サマリヤの女

 

カトリックへの警告!!

 

第10章 捕らえ移されたイスラエル 

 

~神は旧約のイスラエルについて預言し、また、聖書の教えから免脱している今のカトリックについて預言している~

 

【テキスト】Ⅱ列王記17:541

5.アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。

6.ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフ(痛み)と、ハボル(結合する)、すなわちゴザン(切り離す)の川のほとり、メディヤの町々に住ませた。

7.こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、

8.主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。

9.イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、

10.すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、

11.主が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした。

12.主が彼らに、「このようなことをしてはならない。」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。

13.主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」

14.しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。

15.彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。

16.また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。

17.また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。

18.そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。

19.ユダもまた、彼らの神、主の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだ。

20.そこで、主はイスラエルのすべての子孫をさげすみ、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。

21.主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムは、イスラエルを主に従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。

22.イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、

23.ついに、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。

24.アッシリヤの王は、バビロン、クテ(押し込む)、アワ(滅ぼす)、ハマテ(要塞)、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、その町々に住んだ。

25.彼らがそこに住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らのうちに獅子を送られた。獅子は彼らの幾人かを殺した。

26.そこで、彼らはアッシリヤの王に報告して言った。「あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。」

27.そこで、アッシリヤの王は命じて言った。「あなたがたがそこから捕え移した祭司のひとりを、そこに連れて行きなさい。行かせて、そこに住ませ、その国の神に関するならわしを教えさせなさい。」
28.
こうして、サマリヤから捕え移された祭司のひとりが来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するかを教えた。

29.しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、サマリヤ人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分たちの住んでいる町々でそのようにした。

30.バビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クテの人々はネレガルを造り、ハマテの人々はアシマを造り、

31.アワ人はニブハズとタルタクを造り、セファルワイム人はセファルワイムの神々アデラメレクとアナメレクとに自分たちの子どもを火で焼いてささげた。

32.彼らは主を礼拝し、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行なった。

33.彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。

34.彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。

35.主は、イスラエル人と契約を結び、命じて言われた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝みこれに仕えてはならない。これにいけにえをささげてはならない。

36.大きな力と、差し伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない。

37.主があなたがたのために書きしるしたおきてと、定めと、律法と、命令をいつも守り行なわなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。

38.わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。

39.あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」

40.しかし、彼らは聞かず、先の彼らのならわしのとおりに行なった。

41.このようにして、これらの民は主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行なった。今日もそうである。

 

本日は「捕らえ移されたイスラエル」という題で、メッセージをします。

 

終末の日の神の民の背信、裁きに関して聖書は色々な表現を用いて様々な角度で語っています。その一つの表現は、彼らが「捕らえ移される」ということばです。神の民が「捕らえ移される」ことに関して見ていきたいと思います。

 

テキストに沿って、見ていきます。

 

5.アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。

 

サマリヤは北イスラエルの首都であり、「この国」とは、北イスラエルのことです。そしてこれは現在のカトリック教会の予表です。北イスラエルには、「イスラエル」の名前があり、また民の人数もユダに比べて多いです。しかし彼らはユダに比べて神の前に真実な歩みをしていません。今のカトリックも全く同じです。彼らはキリスト教会の代表的な宗派と世間で見られており、ローマ法皇にいたってはあろうことか、「カトリックの他のキリスト教各派に対する優越性」迄、主張する有様です。しかし世間の評価はともかく、神の目の前には彼らの不信は極まっています。この時、不信の北イスラエルが、その自らの不信のゆえに敵であるアッシリヤに包囲されたように、今のカトリックもあらゆる敵に囲まれています。「悪魔礼拝者」であるフリーメーソンはバチカンの多くの高位の僧達を侵食し、漏れてくる情報では、既に法皇の位置も彼らにより奪われているとのことです。多くの信者の目は盲目となり、「しるしを行う悪霊」マリヤを語る霊を拝するようになっています。彼らは悪霊を礼拝しているのです。

 

            (サマリヤへのアッシリヤの襲撃)

 

 

6.ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。

 

