サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第1章 預言者の権威
~聖書の中で定められている 預言者の権威について~
【テキスト】マタイ21:23-27
23 それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。
(イエスのみもとに集まって来た祭司長や長老たち)
権威と服従に関して示されていること
◆ルターは何の権威により語ったのか◆
以前から一つ疑問に思っていることがありました。それは、ルターは何の権威によってローマ法皇に反する言葉を語ったのかということです。別の言い方をすると、ルターは権威と秩序という面で罪を犯してはいないのかどうかという疑問です。ルターは当時のローマ教会の問題を正しく認識し、教会への質問書を作成しました。それにより偉大な宗教改革のわざが始まったのです。彼の働き、貢献の偉大さは改めて言う必要もありません。もし彼があえて教会の間違いを正さず口をつぐんでいたなら、今でも私たちはローマ・カトリックの間違った教理の中にいたかもしれないのです。彼の業績は偉大です。しかし私が問題にしたいのは、彼が偉大なのか?あるいは間違っていたのか?ということではなく、彼は教会の権威に従っていたのか、それとも権威を侵してしまったのか?ということです。彼はこの点で罪を犯したのではないでしょうか。
(宗教改革の創始者 マルチン・ルター)
なぜならその当時、教会はローマカソリック教会しかなく、そのローマカソリックの権威の頂点は法皇だったからです。たとえ法皇が間違えていたとしても、神によらない権威は無いので聞き従うべきだったのではないでしょうか。ルターはたしか修道僧だったはずなので、当然法皇の権威の下にあったはずです。それなのにこのように法皇の語る教え、方針、方法と違ったことを公然と唱えてよいものなのでしょうか。どちらが正しいのか、間違っていたのかと言うなら私たちは皆、ルターが正しいことを知っています。しかし彼は教会に建てられている権威の流れに従ったのでしょうか。プロテスタント(反対する者)などという名前を付けられた人たちは権威に従ったと言えるのでしょうか。
彼はローマ教会の語っている教理と全く正反対のことを声高に語ったのですから、教会の権威に従ったようには思えません。それでは彼はこの面で罪を犯したのでしょうか。もしこの面で罪を犯していないと言うなら、どの御言葉が彼を弁護しているのでしょうか。これが私の疑問だったのです。
このことを考えていた時、ある日聖書を読んでいて分かったことがあります。それは「預言者の権威」ということです。パリサイ人がイエスに同じような質問をしている箇所があります。テキスト参照。
「何の権威によってこれらのことをしているのですか。誰があなたに権威を授けたのですか。」
彼らにはイエスが神の民の権威と秩序を乱す者、神の権威の代表権威である祭司、神のことばをあずかるパリサイ人、律法学者の権威を侵す者であると思えたのです。イエスは会堂の権威者である彼らと全く違うことを言っていたからです。それに対してイエスの与えた答えは興味深いものです。「ヨハネのバプテスマはどこから来たのですか。天からですか。それとも人からですか。」と言うように預言者であるバプテスマのヨハネに関して、そして彼の権威に関して言及しています。
(イエス・キリストにバプテスマを施すバプテスマのヨハネ)
聖書の中ではそれぞれのシーンでイエスの多くの異なる面について語られています。例えばヨハネ3章でニコデモと新生について語られた時、聖書はイエスの「教師」という面について語っています。それはさりげなく書かれている次のようなことばにより分かります。「先生、私達はあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」「あなたはイスラエルの教師でありながらこういうことがわからないのですか。」
さて「権威」という事柄に関して聖書がイエスについて語った時、例えばアロンのような祭司について、またはダビデのような王に関しては言及しませんでした。かえって預言者であるバプテスマのヨハネについて述べました。このことは象徴的です。またこのマタイ21章の構成を見ると、このイエスのことばの後、関連した例話が続きます。そして最後の節にこのように書かれています。「群衆はイエスを預言者と認めていたからである。」(マタ21:46)
私はここからこのような語りかけを受けるのです。イエスが肉体をもってこの地上におられた時、王族の一人として生まれたわけではありません。また祭司やレビ人の家に生まれ、その職業を継いだわけでもありません。人間的にはそれらの立場で来られたのではないのです。もちろんこれは人の前での話です。神の前では別です。イエスはこの地上で彼らに語られた時、預言者という権威の下で語られました。それはなぜでしょう?イエスには神の子としての権威、真の大祭司としての権威もあったのになぜその権威についてここでは語られなかったのでしょうか?
