サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第56章 悪霊に仕える

 

~仏式葬式やマリヤ礼拝などを通し、偶像崇拝についてみていく~

 

【テキスト】Ⅰコリント人への手紙10:1422

14.ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

15.私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。

16.私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

17.パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

18.肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。

19.私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

20.いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

21.あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

22.それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

 

本日は「悪霊に仕える」という題でメッセージをしたいと思います。

 

クリスチャンは、仏壇を拝むべきか、仏式の式に加わるべきか、偶像を拝むべきか、という事柄に
関して述べたいと思います。

 

テキストに沿ってみていきます。

 

14.ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

 

パウロは新約のクリスチャンに対して偶像礼拝を避けるよう述べています。ですから、偶像礼拝は、旧約の人々の問題であるのみならず、新約の我々クリスチャンにとっても警戒すべき事柄なのです。

 

15.私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。

 

「賢い」ということばが聖書に使われている時は、たとえや謎が使われていることが多いです。ですから、ここでも言外の意味合い、謎の意味合いもみていきたいと思うのです。

 

16.私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

 

聖餐の時、盃を受けるということは、キリストの血にあずかること、そして、それはたとえであり、聖霊にあずかることなのです。また、聖餐の時、パンを受けることは、キリストの体にあずかり、キリストの教会の一部となることなのです。

 

17.パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 

パンを食べるということは、からだなる教会にあずかることだと書かれています。

 

18.肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。

 

旧約のイスラエルにおいても、神への供え物を食べるものは祭壇と関係し、祭壇にあずかるようになるのです。それは、新約の聖餐と同じです。

 

19.私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

 

ここでパウロが言っていることは、重要だと思います。よく理解してください。彼は偶像に捧げた肉自体が特別だとか、また、偶像自身が何か特別なものだとは言っていないのです。

 

日本人向けに言うなら、仏壇そのものが特別なものだと言っているのでは、ないのです。それ自身は業者によって造られた木の壇に過ぎません。また、お供えも普通のスーパーで買ってきたものかもしれません。物質的には、どれほどの意味もありません。しかし、それなら、仏壇を拝んでいいかと言うと、そうではありません。霊的な問題、非常に深刻な問題があるからです。

 

20.いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 

パウロは、仏壇や偶像にささげたものは、実は悪霊にささげられていると言っているのです。ですから、私たちクリスチャンは、聖書に沿って、正しく正しく物事を理解しなければなりません。

 

未信者である親や親族が葬式だから法事だからといって、我々に仏壇に向かってささげものをさせたり、また、拝むことを勧める時があります。その時、それを勧める人はしきたりだから、親のためだから、単なる習慣なのだからクリスチャンだといって、目くじらを立てるべきでないと言うかもしれません。

 

しかし、我々は人間的な視点ではなく、神や聖書の視点でこのことを考えるべきです。それは、パウロのことばどおり、悪霊にささげられるおじぎ(礼拝)であり、悪霊にささげられる食べ物なのです。そして、仏壇を拝むつもりで、悪霊を拝む人は当然、悪霊の影響を受けるようになります。また、仏壇にささげられたものを飲み食いする者は、当然、聖餐式を受けたクリスチャンがキリストと交わるように悪霊と交わるようになるのです。

 

そして、悪霊は、大いに自分を拝んでもらいたいので、あらゆる人間関係を使い、からめ手で我々クリスチャンを仏壇や偶像を拝ませようとするのです。

 

私たちの義理人情、親子、兄弟、親族の縁にからめて、私たちに仏式の葬儀に出させたり、仏壇を拝むよう、人々が強制しないでしょうか?それは、はっきり言って、悪霊の誘いなのです。

 

「私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」

 

ですから、我々ははっきりさせなければなりません。仏壇やら偶像を拝む、仏式の法事に出るという時、問題の核心は、我々が悪霊との交わりを持つのが正しいかどうかという一点なのです。答えは、はっきりしており、パウロの言うように主は我々に悪霊と交わるものとなって欲しくないのです。

 

仏教式の法事に出る、はたまた仏壇を拝むという時、はたまた、それ以外の偶像的な事柄を考えるとき、はっきりとこのことを知らなければなりません。それは、上記パウロの言うように、悪霊はあらゆる仕方、方法をもって、我々クリスチャンに礼拝を強制しようとしてしているのです。それを理解しなければなりません。あわよくば、我々クリスチャンを悪霊礼拝に引き込むべく、我々の未信者の家族、親族等を用いて強制しようとしているのです。このことをまず理解しなければなりません。