彼らは「アッシリヤに捕え移された」のです。この「捕らえ移される」ということを考えてみましょう。彼らが住んでいた、カナンの地は、「先祖たちのゆずりの地」であり、「神の約束の地」です。しかし、そこから彼らは異邦の地、アッシリヤへ捕らえ移されてしまいました。ここは、「先祖のゆずりの地」ではありません。今の時代に合わせて言うなら、信仰の先祖たち、神へ忠実な人々が選んだ地とは違うのです。また、ここは「神の約束の地」ではありません。すなわち今で言うなら、神が信仰の先祖たちに約束した「御国」へ至る土地ではないのです。また、この地は「乳と蜜の流れる地」ではありません。すなわち、「御言葉の乳」のあふれる土地ではなく、逆に「御言葉のききん」の地なのです。このような地へ旧約の神の民、イスラエルの名を冠らせられた北イスラエルの人々は捕らえ移されてしまいました。これは終末の神の民、「新約のイスラエルの民」である人々に関する予表です。彼らが移された地はどのような土地なのでしょう。それはハラフ、訳せば「痛み」という名の土地です。終末の日、捕らえ移された神の民に大きな「痛み」が与えられることが推察されます。また、この地はハボル、訳せば「結合する」です。彼らが純粋な神の民であることをやめて、この世や、神ならぬものと「結合する」ことが予想されます。また、このハボル(結合する)とは、「すなわちゴザンの川のほとり」であることが書かれています。「ゴザン」とは「切り離す」という意味であり、彼らが川、すなわち、命の水なる聖霊から、「切り離される」ことが暗示されます。その理由は、彼らがこの世と「結合する」からです。

 

7.こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、

 

なぜ、彼ら、新約のイスラエルなるカトリックの人々は聖霊から、また、約束の地から切り離されてしまったのでしょうか。その理由がここに記されています。すなわち、「こうなったのは、...彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れた」からです。ですからどうぞ覚えて下さい。今のカトリックの歩みは「主に対して罪を犯して」いると神は言われているのです。このような言葉は多くのカトリックの人々には、受け入れられないでしょうが、しかし、このことばは、たしかにこの列王記に記されているように、旧約のイスラエルの民に対して神により語られ、また、今の「新約のイスラエルの人々」に対して語られていることを覚えて下さい。

 

かつてのイスラエルの民がバアルにより、主なる神を忘れたように、今のイスラエルの民も現在のバアル、法皇の偽りの教えを聖書の「御言葉なる方」より優先することにより、罪を犯しているのです。「創世記は神話であり、進化論は科学的なので否定できない」などという、この世の人が聞いても「それがクリスチャンの言葉か」とびっくりするようなことばを真に受け、みごとに聖書を、「ことばは神である」と言われた方を投げ捨てたことは、大きな罪であることを知らなければなりません。

 

また、「ほかの神々を恐れ」と書かれています。たしかに、彼らは「ことばは神である」と言われた方を恐れるよりは、法皇やら、「死体が腐らない」聖人やら、「しるしを行う悪霊マリヤ」だの、他の神々を恐れているのです。聖書のことばとこれらの「他の神々の教え」がぶつかれば、みごとに聖書を投げ捨てる、愚かな人々です。

 

8.主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。

 

ここで、イスラエル人の罪として、「イスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩む」ことが書かれています。これは、まさに現在のカトリックの歩みそのものを指したことばです。カトリックということばは、「普遍的」という意味です。この名前は、彼らの信仰態度を明確に表しています。彼らこそ、神の前に純粋であることを捨てて、「普遍的に」別のことばで言えば「節操なく」多くの他からの教えを受け入れた人々だからです。「仏教徒もビンズー教徒もそのままで救われる」などと言うたわごとは、彼らの混沌とした、信仰をそのまま正直に表すことばです。

 

9.イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、

10.すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、

 

「石の柱」と書かれています。石は、「岩、石、砂」というように連鎖していて、「海辺の砂のようになる」と言われたアブラハムの子孫、今のクリスチャンと関係があります。すなわちクリスチャンの働き人を「偶像崇拝」することのたとえです。「見張りのやぐら」は敵の侵入を発見するために立てられます。教会の「見張り人」のことを指します。彼らまで、この「噐崇拝」の罪に荷担していると聖書は語っているのです。「城壁のある町」は城壁の無い町よりは、攻撃に強い町です。だから彼らは今で言う、他の教会よりは、「敵の攻撃に強い、神に忠実」とされている教会のたとえです。しかし、彼らもこの「偶像崇拝」の罪に加担していると神は指摘しているのです。

 

 

                   (見張りのやぐら)

 

 

11.主が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした。

12.主が彼らに、「このようなことをしてはならない。」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。

 

偶像崇拝はこの世の宗教の方法であり、真の神は我々に「語られる」神です。我々はそれぞれ、この方に聞き従うべきなのです。

 

 

                      (像を拝む人々)

 

 