私はこう思います。それはイエスが彼の後に教会時代に遣わされる多くの預言者の模範となるためではないでしょうか。イエスは「だから私が預言者、知者、律法学者達を遣わす」(マタ24:34)と言われました。これらの人たちも同じ天からの権威の下で来るということを含んで言われたのではないかと思っています。
たとえばルターのような預言者です。彼は人からの権威の下でなく、神の権威の下で語ったのです。そして神がルターにその言葉を与え、権威を与えたので、彼のわざは神にあって成就したのです。イエスが来られた時、純粋であるべき神の民、また特にその指導者たちは大きく神の御心から外れていました。イエスはそれを正すべく神から命じられ、その通りに語ったのです。イエス個人の権威について見るなら神のひとり子であり、真の大祭司です。しかしそれはイエスのみの特別な役割です。イエスの後にも、神の民にその過ちを正すため、語るべく神によって遣わされる預言者の人々がいます。ここではその人たちによって立つ権威のことをも踏まえてイエスは語られているのではないかと思います。
聖書に書かれている権威について私は2種類の権威を見ます。一つはピラミッド形の権威です。すなわち神の民の王、そして王の下に整然と定められた千人、百人、十人の長たちです。そしてもう一つは預言者という神からの直接の権威に従う職務です。預言者の特徴は神から直接言葉をもらうことです。そこに人が介在しないのです。
旧約時代、この2つの権威はうまくバランスをとり、機能していました。イスラエルの王国の時代には良い時代も悪い時代もありました。良い王も悪い王もいました。良い王、悪い王という時、これは王個人の問題にはとどまりません。王が過ちを犯し、たとえばバアルを拝んだりすると、民全体にその過ちは及ぶのです。これは今の時代に置き換えてみても同じです。王、すなわち神の民の指導者たちが過ちを犯す時、それは全教会に及ぶのです。
(聖書で禁じられているバアル崇拝)
権威の構造がピラミッド構造である以上、どうしてもそのようになるのです。たとえばものみの塔、そしてローマカソリック教会を見て下さい。彼らの組織の統率は立派なものです。またそこで従う人たちの服従も立派です。しかし一つ問題があります。それはその王、すなわち指導者が間違った時、それを是正する方法が無いのです。もし王や指導者に何か意見すれば、権威に逆らうことになるからです。
この誤りを神はどのようにして正すのでしょう。神の方法はどのようなものでしょう。王、そして神の民の誤りを正すために神が用いた方法は預言者を遣わすことです。畏れおおくも王の面前へ出て行ってその誤りを正すとは預言者は分を超えているのではないでしょうか。権威を侵してはいないでしょうか。そうではないのです。預言者は神から直接任命されているのでそれを語る権威、資格があるのです。バプテスマのヨハネがヘロデ王の誤りを正したように、預言者は神の民そして王を正す権威を神から受けているのです。神の国の王そして民に過ちがある時、預言者を遣わし、そしてその預言者により過ちを正す、これが神の方法なのです。
(ヘロデ王の誤りを指摘するバプテスマのヨハネ)
さて私たちは今、新約の時代にいます。この旧約の原則、方法を新約の教会にも適用できるのでしょうか。私は適用できると思います。なぜなら、旧約聖書の多くのことは今の時代の私たちに教えを語るたとえだからです。イエスは「私が預言者を遣わす」と言われました。これは新約の預言です。旧約時代の預言者に相当する器を新約の時代にも送ると言われるのです。
旧約時代、エリヤやエリシャといった預言者が神の民や王の過ちを正したように、新約時代にもその働きをなす預言者を遣わすと言われるのです。たしかにこのイエスのことばは新約において成就しています。教会が間違えた時、その間違いを正すため、神は適切な器を送られました。すなわちルター、カルビン、ウエスレー等です。彼らは旧約聖書で言う預言者とは性質は異なりますが、その時代の正しい神の御心を捉え、忠実に神の民の王、すなわち指導者に告げました。その意味でたしかに預言者の働きを成しています。
「旧約時代の預言者 エリヤ(右)とエリシャ(左)」
(カルビン)
ペテロの手紙を見ると、旧約のにせ預言者は今の時代のにせ教師に相当するようです。だから今の時代には、旧約時代の預言者の働き、つまり神の民の誤りを正すという働きを教師が成すのではないかと私は思っています。
ですから私は教会における権威と秩序を考えるとき、2つのことを注意することが必要と思っています。一つはピラミッド型の権威と秩序の枠組みで、教会の中で自分が置かれた位置で権威に従うこと。自分の分をわきまえることです。そしてもう一つは神から直接与えられる預言者の権威を認めることです。多くのクリスチャンにとって最初の権威を認めることは比較的楽です。しかし難しいのは二つめの預言者の権威を認めることです。
