サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第46章 盗んだ金で像を作る
~キリスト教会に蔓延している偽りのあがないについてみていく~
【テキスト】士師記17:1-13
1.エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。
2.彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳にはいりました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」
3.彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して主にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」
4.しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。
5.このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。
6.そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。
7.ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。
8.その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、
9.ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」
10.そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。
11.このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。
12.ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。
13.そこで、ミカは言った。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」
本日は、「盗んだ金で像を作る」という題でメッセージをしたいと思います。
上記箇所には、ミカという人は自分で神の宮を持ち、そこに彫像と鋳像を造ったことが書かれています。このことは、ごくごく私的なことと思えますが、しかし、そうでもありません。なぜなら、この像は、後の日にシロの宮、イスラエル全体の宮におさめられる、神の民はそれを拝するようになるからです。
このミカに関するたとえを理解していきたいと思います。テキストに沿って見ます。
1.エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。
このミカという人はエフライムの人です。このエフライムということばは、どういう意味かと言うと、「2つの灰のかたまり」そんな意味です。「灰」は何のたとえかと言うと、明らかに火に関連するものであり、すなわち霊的なものと関係しています。「灰」は燃えカスであり、霊により、焼き尽くされた人のたとえです。「火」は、もちろん「悪霊の火」です。
「その名をミカという人がいた」
「ミカ」という名前にも語りかけがあります。「ミカ」とは「神のような」という意味合いであり、神もどき、本物もどきの偽の神、礼拝が想像されるのです。ですから、ここに書かれているのは、キリスト教もどき、礼拝もどき、神もどき、しかし、実際は偽の礼拝なのです。
2.彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳にはいりました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」
さて、ここで盗んだ銀に関して書かれています。ミカ自身が盗んだのです。これは何をたとえているのでしょうか?金や銀は、売り買いに使うものであり、売り買いは買い取ること、すなわちあがないと関係しています。そして、そのあがないに使われる銀が盗まれたものとは、すなわち盗まれたあがないを指すと言えるのでしょうか。
あがないが盗まれるとはよく分からない考えですが、このことを考えるに、他の例、御言葉を盗むという表現を考えれば分かりやすいでしょうか。
かつて私たちは、御言葉を盗むということを考えてみました。そしてそれは、すなわち神のことばを勝手に借用し、自分の都合の良いところだけ用いる、そのことだと理解しました。
同じく銀を盗む、あがないを盗むということも似たような理解ができると思われます。神が本来語っているあがないの教え、あがないの教理、方法を改ざんし、自分勝手なあがないを作り出し、それを公言する、そのことだと理解できるのです。
具体的には、たとえば、ローマ法皇がいう地獄は無い、誰も地獄へ行かないという教理です。誰も地獄へ行かないなら、なぜ、わざわざ神の子が犠牲を払って命を失ったのか?まったく理解不能な勝手なあがない教理、盗んだ銀の教えです。
すると、母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」
息子が銀を盗んだというのに、主の祝福を祈るとは何だかピント外れな箇所ですが、しかし、母親はここで息子を祝福しています。変な箇所ですが、しかし、暗示的、預言的な箇所であるとも理解できます。
今の時代でも盗むこと、盗まれた銀、あがないの方法を祝福している人々が多いです。
マリヤは「キリストと共同のあがない主」なのだそうですが、そのような方法に祝福を与える人々が、まさにこの母と同じ立場にいるのです。
3.彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して主にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」
4.しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。
さて、その盗まれた銀は聖別して、主に捧げられました。そして、それをもって、彫像と鋳像が作られたのです。
これらの彫像と鋳像は盗まれた銀、盗まれたあがないと関係しているわけです。
彫像と鋳像は、偶像であり、今の時代においては、神のように尊ばれる器を現します。神のように、キリストのように尊ばれる器が盗まれた銀、偽りのあがないと関係しているとの預言とも言えます。さて、このことは今の時代、みごとに成就しています。
たとえば、現代におけるキリストのような立場に立つ彫像、鋳像、ローマ法皇などがそうです。彼は、地獄は無い、誰も地獄へは行かないと言っています。それが本当なら嬉しいのですが、明らかに聖書と矛盾しています。聖書は、「金持ちとラザロ」の箇所で、明確に火で苦しむ地獄を表現しているからです。彼が言っているのは、人にはやさしい、耳にやさしい、しかし、本当のあがないではなく、偽物、嘘のあがないです。まさに盗まれた銀、あがないは、彫像、鋳像と関係しているのです。
「それがミカの家にあった」
これらの盗まれた銀でできた彫像、鋳像とはミカの家にありました。ミカ=神のよう、神もどきの家、教会にあったのです。言わんとしていることは、教会もどき、神もどき、キリスト教もどきの教会が存在する、しかし、そこで扱われているものは、盗まれた銀、つまり本物のあがないではないということです。
このことの意味は、このように説明できるでしょうか。私たちが盗んだ金や、盗んだクレジットカードを使って、テレビやら、ビデオを買っても、それがバレれば、無効です。あとで、そのテレビ、ビデオを返品しなければならないのです。盗んだ金、盗んだ銀は無効なのです。役に立たないのです。