 

振り込め詐欺を持ちかける人は何とかして、人を騙そうとして、あらゆる方法で騙します。息子や旦那の名前まで語って騙します。

 

彼らはまず、何とかして、大金を振り込ませたいという目的にそって、色々話を画策するのです。同じく、パウロの言うように、この世には、何とかしてクリスチャンをも悪霊崇拝、礼拝に引き込ませたいという勢力、霊がいることを知るべきです。そして、我々をからめ手で、また、義理人情に訴えて、何とか礼拝させようとするのです。このことを理解しなければなりません。

 

具体的には、私たちは葬式や法事にどう関わればいいのでしょうか?私はクリスチャンの家に育ち、親戚もみな、キリスト教系です。だから、あまり適切な助言はできないのですが、原則のみ、述べます。参考にしてください。個々のことは、それぞれで判断してください。

 

パウロの言うように、キリストではない他の偶像、仏壇、祭壇には、みなキリスト以外の霊、悪霊が働いています。ですから、なるべく法事、仏式葬式等は出ない方がよいでしょうし、また自分はクリスチャンなので、出たくない、そのように前もって明言した方がよいでしょう。

 

それでもどうしても義理で出なければならない、葬式等はどうするのか?そうですね、もし、義理で出席してもなるべく短時間で、そして、焼香等の宗教的な事柄は行わない方がよいでしょう。私もそうしています。ある時、私の友人が亡くなりました。彼は、最後にキリストを受け入れたのですが、残念ながら、葬式は仏教でした。私は出席し、焼香の番が回ってきたのですが、どうしてもする気にはなれず、一言、彼の遺影の前で心で祈って帰ってきました。彼の奥さんが、私がクリスチャンであることを知っているので、(焼香をしなくて)「いいですよ」とその時、声をかけてくれたのが印象的でした。

 

ケースは色々あるでしょうが、我々は悪霊の儀式に加わったり、偶像、仏壇を拝み、悪霊を拝むべきでないという一点を正しく知っていれば、ケースバイケースで主が助けてくださるでしょう。

 

21.あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

 

さて、私は今迄、この日本の宗教的なこととからめて、この箇所、偶像を拝むということを考えてきました。このことは大事なのですが、今の時代、終わりの時代のクリスチャンにとって、さらに大事なことをみていきたいと思います。

 

それは、教会の中にこの偶像崇拝が侵入するということです。たとえば、カトリックがマリヤの像を造り、皆で拝する、これは明らかに偶像崇拝なのです。そして、偶像である以上、悪霊が働くのです。

 

その証拠に、よくマリヤ像は、血の涙を流したりします。また、マリヤの予言なるものをよく聞きますが、たいていの場合、外れます。なぜ、外れるのか?それは、神からではなく、悪霊から来たものだからです。

 

カトリックの人々は、マリヤの像を拝む時、自分たちはキリストに喜ばれることをしていると錯覚しているのでしょうが、実際は悪霊を拝んでいるのであり、神に忌み嫌われることをしているのです。結果、おかしな幻を見たり、信仰や精神に変調を来たします。

 

21.あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。

 

主の杯と悪霊の杯とは両立しません。ですから、イエスの霊とアリヤからの霊との間には大きな相違があり、それは両立しないのです。イエスの霊に触れる人は、聖霊の喜びに触れるでしょうが、悪霊アリヤからの霊には、ろくなことがありません。

 

だから、二つの杯を飲むということは両立しないのです。悪霊マリヤの杯を飲む人々は、善も悪も区別がなくなり、「聖書にも間違いがある」なんていう愚かなことを平気で口に出すようになります。

 

22.それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

 

仏壇を拝む、拝まないという時、問題は、私たちが先祖を敬っているかどうか、また親子、親戚への情に厚いかどうかの問題ではありません。そうではなく、私たちが悪霊を拝み、主のねたみを引き起こそうとするのか、そうでないかの問題です。

 

仏壇を拝むこと、また、仏式の儀式に誘う人は色々なことばを述べるでしょうが、聖書的な視点はただ一つ、我々が悪霊を拝み、主のねたみを引き起こそうとするのか、否かの問題だけです。牧師としての答えは、当然、悪霊を拝むな、主のねたみを引き起すなということになります。

 

惑わされてはいけません、クリスチャンたるもの、悪霊礼拝につながり、主のねたみを引き起こすべきではありません。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-