サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第64章 その道を通らない
~プロテスタントからカトリックへ至る道を通ることは禁じられており、死をもって罰せられる道である~
【テキスト】Ⅰ列王記13:1-10
1.ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
2.すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」
3.その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
4.ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
5.神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
6.そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。
7.王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」
8.すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。
9.主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。
10.こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。
本日は「その道を通らない」として、メッセージしたいと思います。
1.ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
ヤロブアムとは誰かと言うと、2つに分裂した神の民のうち、北イスラエルの最初の王です。北イスラエルは、私の理解によれば、新約のカトリックの予表です。
ですから本日の箇所は、カトリックが神の前にどういう教会なのか、その神の前における本質について書いた箇所なのです。
「ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。」
ここでは、北イスラエル、すなわちカトリックのことと共に、ユダ、すなわちプロテスタントからの神の人についても書かれています。ですからここで扱っている主題の一つは、プロテスタントは、カトリックをどう見なすべきか、カトリックについて、どういう態度で接すべきかという問題なのです。結論から言うなら、ここでは、パンも食べるな、水も飲むな、また、その道を通って帰るなと言うように、カトリックの教え、霊を受けるべきでないことが語られているのです。
2.すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」
さて、このユダからの神の人は、まだ、国になって間もないイスラエルの国、また、新しくできた祭壇に関して、とんでもない不吉なことを預言しました。すなわちこの祭壇で、祭司自身が焼かれること、人の骨がこの上で焼かれることを預言したのです。牛でも羊でもなく、生きた人、また、人の骨が焼かれることが預言されたのです。
当たり前のことですが、どんな聖書のことばも意味があります。この不吉な預言にも意味がありますので、このことを考えてみましょう。
これは、北イスラエルの最初の王、ヤロブアムの時のことですから、いわば、これから始まる北イスラエルの長い王朝の本質を最初に語ったと理解できます。たとえの理解としては、カトリックのその歴史の始めに、そのもっとも本質的なことに関して神は預言した、そうとも理解できます。
そして、その本質とは何かと言うと、この祭壇で祭司が焼かれる、人の骨が焼かれる、という何とも気味の悪い、恐ろしい預言なのです。
人間的にはあまり楽しいことばではありませんが、他でもない、神からのことばですので、私たちは真面目にこのことを考えてみたいと思います。
普通、祭壇で焼かれるのは羊や牛です。それらが全焼のいえにえとして捧げられ、その結果、我らの罪が許される、祭壇とは本来、そのように民にとって祝福の場所なのです。これが基本、原則です。
しかし、このイスラエル、ベテルの祭壇では、あろうことか、祭司自身が焼かれる、人の骨が焼かれるのです。人の命をあがなったり、助けたり、命を与える祭壇ではなく、人の命を奪い、仕える祭司の命を奪う祭壇、それが北イスラエルの祭壇であることが分かるのです。そしてそれは、カトリックの祭壇、奉仕、勤めの本質について語るものなのです。
カトリックで祭司となること、神に仕えようとすること、それは恐るべき結果をその祭司に与える、何と祭司自身が焼かれる、具体的にはおかしな霊で焼かれていく、そのことをこの箇所はたとえで語っているのです。
3.その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
さて、ここでユダからの神の人は主のしるしとして、祭壇が裂けること、灰がこぼれることを語りました。
このことの意味合いは何でしょうか。祭壇が裂ければ、祭壇として用いることができません。また、灰がこぼれれば、あたりを散らかして、被害を起こします。灰は火の燃えかすとして、火、霊に関する災いを述べると思われます。ですから旧約の神の民の一つ、北イスラエル、その神に仕える祭壇は、祝福どころか、被害や災いとなってしまうことをここでは見るのです。このことは、現在の新約の神の民、カトリックの礼拝、祭壇が祝福というより、仕える人にとって、災いの場所となっていることを預言しています。
4.ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
5.神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
6.そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。
このユダからの神の人をとらえようと、ヤロブアムは手を延ばしましたが、その手はしなびて元に戻すことができなくなりました。神がこうされたからなのです。ですから神の前には、ここで言うユダからの神の人のことばが正しく、この北イスラエルの祭壇が、呪いと災いの下にあると語ることが、神の前には正しいのです。同じく、今のカトリックの信仰、祭壇、礼拝の方法は神の祝福の下でなく、呪いの下にあると語ることこそ正しいのです。
7.王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」
8.すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。
9.主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。
10.こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。
このユダからの神の人は、神から、「ここでは、パンを食べてはならない。水も飲んではならない。」と語られていました。このことの意味合いは何でしょう?パンは、みことば、教理に関するたとえです。ですから、神は明らかに北イスラエルの地のパン、今で言うなら、カトリックのパン、教え、メッセージを食べる、受けることを禁じています。ろくでもない教えなので、こんな教えを受けるなと語っているのです。
マリヤは無原罪だとか、マリヤはキリストと共同のあがない主だとか、はたまた地獄は存在しない、煉獄などの教えは、どれもこれも聖書と無縁の冒涜教理であり、いわば毒入りのパンみたいなものです。毒パンを食べると御臨終になるように、こんな教理を食べたり、受けたりしている人々はいずれ、永遠の命を失います。だから、ここでのパンを食べないよう、ユダからの神の人に命じられているのです。ユダは今のプロテスタントの予表であり、すなわちプロテスタントは、カトリックのパン、教えを受けてはいけないことが語られているのです。
「水を飲んではならない」
水は、霊的なことのたとえです。ですからここでは、北イスラエルの水、霊を受けてはいけないことが、ユダからの神の人に語られているのです。新約的に言うなら、カトリックの霊を受けてはいけないことが、プロテスタントに対して語られているのです。ですから、血の涙を流すマリヤ像やら、ミステリー、不思議な現象に引かれてプロテスタントは、カトリックに行くべきではありません。この教会の霊に関して、神は明らかにその水を「飲むな」と命じているからです。
「もと来た道を通って帰ってはならない。」
このユダから北イスラエルへ道を通って来た神の人に対して、その道を通ってはいけないことが言われています。
このことの意味合いは?それは明らかに、プロテスタントからカトリックへ至る道には御心がなく、それを通るべきでないとの意味合いです。
ですから、このおかしな教会に賛同し、エキュメニカルを標榜し、この教会を宣伝するような人々はみな、この教え、「もと来た道を通って帰ってはならない。」との教えに反したことを語っていることを知りましょう。マザー・テレサがすばらしい、とかローマ法皇はすばらしい、とか言っている人々です。
この道、プロテスタントから、カトリックへ至る道を通ることは禁じられており、死をもって罰せられる道であること、このことを知りましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-