サマリヤの女

 

カトリックへの警告!!

 

第13章 テアテラの女の教え 

 

~テアテラの教会とは何を指すのか?~

 

【テキスト】ヨハネの黙示録2:1829

18.また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。

19.「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。

20.しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

21.わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

22.見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

23.また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。

24.しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

25.ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

26.勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。

27.彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

28.また、彼に明けの明星を与えよう。

29.耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 

聖書が「女の教え」と言う時、これは決して思いつきや新しいことを語っているのではなく、隠れてはいるが、しかし、神が明確に語っている教会への警告を指すということを知らなければなりません。この「女の教え」の一つの分かりやすい例は、「テアテラの教会」にあてて書かれた「女の教え」への警告です。テキストに沿ってこの箇所を見ていきたいと思います。

(女なる教会が、キリストを差し置いて、キリストに従わず自分勝手に振る舞う)

 

 

 

18.また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。

 

テアテラの意味は「災いのにおい」という意味です。何となく、「裁き」を暗示しているような名前です。多くの人がこの教会はローマ・カトリックを指すと言います。私もそうではないかと思います。もし、そうなら、「災いのにおい」のある教会、それが、カトリックだと聖書は語っているわけですから、この教会に属する方々は、是非、警戒をして下さい。なぜなら「災い」は、この教会に近いかもしれないからです。「その足は光り輝くしんちゅうのような」と書かれていますが、しんちゅうとは、旧約聖書で言う「青銅」と関係します。青銅は裁きをあらわします。

                  (神の裁き)

 

 

参照 Ⅱ列王記25:16

16.ソロモンが主の宮のために作った二本の柱、一つの海、車輪つきの台、これらすべての器具の青銅の重さは、量りきれなかった。

 

青銅に関する記述の一つの特徴は、「青銅の重さは、量りきれなかった」との記述が多いことです。

 

これは、「量りきれない」裁きを暗示しているかのようです。厳粛に受け止めなければいけません。

 

20.しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

 

さて、ここでイゼベルという「女の教え」について書かれています。ですから、この教会の「イゼベルの教え」は、決して聖書からも、キリストからも出てきたものではなく、「女の独自の教え」であることを銘記しなければなりません。

 

マリヤはたしかにキリストの母として、その名前が聖書(66)に載っていますが、「無原罪」とも「礼拝の対象」とも書かれていません。ですから、これは、男なるキリストから出たものではなく、「女の誤った教え」なのです。また、聖書が「偶像崇拝」を禁じているのに、マリヤ像やら、聖人やらを拝しているのは、これは「女の勝手な教え」なのです。さらに、キリストは「地上の誰をも父と呼ぶな」と明確に語っているのに、この女は屁理屈をこねて人々に「パパ様」などと、地上の人間を呼ばせています。

                   (偶像礼拝)

 

 

イゼベルの意味は「バアルは私の夫」との意味です。たしかに旧約に記されたイゼベルは、民をバアル礼拝の誤りに導き、神の民の主なる神との「結婚関係、契約」を破らせました。バアルは主という意味合いであり、今のカソリックの主である、法王や、マリヤをさすのでしょうか。

ですので、神やキリストならぬ、バアルと結婚するというイゼベルは、キリスト以外のものと

結婚している惑わされた教会をさすことばなのです。

新約のカトリック教会もキリストと神の民との「結婚関係」を破り、逆に神ならぬ、法王を夫として、民をバアル()すなわち、法皇崇拝、聖人崇拝へと導きました。

      (キリストではなく、法王を崇拝する)

 

 

「偶像の神にささげた物を食べさせている」と書かれています。聖書で言う食事、すなわち食べること、飲むことは、聖餐式のパンとぶどう酒、すなわち、御言葉と聖霊のたとえです。聖書のことばを法皇のことばにより変質させ、「創世記は神話だ」などという御言葉、パンを民に食べさせているのです。また、血の涙を流すマリヤの霊だのとんでもない悪霊の礼拝に導いているのです。

                   (マリヤ崇拝)

 

 

 

21.わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

 

神は悔い改める機会を、この教会の信者に与えているのですが、残念ながら、多くの人は頑固であり、うなじのこわい者であり悔い改めようとしないようです。

 

22.見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
23.
また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。

 

しかし、彼らが「その行いに応じて報われる日」が来るでしょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-