サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第63章 血にはいのちがある

 

~私たちのクリスチャン人生は、その内側の血、すなわち霊がどのようなものかで決まる~

 

【テキスト】レビ記17:1016

10.また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。

11.なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

12.それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。』

13.イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。

14.すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』

15.自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。

16.もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。」

 

本日は、「血にはいのちがある」という題でメッセージしたいと思います。テキストに沿ってみていきます。

 

10.また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。

 

ここでは、血について書いてあります。血は霊的な事柄に通じます。神の民はどんな血、どんな霊であっても、神の霊以外の霊と関わりを持つことを禁じられているのです。ですから私たちは占い、手相、家相、口寄せ、霊媒などあらゆる霊との関わりを断つべきです。

 

11.なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

 

なぜ、血を食べる、他の霊を受けることを禁じるかと言うと、それは、私たちの肉のいのちは、その受けている血、霊の中にあるからなのです。要するに我々が毎週の聖餐式で受ける血、ぶどう酒で象徴される聖霊こそ、我々のいのちのもとだからなのです。

 

肉のいのちは血にある、この原則は、正しく正しく知らなければなりません。私たちは、よく元気になるとかならないとか言いますが、落ち込んだ時、元気になるには、どうすればよいのでしょうか?

 

腹が減っているのだろうから、もっと飯を食べる?カツ丼とか、ラーメンとか?それとも「寅さん」の映画でも見に行けば、元気になるのか?恋人でもできれば?

 

色々あるかも知れませんが、聖書はこのことに関して、肉のいのち、すなわち私たちの肉体や心や感情に命が与えられ、要するに元気になることに関連して、血にいのちがある、すなわち聖霊にこそ、その元気や命、力の源があることを語ります。

 

ですから私たちが弱ったり、落ち込んだり、心がなえてしまったり、信仰が失せてしまった時、それは血の問題、すなわち霊の問題であることを知りましょう。正しい解決方法は、キリストの血、聖霊を受けることです。具体的には祈ることです。何時間でも何日でも祈っていく中で徐々に血が与えられ、命が与えられてくるでしょう。

 

何分か祈るなんて言う人がいるかもしれませんが、それはないよりはマシ程度で、根本的な解決にはならないと思います。テレビには何時間か割けるけど、祈りにはせいぜい5分しか割けない、なんていうことでは、主の弟子としてどうでしょうか。

 

12.それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。』

 

血液はその人の生命の根本的な部分です。事実血液の1/3を失うと、生命の危険があるようです。同じく血、霊は、その人の肉、肉体、心、精神、感情のもっとも根本的な部分に、もっとも影響を与えるものなのです。いわば、これで全てが決まると言えるのです。もっとはっきり言えば、私たちがどんな霊を受けるかどうかで、私たちのいのちも心も歩みも感情も思考も、決断も全然異なってくるのです。

 

どんな霊でもそれが神以外の霊なら、たちどころにその人は根本的な影響を与えます。であるからこそ、「あなたがたはだれも血を食べてはならない」、すなわちどんな霊をも受けてはいけないことを語っているのです。

 

13.イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。

14.すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』

 

「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」ことが書かれています。ですから、私たちがどんな霊を受けているかが、私たちの命の根本問題なのです。カトリックのマリヤの霊を始めとしたおかしな霊を受けている人はまったくおかしな人になってしまいます。

 

どんなによい学歴があり、良い教育を受け、マナーがあってもおかしな霊を受けると、その霊のいうように、おかしな歩みに入っていってしまうのです。

 

「それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。」

 

その人が血を食べるなら、イスラエルの民の間から断ち切られることが書かれています。

 

新約の言い方をするなら、おかしな霊を受けるなら、クリスチャンから断たれる、すなわち、その人はクリスチャンとは見なされない、神の子とは見なされなくなるということを言っているのです。

 

このことは、正しく正しく考えるべきです。血を流す涙を流すマリヤの霊を受けるなら、その人は、もう民の間から断たれる、すなわち神の前には、もうクリスチャンとは見なされなくなると、この箇所は語っているのです。

 

また、ベニー・ヒンを始めとしたおかしな霊を受けているなら、そんな聖会に参加し続けるなら、結局は民の間から断ち切られる、すなわちクリスチャンとは見なされないことを、この箇所は語っているのです。

 

15.自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。

16.もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。」

 

死んだもの、また裂き殺されたもの、これらに触れる、すなわちその血に触れるなら、その時は水を浴びることが書かれています。水は聖霊のたとえであり、聖霊によって、おかしな霊の影響から免れることが描かれているのです。

 

まとめますが、聖書は明らかに肉のいのちは血にあることを語っています。それは、肉体的な現実ですが、また、霊的な真理でもあります。

 

私たちのクリスチャン人生は、その内側の血、すなわち霊がどのようなものかで決まるのです。聖霊を受け、清い力強い聖霊を受けるなら、その人は強められ、おかしな霊を受ける人は、おかしな人となり弱っていきます。

 

内側の血、霊、それこそがいのちの源泉であることを知りましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-