サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第21章 敬虔の実を否定する 

 

~終わりの日には、この世の人々のみならずクリスチャンまでもが変質してしまう~ 

 

【テキスト】Ⅱテモテの手紙3:117

1.終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

2.そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、

3.情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

4.裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

5.見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

6.こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、

7.いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。

8.また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。

9.でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。

10.しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、

11.またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。

12.確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

13.しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。

14.けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、

15.また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

16.聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

17.それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 

本日は、「敬虔の実を否定する」という題でメッセージしたいと思います。

 

終末には、「敬虔の実を否定する人々」があらわれると聖書は語りますが、そのことの意味合いを見ていきたいと思います。

 

 

 

 

テキストを順に見ます。

 

1.終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

 

終わりの日には、困難な時代になります。どのように困難な時代になるのでしょうか?この箇所を見ているかぎり、主への忠実な信仰を保つのが難しい、困難な時代になるということでしょうか。

 

2.そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、

3.情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

4.裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

 

その時、すなわち終わりの日には、人々は変わってしまいます。この世の人もそうでしょうが、教会内の人々も変わってしまうのです。

 

クリスチャンも、「情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、・・・」へと、変わってしまうのです。今、このことは私たちの周りに起きつつあります。

 

5.見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

 

そして多くのクリスチャンは、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」になります。要は外側だけのクリスチャン、実質を伴わないクリスチャンになるというのです。

 

このことは、主イエスの時代に起きました。主は外側だけを見るパリサイ人、律法学者たちに対して、「白く塗られた墓」「外側はきれいでも、その内はあらゆる、汚れたもので満ちている」ことを非難しました。また、杯の外側だけをきよめる彼らを非難したのです。

 

今の時代もこのこと、外側のみに意を用いる人は多く、また、その実態は主の言われたことから、かけ離れている働き人も多いのです。性的虐待のことで、あるアメリカ、カトリック教区の神父たちが訴えられ、その教区では、裁判にかかる費用が膨大なので、破産宣告を出すということを聞いたことがあります。

 

これらの情けない神父たちのことを嘆きもせず、悲しみもしない、姦淫の教会、カトリックの人々が知らなければならないことがあります。それは、かつての白く塗られた墓、外側のみの宗教家、パリサイ人たちは、西暦70年のローマ兵によるエルサレム攻撃の時、共に滅ぼされてしまったということです。彼らは裁かれてしまったのです。

 

さて、「その実を否定する」ということは、世の中でも頻繁に行われていることです。

 

たとえば、日本は戦後、戦争の永久放棄、平和の国ということになりました。そして、日本国憲法も戦争放棄をうたっています。しかし、今、日本の軍隊は世界でも10番目以内に入る(たしか)結構な軍事大国です。平和憲法があるのに、なぜ軍事大国になれるのか?という疑問があります。しかし、要はやり方次第なのです。たとえ、戦争放棄をうたっていても、何だかんだ理屈をつけて、その文を骨抜きにしてしまえば、その平和憲法の実体を無きものにすることは可能なのです。軍隊を自衛隊と言い換えれば、どんな戦闘機でも、軍艦でも持つことが可能です。

 

そして、今では平和の国であり、戦争の永久放棄をうたった(はずの)日本の軍艦、イージス艦が、日本に何の戦いを仕掛けてもいない国、イラクへの獣の国、アメリカの攻撃を支援すべく、イラク,中東へ向かうということになりました。このような国のどこが、永久戦争放棄、平和を求める国なのでしょうか。まことに平和憲法の実を否定、骨抜きをすることも、うまい理屈屋にかかれば、難しいことではないようです。

 

同じ意味合いで、今の教会の一つの特徴は、「敬虔の実を否定する」ことであることを知りましょう。

 

現在では、あの冒涜の教会、カトリックにおいては、あらゆる種類の言い換え、すりかえが行われています。

 

酒、たばこは言うに及ばず、性的虐待まで犯しても、何だかんだ屁理屈をこねて、「これらは聖書と矛盾しない」などと平気で嘘吹く彼らにこそ、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」とのことばが成就している人々です。とは言っても、もちろん、私はこの教会の中でも主に忠実な人々がいることを知っています。

 

6.こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、

 

家々、女は教会のたとえでしょうか。ですから、これらの「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」たちが教会に入り込む危険性についてここでは述べているのです。

 

このような人々により、「愚かな女=教会」は「たぶらか」されます。その結果、「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち」になります。

 

聖書は、申命記5章で以下のように、明確に偶像礼拝を禁止しています。

 

参照 申命記5:7-9

7.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

8.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

9.それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

 

ここには、「上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」として、どんな形の偶像をも禁止しています。それなのに、彼らは、マリヤ像は像ではないと言うのでしょうか?