13.主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」

 

「律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」というのが、聖書の神が語られている教えです。これは、この列王記の時代も今も同じです。アダムとエバの時も今と同じようにリンゴの実は下に落ちます。アダムの時から何千年もたったから、上に落ちたりはしないのです。引力の法則に何も変わりはないのです。まして、「天地が過ぎ去っても変わらない」と言われた神のことばが今頃になって、ひょいひょい変わるわけがないのです。今頃になって、すっかり騙されて「地獄は無い」「終末はない」などという偽りのことばを盲信して、聖書も神のおきても守らない人々には、聖書に記されている通りのさばきが来ることを知らなければなりません。

 

 

                      (火の池のさばき)

 

 

14.しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。

 

かつてのイスラエルの民、荒野で滅びた神の民も頑固で、うなじのこわい者たちでしたが、今の「イスラエルの民」はそれ以上にうなじのこわい者たちです。彼らはいつまでも、偽りから立ち戻ろうとしません。

 

15.彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。

 

彼らは「 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ」ました。はっきりと言いますが、今のカトリックの人々が歩んでいる歩みはまさにこれです。彼らは主のおきてをさげすんでいます。「偶像を拝するな」という神のおきてがあるのに、マリヤやキリストの像まで教会にあるのは、どういうことなのでしょうか。また、彼らは「先祖たちと結ばれた主の契約」もさげすみました。「酒に酔うな、むしろ御霊に満たされよ」と書かれているのに、神父が酒に酔っぱらったり、タバコをぷかぷか吸っているとはどういうことなのでしょうか。そして彼らは「むなしいものに従って歩んで」います。今頃になって、仏教やら、ヒンズー教の教えを求めるとは、何を血迷っているのでしょうか。そのために彼らも「むなしいもの」となったのです。彼らがむなしいものとなったので、多くのカトリックの信者と世の中の未信者との区別をすることは困難です。彼らが「周囲の異邦人にならって歩んでいる」ので、そこには区分が無いからです。

 

 

                    (ビールを飲むベネディクト16)

 

 

 

       (煙草を片手にミサを捧げるベネディクト16)

 

 

16.また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。

 

旧約のイスラエルは「彼らの神、主のすべての命令を捨て」ました。今のイスラエルなるカトリックの人々も「彼らの神、主のすべての命令を捨て」ています。やれ、創世記は神話だ、そのまま信ずるべきでないなど、何だと色々理屈をつけていますが、要は、彼らはどの御言葉も実行せず、それに対して自分で弁解をしているのです。また、彼らは「アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕え」ました。天の万象、バアルは噐崇拝のたとえです。彼らはあらゆる聖人を礼拝していますが、真に礼拝されるべき方を忘れています。

 

18.そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。

 

ここで、先に北イスラエルが主の前から「取り除かれたこと」が記されています。今の時代においても、プロテスタントよりカトリックの方が先に神の前から離れ、プロテスタントは、彼らよりは忠実な歩みをしています。

 

19.ユダもまた、彼らの神、主の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだ。

 

しかし、プロテスタントも結局は神の定めを守らなくなります。そして、「イスラエルが取り入れた風習に従って歩む」のです。カトリックのあらゆる偽りはこれから、プロテスタントを襲います。偽り?すなわち聖典以外の聖書を加える、マリヤ礼拝、聖人崇拝、その他諸々の偽りの教えです。

 

20.そこで、主はイスラエルのすべての子孫をさげすみ、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。

 

イスラエルのすべての子孫がさげすまれ、投げ捨てられたように、終末にはキリスト教会全体が神の前から投げ捨てられます。

 

21.主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムは、イスラエルを主に従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。

22.イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、

 

ヤロブアムはイスラエルが分裂してからの最初の王です。彼の時に「ヤロブアムは、イスラエルを主に従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。」のです。ですから今のカトリックの偽り、法皇崇拝等の多くの偽りには、1000年以上もの長い歴史があるのです。

 

23. ついに、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。

 

「イスラエルを御前から取り除かれた。」とここでは、書かれています。神の民であった彼らは、その背信のゆえに、もう神に捨てられ、契約から除外され、祝福や約束から、取り除けられたことを言うのです。同じように神の前から取り除けられたカトリックの多くの人々は、神の前から、既に取り除けられていることを知らなければなりません。また、先祖の地から、アッシリヤの地に移された彼らは先祖と同じ地を受け継ぎません。同じように今の時代、捕らえ移されたカトリックの人々は、信仰の先祖が受けた神の約束の地、天の御国を受け継ぎません。また、「今日もそのままである。」とのことばは非常に暗示的です。聖書が「今日もそのままである。」と書かれた時、意味があって書かれました。ですから、これは文字通り、今現在のことを語っているとも思われるのです。まさに現在のカトリックの人々は、「こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのまま」なのです。