パリサイ人たちが、「何の権威によってこれらのことをするのですが」と問いただした時、彼らはイエスの権威に疑いを持っていました。彼らの目にはイエスが神からの権威を持っているとは思えなかったのです。エレミヤにしてもミカヤにしてもそうです。人々はこれらの預言者が神からの権威で語っているとは信じませんでした。この傾向は新約の時代においても同じです。ルターにしてもカルビンにしてもウエスレーにしても、その時代の多くの人々にとっては神から遣わされた器とは必ずしも信じられていませんでした。だから彼らは大いに迫害されたのです。
(神からのことばを正しく語ったゆえに穴に投げ込まれたエレミヤ)
多くの人々にとって、神から真に遣わされた預言者の権威を正しく捉えることは難しいのです。だから私たちはこれらの失敗から教えを受けねばなりません。
一つは神がたしかに教会に預言者を遣わすということを信ずることです。神は教会の中に間違いがあった時、それを見過ごしません。それを預言者、つまり神の遣わされたしもべを通して正します。ヒゼキヤはユダ国の偉大な王です。彼は「全て父祖ダビデが行ったとおりに主の目にかなうこと」をおこなったのです。「アシェラ像を打こわしモーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた」のです。アッシリア王セナケリブが大軍をエルサレムに遣わした時も主に頼り、信仰の大勝利を得ました。しかし彼は間違いを犯しました。バビロン王が使者を遣わした時、「全ての宝庫、宝物蔵にあるすべての物」を彼らに見せたのです。その時、預言者イザヤが主から遣わされ、彼の間違いを指摘するのです。彼は神の前に例外的に正しい立派な王でした。しかし彼が正しい時に預言者が遣わされてくるのではないのです。
そうではなくて彼が問題を起こした時、それを指摘するため、時には矯正するため、預言者が遣わされるのです。預言者は堕落した教会にしか送られないと思ってはいけません。教会が10のうち9の正しいことをしている時、その正しい9のことのためでなく、残りの1つのことのため、預言者が遣わされるのです。100のうち一つしか誤りがない正しい教会であってもその一つを神が正したいと思った時、預言者が遣わされるのです。
もう一つは預言者の働きは原則として多くの人には受け入れられないものだと知ることです。
「私が先祖の時代に生きていたら預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう」と自信を持っていた律法学者、パリサイ人に対して、イエスは預言者を殺した者たちの子孫だと自分で証言していると言われました。自信を持っていても、いざ自分たちに預言者が遣わされた時、正しく対応するのは難しいようです。
預言者を預言者として認めるのは難しいのです。外国から鳴りものいりでやって来たような有名な器、例えばシンディ・ジェイコブスのような預言者なら、私たちはその言うことを全て受け入れないまでも、少なくとも耳は傾けるでしょう。しかし神が預言者を送る時、いつもそのような鳴りものいりの方法を用いるとは限りません。そうではなく神はある日、名も無いような兄弟、または姉妹を教会への神のことばを語る者として遣わすかもしれません。それを正しく見分けるのが難しいのです。
(シンディ・ジェイコブス)
話を変えて、もしある人に神から教会への預言がきたならどうすべきでしょう。答えははっきりしています。それを吟味して、たしかに神からきたものだと確信できたら語ることです。聖書が預言者について記していることは、彼らが何しろ語ったということです。歌わないカナリヤに価値が無いように、語らない預言者には何の意味もありません。もちろん全てのことを秩序をもってすべきなので、秩序を乱したり、語るのを許されていないところで語ったりすべきではありません。しかし許された範囲の中では語るべきなのです。なぜなら歌わないカナリヤはあっても、語らない預言者はありえないからです。
語ったことの結果はあまり楽しいものではないかもしれません。エレミヤやエゼキエルのように、またルター、カルビン、ウエスレーのように非難されたり迫害されたりするかもしれません。聖書に度々書かれているように、預言者の歩みは十字架を負う歩みなのです。
(神からの啓示を受ける エゼキエル)
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-