 

しかし、偽りの惑わしの書、カトリック公教理では、「マリヤ像への信仰は、偶像崇拝ではない、礼拝と崇敬することは、違う」などと「その実を否定した」蛇のようなすりかえをしています。彼らは聖書の神が明らかに明白に語った、「上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」とのことばを大胆にも、骨抜きにし、公教理の文から外し、実質を空しいものとしてしまったのです。

 

このような蛇のような言い換えの公教要理を選び取り、神のことばを投げ去り、捨て去る人々は、まことに愚か者、たらいの水と一緒に赤ん坊をも流す愚か者ではないでしょうか。彼らは口では、「私達はキリストの教えを大事にしています」と言いますが、実際その胸に抱いているのは、赤ん坊の着物だけ、中身はどこかに落としてきているのではないでしょうか。

 

赤ん坊を落として、その服だけ大事に抱えて歩いている母親は愚かな母親ですが、神が明確に語られたことば、「上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」とのことばを捨て去り、偽りの公教要理のことばを大事に抱える、カトリックの人々は、それ以上の愚かな人々ではないでしょうか。彼らこそ、「その実を否定する」人々です。

 

「家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます」と書かれていますが、このような「その実を否定する」、カトリックの偽りの教えを取り、聖書のことばを投げ捨てている人々こそ、このたぶらかされた愚かな女達です。

 

「その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、」

 

これらのすりかえの教理に従う人々は結果として、「さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ねて」いきます。聖書で約束されている、罪からの解放、聖霊による清めなどは彼らにとって、「絵にかいた餅」、何の関係も無いものとなります。

 

7.いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。

 

彼らがたとえ、どれほど、聖書を知的に学んだとしても、彼らがこのようなすりかえ、「地獄はあなた方の心にあるが、実際は存在しない」などとの偽りを喜んでいる間は、真理に至ることはありません。

 

8.また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。

 

ここで書かれているヤンネとヤンブレとは、以下に書かれているモーセに対抗したエジプトの魔術師のことのようです。

 

参照 出エジプト記7:10-12

出エジ7:10 モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。

11 そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。

12 彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

 

この箇所で理解できることは、モーセは神の力により、奇跡を行い、杖から蛇を出した。そして、ヤンネ(彼はいらだたせた)とヤンブレ(泡のいやし)も杖から蛇を出すことができたということです。魔術、神以外の霊に頼る彼等も神の奇跡と似たようなことを行うことができたということが分かります。

 

同じ意味合いで、今も神のわざと似たようなわざを行いながら、しかし、敬虔の形をしながら、尚、その実を否定する人々がいるのです。

 

「モーセに逆らったように、真理に逆らうのです。」

 

彼らのわざは、今、真理に逆らう人々の型です。今、真理はどのように攻撃されているでしょうか?真っ向からの反対ではありません。

 

聖書が「イエス・キリストは主」と書いてあるのに、「マホメットは主」あるいは、「仏陀は主」と
教会で主張するような方法ではありません。その方法は、「敬けんの形はあってもその実を否定する」、すなわち、言い換えやすりかえで、聖書のことばの実質をなくしてしまおうという方法が用いられているのです。

 

聖書の多くのことばが警告している終末の困難な時代に関しては、2段階携挙説、すなわちキリストが2度にわたって再臨するというトンデモ説を普及させ、また、この教理を普及させるべく考案されたかの本、「レフトビハインド」等のトンデモ本を普及させ、実質、クリスチャンの備えを取り去っています。また、聖書は神のことばと表面は言いながら、教会の中に進化論やら、人間の科学的なものを持ち込んで、実質、神のことばをないがしろにしています。これらにより、教会は破壊されていきます。シロアリに食べられた家は、外側は今までと同じでも、その内部から崩壊していきます。同じように、教会の実質は破壊されていきます。

 

しかし、これらはまさに聖書が、「モーセに逆らったように、真理に逆らうのです。」と前もって警告していることがらであることを知るべきです。

 

「彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」

 