 

24.アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、その町々に住んだ。

 

彼らがアッシリヤに引かれていった後、北イスラエルの首都サマリヤには、異邦の人々が来て住みました。これは、今のカトリックの人々の予表です。はっきり言いますが、今の多くのカトリックの人々は救われていません。だから未信者と変わらないのです。彼らはキリストの血と何の関係も無いのです。

 

25.彼らがそこに住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らのうちに獅子を送られた。獅子は彼らの幾人かを殺した。

26そこで、彼らはアッシリヤの王に報告して言った。「あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。」

27.そこで、アッシリヤの王は命じて言った。「あなたがたがそこから捕え移した祭司のひとりを、そこに連れて行きなさい。行かせて、そこに住ませ、その国の神に関するならわしを教えさせなさい。」

28.こうして、サマリヤから捕え移された祭司のひとりが来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するかを教えた。

 

さて、このサマリヤに住む「異邦の人々」の間に祭司のひとりが来て礼拝を教えました。ですからこの時、サマリヤにおいてはイスラエルの歴史にかつて無かったことがおこなわれたのです。すなわち外側の礼拝方法は、なるほど神の民の方法である、しかしそれをおこなう人々の実体は、イスラエルの血族と何の関係もない異邦の人々、そのようなかつて無かった光景が繰り広げられたのです。同じことが、今、カトリックで起きています。

 

 

                   (獅子が送られた)

 

 

29. しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、サマリヤ人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分たちの住んでいる町々でそのようにした。

30.バビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クテの人々はネレガルを造り、ハマテの人々はアシマを造り、

31.アワ人はニブハズとタルタクを造り、セファルワイム人はセファルワイムの神々アデラメレクとアナメレクとに自分たちの子どもを火で焼いてささげた。

32.彼らは主を礼拝し、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行なった。

33.彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。

 

 

                  (子どもを火で焼いて捧げた)

 

 

「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた」とは、まさに今のカトリックの人々がおこなっていることです。彼らは神を礼拝すると言いながら、この世で自分たちが礼拝しているものを決して捨てようとはしません。酒もたばこも、そしてこの世の名誉も。

 

                  (ワインを飲む修道女)

           (煙草を吸うシスター)

 

 

34.彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。

 

ここでも「今日まで」と記されています。この表現がテキストの中で何度も使われていることに目を止めて下さい。これらの記述は「今日のカトリックの人々」に向けて書かれているのです。また、「今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。」と書かれています。カトリックは、すでに始めの時点でズレており、そのまま進むことには問題があるのです。

 

また、「彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。」と書かれています。今のカトリックの歩みは神を恐れているものでもないし、また、聖書の教えをそのまま守っているのでもなく、そこから大きく逸脱していることを指しているのです。

 

35.主は、イスラエル人と契約を結び、命じて言われた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝みこれに仕えてはならない。これにいけにえをささげてはならない。

 

彼らはたしかに何かを恐れているのでしょう、教皇の教えやマリヤ、すなわちしるしをおこなう悪霊の教えに背くことを恐れているのでしょう。しかしそれは、「他の神々」だと主は言われるのです。

 

36.大きな力と、差し伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない。

37.主があなたがたのために書きしるしたおきてと、定めと、律法と、命令をいつも守り行なわなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。

38.わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。

 

主を礼拝するように語られているのですが、実際は、彼らは他のものを礼拝しています。

 

39.あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。

 

マリヤに祈っても、ただ不幸だけが来るかもしれません。しかしこの神こそが、「すべての敵の手からあなたがたを救い出される。」のです。

 

40.しかし、彼らは聞かず、先の彼らのならわしのとおりに行なった。

41.このようにして、これらの民は主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行なった。今日もそうである。

 

 

        (神にも仕え、刻んだ像にも仕える信徒)

 

 

「その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行なった。」と書かれています。そうです、彼らは先祖代々、惑わしの中にいます。そして最後にもう一度、「今日もそうである。」とまた、書かれています。そうなのです。現在のこの日、「今日もそう」なのです。

 

たしかに神は旧約のイスラエルについて預言し、また、今のカトリックについて預言しています。この警告に耳を傾けていきましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-