サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第53章 お取次ぎは非聖書的 

 

~カトリックのマリヤ崇拝についてみていく~ 

 

【テキスト】ヨハネの福音書16:2327

23.その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

24.あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

25.これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

26.その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。

27.それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。

 

 

 

日は、「お取次ぎは非聖書的」という題でメッセージしたいと思います。

 

「お取次ぎ」とは、カトリックの用語であり、我々の神への祈りを「マリヤが取り次いでくれる」という教義です。

 

なぜ、「取り次いでくれるか」と言うと、我々はあまりに罪深くて、神に近付く資格がない、それで、心優しい聖母なるマリヤが取り次いでくれる、だから我々はマリヤへ取り次ぎのための祈りを祈らなければならないという教義なのです。

 

まったく素晴らしい教義というより、悪賢い悪霊の知恵に満ちた罠の教理です。

 

このような偽りの教理をすっかり信じ込んでしまう、その理由は、聖書を正しく読んでいない、ろくに読んでいないからです。

 

上記箇所を読むなら「お取次ぎ」などという概念は、全く聖書の御言葉と反対の教理であることが分かります。

 

主は明らかにこう言われました。

 

26.その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」

 

すなわち、「私はあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」と言われたのです。「あなたがたに代わって願ってあげる」これが、お取次ぎなのですが、イエスはそうはしないと言っているのです。

 

イエスでさえしなかったことを何で田舎娘マリヤがしなければならないのか?

 

カトリックの教えは異端教であり、その教えは、ただの田舎娘であったマリヤを神格化するために、あらゆる聖書箇所をねじ曲げて成立させたものです。

 

いわくマリヤ像を礼拝させるために、十戒を書き換え、偶像を拝むなという箇所を削除し、いわく聖書にはない、マリヤの昇天、無原罪、さらにイエスと共同のあがない主などのヨタ教理を付け加え、いわく、マリヤ崇拝を進めるために外典を付け加え、やっと、成立している、無理のある、聖書には全然根ざしていない教理を受け入れている教会なのです。

 

統一教会は、聖書と何の関係もない文鮮明を再臨のキリストと信じ、聖書を改ざんした教理を受け入れるので、異端教と呼ばれています。同じく、カトリックも聖書を改ざんして、神でもないマリヤへ祈らせているので、同じく異端教と呼ばれる筋合いのものです。

 

私は主から「しかりはしかり、否は否とせよ」と言われているので、このように身も蓋も無いようなはっきりとした言い方、書きかたをします。

 

ただキリスト教会は広いので、色々な人がいるだろうことは知っています。友好優先、融和優先、カトリックと何のトラブルもなくうまくやっていける器用な人々も多いのでしょう。

 

ただ、私に関しては、2人の主に仕えるような器用なことはできないので、今迄通り、進むこととします。

 

さて、それはともかく、上記テキストで明らかに主は「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」と言いました。いわゆる「お取次ぎ」を行うことは拒否したのです。そうではなく、直接一人一人のクリスチャンが、父なる神に求めるよう、語っているのです。

 

そしてろくに聖書を読んでいないカトリックの信者を惑わすため、堂々とサタンは、マリヤへのお取次ぎという異端教理を持ち込んだのです。

 

誰が悪いのか?もちろん、聖書にも書いていない「マリヤによるお取次ぎ」などの教理を持ち込むサタンが悪く、カトリックがおかしいのですが、しかし、カトリック信者にも罪があり、また、つけこまれる原因があったことは認めるべきです。彼らはろくに聖書を読まず、「ことばは神である」といわれた方のことばをろくに尊重しません。

 

結果、このような単純至極、間違いようのない詐欺、ひっかかりそうにない嘘、子供でも騙されないような惑わしにひっかかるのです。情けないことです。サタンがマリヤ崇拝を持ち込んだのは意味のないことではなく、初めから人殺しであると言われたサタンにとって、意味のあることです。

 

それは、このマリヤ崇拝、イエスへ祈らせないことにより、救い(イエス)は、カトリックの信者から去り、永遠の命は彼らから去るからです。

 

惑わしに入らず、しかし、堅くこの方に留まるものに御心があります。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-