このような「敬虔の形は、あるがその実を否定する」人々は、今の時代に多くいます。しかし、私たちの主は人の外側には何の興味も持たず、その人が「本当はどうなのか」ということに、目を留められることを知るべきです。彼ら、その実を否定する人々は、結局は「信仰の失格者」となることを知りましょう。

 

9.でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。

 

神の御言葉をすりかえ、侮り、要は実行しない人々は、「もうこれ以上に進むことはできない」ことを知りましょう。ある人々は、なぜ、自分の信仰生活に進歩がないのかといぶかります。その理由は、御言葉の実を否定しているからであることを知りましょう。

 

10.しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、

11.またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。

 

ここに「その実を否定する」人々と反対の人々のことが書かれています。それは、「私の教え」すなわち、聖書に記されたパウロを通して語られた神のことばに忠実であること、また、彼の「行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に」よく、忠実についていくことです。また、「迫害や苦難にも」、関わらず、忠実に御言葉に従うことです。この歩みは「その実を否定する」歩みとは対照的です。

 

12.確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

 

主にあって、敬虔に生きようと志す人は、今迄も迫害を受けてきましたが、これからの終末の時代には更にその傾向は強まります。

 

たとえば、インターネット、2チャンネル、心と宗教掲示板では、福音的、忠実な教会、教団、個人こそ、悪く言われています。この掲示板は、まるで、どこかの某民族の意志を反映したかのような不思議な掲示板です。クリスチャン、キリストへの呪いに満ちていて、糞だとか、何だとか、まるで、あの下品な教典、糞や尿の記述が多い、反キリスト的な教典タルムードのような世界が繰り広げられています。まるで外国人が書いているかのような、へたくそな日本語の煽り、罵りに満ちています。この掲示板のサーバーは外国に置かれているということですが、本当に不思議な掲示板です。

 

13.しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。

 

さて、このように口先だけの理屈をこね、「神は愛」だということばのみ、特別に強調し、「神は愛だから、人を苦しませるような地獄は存在しない」などと聖書の「裁き」に関して語っている、ことばの実質を無きものにしようとする、「悪人や詐欺師たちは」そのままで済むと思ったら大間違えです。「だましたりだまされたりしながら」すなわち、お互いに嘘の言い合いをしながら、歩みます。片方が、「聖書には誤りがたくさんある。絶対的な基準とは認められない」などという呆れた嘘を吐けば、もう片方も「マリヤはキリストと共同のあがない主です(!!!)」などと、更に大嘘を負けずに語るのです。

 

しかし、彼らは、「だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです」とのことばの通り、決して罪や悪から抜け出ることはできず、また、その結果、決して裁きを免れることはないでしょう。このような愚か者たちは、その日、神の前に出たとき、始めて自分たちが侮った「神のことば」が真実だったことを知るようになるでしょう。

 

14.けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、

 

ここで、「学んで確信したところにとどまる」ことについて書かれています。それで、「その実を否定する」人々とは、すなわち、「学んで確信したところにとどまらない人々」であることが分かります。今はどのような時代でしょうか。それは、多くの人があるべきところから移り、道を外している時代です。

 

かつてはどのクリスチャンも持っていた、終末の時代に対する警告は今や変えられ、変化させられてしまいました。今では、もう我々は艱難の時代の時には、天に挙げられ、高みの見物をするらしいので、特に終末の準備はいらない、備えもいらないということになっています。

 

この大嘘、艱難前携挙説を教会に持ち込んだ人々は、確かにかつてのクリスチャン達が「学んで確信したところにとどまらず」、外れています。

 

15.また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

 

ここでは、「その実を否定する」人と関連して、聖書に関する記述があります。「その実を否定する」人々は、聖書を言い換え、すりかえて、「その実を否定」しますが、しかし、この聖書こそ、「知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」ものなので、おめおめとすりかえれたり、空しいことばに置き換えられてしまうべきではありません。

 

16.聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

 

「聖書はすべて、神の霊感によるもの」なのですが、今の教会の流れは聖書の真実性を巧みに揺るがし、人間の知恵で聖書の権威や、信頼性を揺るがそうとしています。しかし、聖書は「すべて」、神の霊感によるものなので、その中に否定されるべきもの、省くべきものはありません。それなのにあえて、聖書の実質、「その実を否定する者」は、その日、当然の報いを受けるようになるでしょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-