サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第12章 女の教え
~女(教会)のあるべき姿について~
【テキスト】Ⅰテモテへの手紙2:9-15
9.同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、
10.むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
11.女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
12.私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
13.アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
14.また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
15.しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
本日は「女の教え」という題でメッセージをします。
神が最初の女であるエバを創造した時、「彼のためにふさわしい助け手をつくろう」と言われました。それで女が創造された目的は男の「助け手」となるためであることが分かります。ここで言う男はエペソ書によれば、キリストの型であり、したがって、女は教会の型です。「女は助け手」などと言うと男女同権だなどと怒る人もいるかも知れませんが、しかし、私たちにとって唯一の基準は聖書であり、神のことばです。この世の考えではありません。
(男の助け手)
さて、教会は本来、女、キリストの助け手として、創造されたのですが、終末の時代に女は、変質し、男であるキリストから独立して、自分の考え、教えを持つようになりました。しかし、このことは、神の御心ではありません。上記テキストは、そのことを警告している箇所です。以下、順に見ていきたいと思います。
9.同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく
ここでは、女、教会のあるべき姿について語っています。ここでは、「つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾る」ことについて語っています。「はでな髪の形」と書かれています。女の髪の毛は、権威と関係します。ですから、教会が権威に従うことは、勿論、大事なことですが、それをもって自分を飾ることは勧められていません。また、金は、ペテロの手紙で、「朽ちる金よりも尊い信仰」について語られているように「信仰」を指すたとえです。ですから、「こんなに信仰深い教会だ」というような、誇りや飾りは勧められていないのです。「真珠」は宝石、宝の1種であり、賜物をあらわすようです。賜物を誇りとすることも勧められていないのです。「衣服」は白い衣が義の衣をさすというように、義や不義に関係します。教会が義に満ちていることは勿論大事なことですが、それを誇りとしてはいけないのでしょう。
(女なる教会は神の前にへりくだる時、主の恵みが与えられる)
10.むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
むしろここで勧められているのは、「良い行ない」すなわち、御言葉をおこなうことです。今の時代は、理屈や知識はあっても「御言葉を実行する人」の少ない時代ですが、これをおこなうことに大きな御心があることを知るべきです。
11.女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
女、教会にとって大事なことは、静かにする、すなわち、何でもかんでも、自分の意見、方法、議論を持ち出さないことです。また、「よく従う心をもって(キリストの)教えを受ける」ことです。このようにわざわざ書かれていることは、何でも自分の意見や方法を持ち出す教会が多いことを暗示します。このこと、すなわち独自の意見や方法があることは世の中では尊重されるかもしれませんが、聖書の中では、決してそうではないことを覚えましょう。また、「よく従う心をもって(キリストの)教えを受ける教会」も、今は少ないのです。逆に、不信や不従順な教会が多くなっているのです。
(教会は、キリストに忠実に従うもの)
(キリストを愛し、キリストの御言葉に従う者はキリストから愛される)
12.私は、女が教えたり男(単数)を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
教会で、女が男をさしおいて、教えたり、牧師になることは基本的に良くありません。このことばは、第一義的に、このことを指します。しかし、ここには、もう一つの隠れた意味あいがあります。それは、男であるキリストをさしおいて、教え始める女、教会の存在です。ここで男と訳されたことばは、KJVでは、“the man”と訳されています。すなわち、一人の男について書かれているのです。教会には、牧師、教師、預言者等、沢山の男性がいると思われるのですが、ここで書かれている「男」は単数であり、ただ一人の男を指しています。何を指すのでしょう。これは、他でもないキリストについて語っているのです。
ですから、ここで言う「女が教えたり男(単数)を支配したりする」とは、他でもない教会がいつの間にかキリストの上に立ち、自分の権威を行使することについて語っているのです。これはとんでもないことですが、しかし、今の時代に起きていることです。
(キリストを差し置いて、法王をキリストの上に持ち上げている)
「地上の誰をも父と呼ぶな」と言われたキリストのことばを無視して、人間を「ババ様、パパ様」などと呼ぶのは、公然とキリストの権威と教えを否定し、「女の権威」をキリストの上に置いていることではないでしょうか。また、「偶像を礼拝するな」とはっきり書かれた聖書のことばを無視し、マリヤ像の前で、「これは、偶像のように見えるが、しかし、我々の心はこれに向いていないので、実は偶像ではありません(?)」などと、訳の分からない詭弁を弄して「ことばなる方」を裏切っているのも、女、すなわち、教会の権威をキリストの上に置いていることになります。
(聖書の中に、どこにもマリヤを崇拝する箇所は無い。)
また、「女が教えたり男(単数)を支配したりすることを許しません」と書かれています。ですから、女が教える、ことばなる方、キリストをさしおいて、女が独自の教えを述べ伝え始める時が来るのです。しかし、このことは神により許されていません。
多くのカトリックの教えはキリストから出たものではなく、女すなわち教会独自のものです。
聖書には、はっきりと以下のようにキリストによる以外、救いは無いことを述べています。
参照 使徒の働き4:12
12.この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
しかし、屁理屈をこねる女、カトリック教会は、「神は愛だから、仏教徒もヒンズー教徒も救われる」などと、とんでもない「独自の教え」をひねり出して、恥じようともしません。これは、決して男なるキリストから出たものではなく、まさに「女の教え」なのです。
(私以外に救いはない。と言われたキリストの言葉はどこに行ってしまったのか?)
13.アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
最初の男、アダムはキリストの型であり、そしてエバは教会の型です。そして、キリストが先であり、教会は後で造られたのです。順番があるのです。決して、教会が先にでしゃばり、独自のことを言うべきではないのです。
14.また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
アダムが惑わされなかったように、キリストも決して悪魔に騙されません。しかし、「女は惑わされてしまい」ました。同じように、キリストの御言葉からずれていき、独自の教えを持つ女、教会は、賢いようで、実は、愚かにも蛇に騙されていきます。エデンの園で起きた「女が惑わされた」という事柄は、歴史的事実であると共に女、教会に対する未来の預言でもあります。
(教会は女としてキリストの花嫁だが、女はサタンに騙されやすい!)
「自分たちは偏狭なプロテスタントより、考え方が柔軟で応用性がある」などと、訳の分からないことを言いながら、悪霊なるマリヤの霊を拝している人々は、既に滅びに近いところにいるのです。
もちろん、これはカトリックのみの話ではなく、プロテスタントにもキリストから離れた独自の「女の教え」は、いやという程、沢山あります。
15.しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
それでは、女、教会はどのように歩めば良いのでしょうか。その答えがこの節です。まず、「慎み」を持ち、傲慢ではないことです。また、キリストへの「信仰」を持つことです。今は信仰の失せた時代です。また、神への「愛」を持つことです。そして、「聖さ」を持ち、この世の霊、悪霊の働きから聖別されることです。そして、「子を産むこと」です。信仰の世界の親子とは、パウロとテモテの父子関係のように、血縁ではなく、信仰にあっての「親子関係」を指します。ですから、「子を産む」とは、人々を救いに導くことを指します。そして、その時、女なる教会は「救われる」のです。
(主イエスは主に聞く者に導きをお与えになります。主以外により頼んではサタンに騙されます)
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-