしまった人々です。
他のクリスチャンたちはエジプトへ捕らえ移されていきます。エジプトは私の理解では、この世をあらわすものです。今のキリスト教会には、この世のカウンセリングだの経営の方法だの、この世のラブソングみたいな音楽だの、あらゆるこの世に属するものが持ち込まれています。こんなものを持ち込む人々は、自分は、時代に遅れた教会の人々に最先端のトレンドを伝えているんだなと、思うかも知れませんが、神の前におけるこのような人々の名前はエジプトであることを知るべきです。
「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
かつての日、神の愛された聖なる都、エルサレムは異邦人により、踏み荒らされました。このことは現実に起きたことではありますが、しかし、後の日の予表です。
このことがたとえているのは、神により愛された都、エルサレムにたとえられる教会が異邦人、すなわち神など信じていない、キリストなど信じていない人々により、踏み荒らされ、席巻されるということです。
そんなことはあり得ないと思うかも知れませんが、しかし、聖書にそう預言されているなら、必ず起こることなのです。
私たちの目が、もし、開かれるなら、このこと、教会が異邦人に踏み荒らされるということは、もうすでに大いに教会で起きていることが分かるでしょう。おかしな霊を下すベニー・ヒンはビデオでも分かるように、悪霊、デーモンを呼び下す人であり、悪魔礼拝者、すなわちクリスチャンではありません。ここで言う異邦人なのです。しかし、この異邦人がなんと、世界の教会の中心で用いられており、彼はあちこちの聖会でおかしな霊現象を起こしています。変な霊を受けたため、霊的、精神的におかしくなった人が続出しているのです。そうです、異邦人である彼により、教会は大いに踏み荒らされているのです。
このように怪しい器は、ベニー・ヒンだけではなく、嫌というほど沢山います。そして、誰も彼も大人気で聖会にやってきます。結果、大いに教会、エルサレムは、異邦人により踏み荒らされるようになっているのです。
まとめます。かつての日、西暦70年にイスラエルの首都エルサレムが異邦人に踏み荒らされるということは成就しました。神のことばは、掛け値なしに成就したのです。しかし、この預言は2重の預言であり、終末の日の教会の崩壊の預言でもあります。そして、今この時代に預言は成就しつつあり、教会の教理は崩壊し、教会は悪魔主義者により、席巻されている:このことを知りましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-