何度も繰り返して言うようですが、私たちの誰もが、一度死ぬことと、死後裁きを受け、裁判を受けることが確定しています。
その時、本物の銀、あがない代金を持っていれば、滅びの罰を受けないでしょうが、しかし、それが盗まれた銀、無効な金だったらどうするのか?それは、無効であり、我々は罰を免れないのではないのでしょうか?そういう意味で、この箇所のミカの問題は、大変深刻な問題、我々のあがないが本物か否か、有効か無効かという問題を扱っているのです。
5.このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。
ミカ、すなわち神のよう、神もどきが、神の宮とエポデとテラフィムとを持っていたことがここに描かれています。エポデは僧服であり、テラフィムは像です。ですからここで、神もどき、本物もどきの教会及び、そこには神父の服やら、マリヤやらの敬虔な像も備えられていることが描かれているのです。
すなわち、本物もどきの教会があり得る、たとえそこに敬虔な神父やら、厳かな像が祭られていてもなおかつ、本物もどきであることがあり得る、そう語られているのです。そんなことは受け入れられないかもしれませんが、しかし、この箇所は明らかにこのことを語っています。
「その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。」
ミカは勝手に自分の息子を任命して祭司として、使っていました。しかし、真の祭司は、神から任命されるべきなのです。ここでは、祭司、弟子、牧師と言いながら、勝手に任命された、神もどきが任命した祭司があることが語られています。この視点で今の教会を見るべきです。
たとえば、ローマ法皇は、ろくでもない教理、マリヤ礼拝やら、法皇に間違いが無いなどとの異端教理を信じる盲人を雇い、神父として用いています。この場合、ミカ、神もどきが勝手に任命していることと同じことをしているわけです。
しかし、このような教会には問題があります。教会もあり、祭司もあり、祭司の服も像さえあるのですが、もっとも大事なあがないがいかさまです。結果、信者は誰も彼も罪のあがないを受けず、永遠の滅びへまっさかさまです。トンデモない、いかさまです。しかし、騙される人が後を断ちません。
6.そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。
さて、話は前後するようですが、このミカによって預言される時代、神もどきが活躍する時代とは、いつの時代のことでしょうか?この箇所がその答えだと思われます。それは、王がいない時代のことです。この士師記の時代にも王はいませんでしたが、しかし、それは、また未来の王のいない時代、王殺し、王追い出しのために、王座が空白となる時代の預言です。
以下のラオデキヤの時代、王なるキリストが家の外、教会の外に追い出される時代が、その具体的な成就の時と思われます。
参照 黙示録3:20
20.「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
次を見ます。
7.ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。
8.その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、
さて、ここでユダのベツレヘム出身のレビ人が登場します。彼は、レビ人です。聖書的に言うなら、神により、任命された部族の人間です。祭司としての資格には問題ありません。
その彼が滞在する場所を求めていました。今で言えば、牧師が奉仕先の教会を求めていたというところでしょうか。そして、ミカ、神もどきの教会まで来てしまった、そのことが書かれているのです。
9.ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」
ですから、ここで言われていることは、単にカトリックが、ミカ、神もどきの偽りのとりことなっていると言うのではなく、ユダ、プロテスタントもミカの偽りに巻き込まれていくと言うことです。彼はユダの出身です。ユダは、かつてみたように、今で言うなら、新約のプロテスタントの予表と思われます。
「ベツレヘム」ということばの意味合いは、パンの家という意味があります。パン、御言葉、教理もこの盗まれた銀、偽りのあがないを支持するものになっていく、そう理解できます。たしかに今のキリスト教会では、あがないの教理がひっくりかえされつつあります。あまり地獄など言われなくなり、救いなど、あまりありがたいものではないようになりつつあります。
10.そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。
さて、ここで、ミカ、神のような、神もどき、実は神ならぬ者が、自分のためにレビ人を雇い、彼に銀を与えたことが書かれています。
いかにも私家製の宮であるミカの宮も本格的な様相を帯びてきました。なぜなら、本物のレビ人が登場したからです。このレビ人は毎年、ミカから銀十枚をもらったのです。繰り返すようですが、銀は買い取ることと関係しており、あがないと関係しているのです。そして、ここでは、ミカ、神ならぬ者の銀、あがないがこのレビ人に与えられたのです。
具体的には、教会に真の神からのものではない、神ならぬ者のあがないの教えが広まることの予表と思われます。煉獄の教え、セカンドチャンスに似たこの怪しい教えなども、この神ならぬもの、聖書ならぬ教えの最たるものです。
さて、この本物のレビ人が登場することにより、この私家版だった、ミカの家の宮もそれらしい、本物に似たものとなっていきました。今のキリスト教会、カトリックなどもこれと同じ状況です。枢機卿だの神父だの、本物のレビ人らしき人々はいますが、しかし、その教えは、ミカ、神ならぬ者から来た教えです。
マザー・テレサはそのボランティア精神はともかく、救いやあがないに関しては、全くの異端教理を信じる異端者です。多元主義、すなわち救いはキリストのみとは信じていない人なのです。しかし、そのおかしな救い教理は、カトリックのレビ人である、神父たちを通して推賞されています。
11.このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。
12.ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。
13.そこで、ミカは言った。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」
ミカはこのレビ人を任命し、その結果、レビ人は、ミカ、すなわち神に似ているが、実際は神と異なる家で奉仕し、礼拝を行ったのです。
さて、まとめますが、ここでは、ミカ、神に似ているが非である、家で盗まれた銀による彫像、鋳造が本物のレビ人により、礼拝されたことが書かれています。しかもこのミカの像は、後にシロの神の宮、すなわちイスラエル全体の神の宮にまで持ち込まれます。
ここでは、明らかに盗まれた銀、本物ではないあがないがイスラエル全体に影響を及ぼすことに関して述べられていると理解できます。この話は古い話、旧約の話であるにとどまらず、今のキリスト教会への警告です。今の時代、このミカの盗まれた銀、偽りのあがない、似てもって非なるあがないは、キリスト教会に蔓延しているのです。しかし、たとえ蔓延しようとしまいと、偽物は偽物であり、効力はありません。いくら一万円札を持っていても偽札では、買い物ができないように、偽のあがないは神の前に無効です。永遠の命を得ることはできないのです。この明白な結論を覚えておきましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-