サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第47章  つの陣営に分ける 

 

~世俗化したカトリックとの統一「エキュメニカル」運動は、神の御心ではない~ 

 

【テキスト】創世記32:612

6.使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

7.そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、

8.「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。

9.そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。

10.私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。

11.どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。

12.あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」

 

 

本日は「つの陣営に分ける」という題でメッセージします。

 

テキストに沿って見ます。

 

6.使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

 

この状況はどういう状況かと言うと、ヤコブがもう20年以上も会わなかった兄エサウと再会するという場面です。再会するなら、懐かしいだろうと思うかも知れませんが、そういう状況ではありません。そもそもヤコブは兄エサウの顔を恐れて、遠く叔父ラバンのもとに身を寄せていたのです。なぜなら、兄エサウは弟ヤコブに恨みを持ち、殺そうとしたからです。

 

さて、兄エサウは聖書的に見て、特別な意味合いがあります。新約聖書では、以下のようにエサウを描写しているからです。

 

参照 ヘブル人への手紙12:16,17

16.また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

17.あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

 

エサウは俗悪な者であり、それゆえ、結局は自分のものであった、長子の権利を売ってしまうのです。売るとは買い取ると反対のことばであり、あがないと反対の言葉です。尊いあがないを失う人々のことかも知れません。

 

7.そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、

8.「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。

 

さて、そのエサウの攻撃がヤコブのところに訪れるかもしれません。それで、ヤコブは彼の陣営を2つに分けました。このことは、語りかけのある事柄です。なぜなら、ヤコブはイスラエルのことであり、それは、また、イスラエル12部族を指す総称でもあるからです。すなわち、ここでは、イスラエル12部族が、なぜ、2つの国に分かれたのか、その理由を書いてあると理解できるのです。

 

聖書を読む人には分かるように、イスラエルは、その後、2つの国に分かれます。すなわち、北のイスラエル国と南のユダ国です。

 

そのように分かれた時は、人間的に言うなら、ソロモンの子、レハベアムの時の時代です。彼の横暴に怒った人々は、ヤロベアムのもとへ向かい、結果、イスラエルは2つの国に分かれたのです。しかし、その裏には、神の方法、意図があり、その神側の理由に関して、この箇所には書かれている、そう理解できるのです。

 

その理由とは、それは、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」ということばなのです。

 

エサウが撃つと言うこと、そのことの意味合いは、エサウが俗悪な者、長子の特権を売り渡す者であることを知ると理解できます。

 

エサウが撃つ、それは、聖であるべき神の民が俗的なものとなる、結果、その受けるべき神の祝福、長子の特権を失う、その事柄と思えます。

 

さて、さらにこのことば、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」とのことばは、旧約の神の民の間に成就したかどうかを考えて見ましょう。

 

歴史を振り返るなら、このことは、たしかに成就したことを私たちは見ます。北イスラエルは、代々の王の下で、反逆と不信と俗化に入ります。バアル、アシェラ崇拝が大きな位置を占めるのです。しかし、一方のユダには、神の目が注がれ、ヒゼキヤ、ヨシュアという信仰的な王の下で、民は正しく主に仕えていきました。

 

まことに、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言ったヤコブの判断は正しく、また、的確だったのです。彼が群れを2つに分けたゆえ、たとい1つの群れが「エサウ=俗化」に撃たれても、他の群れを助けることには、成功しました。ヤコブの方法は正しかったのです。

 

もし、神が群れを2つに分けなかったら、このイスラエル、神の民全体が堕落し、全てが長子の特権を失う可能性があったのです。ですから、こう言えます。神の民を2つの群れに分けることは、神から出たことであり、このことにより、2つの群れのうち、1つは堕落、俗化から守られるのです。繰り返します。このことは神から出たことなのです。

 

さて、このことは、また、新約のイスラエル、教会のクリスチャンにも通じることだということを覚えましょう。

 

なぜ、新約のイスラエル、教会はある日を境に、2つに区分されてしまったのでしょう?2つの区分?すなわち、カトリック、プロテスタントと神の群れは2つに分かれたのです。その理由を色々な人が色々言います。カトリックは唯一の正しい教会は自分のところだけであり、分かれていったプロテスタントは異端だとびっくりするようなことを言います。しかし、それは、盲人のたわごとです。

 

本当の分裂の原因、それはこうです。この分裂は、実は神から出たものであり、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」とのことばを成就するためです。新約の神の民の一つであるカトリックは、全くエサウに撃たれ、完全にこの世に飲まれたもの、世俗的なものとなってしまいました。

 

ローマ法皇は金ピカの服を着て、何やら敬虔そうなふりをしていますが、それは形だけです。実際は、白く塗られた墓、外見は良くてもその内側はあらゆる汚れたものが満ちています。今さら言うまでもありませんが、カトリックはこの世の教えに過ぎず、その神父たちも不品行のスキャンダルを大いに起こしています。アメリカでは、そのスキャンダルの賠償金支払いのため、破産する教区まで出ているとのことです。このような情けない状態に陥らないために、プロテスタントは俗世にまみれたカトリックを離れ、群れを分けたのです。

 

なぜ、カトリックとプロテスタントは分裂し、新約の神の民は2つに分かれたのか?それは、神から出たことであり、片方の群れ、カトリックがエサウ化、俗化し、この世と全く迎合し、埋没しても、それに巻き込まれないためにプロテスタントは分かれたのです。

 

さて、このことが分かると、あの論議、エキュメニカルは是か否かという質問にも明白な答えが出ます。答えは神が分けたものを、人の力で無理に再度統一させるべきでないということになります。エキュメニカル、統一などは全く神の御心と反しているのです。

 

他の聖書の箇所に、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とありますが、プロテスタントが再度、カトリックと一致することは、このことばの再現であることを知りましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-