サマリヤの女

 

 カトリックへの警告!!

 

第6章 糞を食らい、尿を飲む 

 

~終末の時代に人々は、本来の命のパンでなく、糞を食らう~ 

 

【テキスト】Ⅱ列王記18:2632

26.ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」

27.すると、ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」

28.こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、語って言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。

29.王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。30.ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。

31.ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。32.その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。それはおまえたちが生きながらえて死なないためである。

 

本日は「糞を食らい、尿を飲む」という題でメッセージしたいと思います。

 

「糞を食らい、尿を飲む」とは何とも下品な題で恐縮なのですが、しかし、たしかに聖書で用いられている表現なので、このことばを通して聖書が語っていることを見ていきたいと思うのです。

 

このことばはエルサレムを占領に来たアッシリヤのラブ・シャケが語ったことばです。彼は「彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」と呼ばわっています。

 

 

            (ヒルキヤの3人の子たちとラブ・シャケ)

 

 

聖書はこのことばを通して何を語っているのでしょうか?ここで「食らい、飲む」という表現が使われています。さて、同じテキストにはやはりこの表現が使用されている箇所があります。

 

31.おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。

32.そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。

 

これらの中には食べる、飲むと関連して以下の食物、飲み物が記されています。

 

食べる:ぶどう、いちじく、穀物、パン、オリーブ、蜜

飲む:井戸の水、ぶどう酒

 

食べるものとして、パン、穀物、飲むものとして、ぶどう酒が記されていることが分かります。

 

これらは新約の聖餐式、すなわちいのちのパン(御言葉)を食べること、また主のぶどう酒(聖霊)を飲むことと関連しています。実は聖書の中で食べる、飲むという表現が使用される時、いつも同じことを語っています。ですからこのことが分かると、以下の表現の意味が分かってきます。

 

参照 ルカの福音書13:26

26.すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

 

彼らは主の聖餐に預かったものであり、クリスチャンなのです。

 

 

               (聖餐式のパンとぶどう酒)

 

 

糞はパンに対比し、尿はぶどう酒に対比しています。ですからクリスチャンは主のパン(御言葉)を食べ、ぶどう酒(聖霊)を受けるものです。しかし、もし私たちが主の御言葉をあざけり、聖霊を退ける時、私たちはパン、ぶどう酒ならぬ、それこそ、「糞を食らい、尿を飲む」ようになるのです。

 

 

                           (パンは“御言葉”のたとえ)

 

 

 

                 (ぶどう酒は“聖霊”のたとえ)

 

 

ラブ・シャケはこのように言っています。

 

33.国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。

34.ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。

 

 

サマリヤはイスラエルの主都であり、彼らはアッシリヤに占領されました。その結果、彼らも「糞を食らい、尿を飲む」ようになったのではないでしょうか。北イスラエルの歴史はローマ・カトリックの歴史の予表ではないかと私は思っています。もしそうなら、この箇所は、カトリックの人々も「糞を食らい、尿を飲む」ようになることを語っているのでしょう。たしかにそうかもしれません。私はあるカトリックの教会の説教で、マタイ13章の毒麦のたとえと関連して、「地獄はない」と語られたと人づてに聞きました。このようなメッセージを「いのちのパン」とはとても言えません。それこそ、彼らは「糞を食らって」いるのではないでしょうか?また、カリスマ派の人々がトロント・ブレッシングに酔いしれている時、彼らは聖霊のぶどう酒ならぬ、「尿を飲んで」いるのではないでしょうか?

 

                      (トロント・ブレッシング)

 

 

この終末の時代、敵に騙されることなく、真の命のパンを受け、聖霊のぶどう酒を受けていきたいと思います。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-