サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第24章 呪われた地 

 

~殉教者の血が流される時、その地は呪われた地となることを見ていく~ 

 

【テキスト】創世記4:812

8.しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

9.主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

10.そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

11.今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

12.それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

 

本日は「呪われた地」という題でメッセージしたいと思います。殉教者の血が流される時、その地は呪われた地となることを見ていきたいと思います。

 

 

 

 

テキストに沿って見ます。

 

 

8.しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

 

この日、義人アベルの血は流されました。彼には何の落ち度もないのに、彼のことをうらやんだカインにより殺されたのです。この血は殉教の血であり、この死は殉教です。

 

9.主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

10.そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

 

その地で殉教が起きると何かが変わります。それは、殉教者の血が叫ぶということです。何を叫ぶのか?

以下のことばの通り裁きを叫ぶのです。

 

参照 ヨハネの黙示録6:9,10

9.小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
10.
彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

ここでは、血を流して死んだ殉教者がその血の裁きを求めています。それで、血はその裁きを求めることが分かります。殉教者の流された血はその裁きを求める、これが聖書の中を流れる一貫とした流れであることをとらえましょう。

 

これを考慮するその時、歴史の中で起きたこと、多くのクリスチャンの殉教者を生んだ国の歴史を正しく理解できます。

 

たとえば、日本はその歴史の中で多くの殉教者を生んだ国です。400年前の長崎における26聖人の殉教以来、何十万人という殉教者がいます。日本へのキリスト教伝来以来、400年以上経っていますが、その半分以上の時代は禁教の時代が続いたのです。豊臣、徳川の300年の歴史は殉教の歴史であり、日本全国いたるところで、クリスチャンは捕えられ、迫害、拷問され、命を失ったのです。すなわち、この国の隅々まで、殉教者の血が叫んでいるのです。

 

日本の歴史を考える時、この流された殉教者の血の叫びということを考慮しないことには正しく理解できません。

 

迫害は、豊臣秀吉の時代、徳川時代、そして、明治の始めまで続きました。これらの殉教者の血は、この日本の地に流されたでしょうか。歴史を調べるなら、日本の津々浦々まで、迫害が及び、キリシタンは告発され、逮捕され、拷問され、その血は日本の各地で流されたことが分かります。

 

アベルの御言葉にしたがえば、日本の各地において、殉教者の血は叫んでいるのです。

 

その血の報いを神はされるのでしょうか?否、されたのでしょうか?

 

歴史を見るなら、その血の復讐はこの国に行われたことを見ます。かつて、キリシタンの血が流された日本の各都市は、第2次世界大戦の時、アメリカにより空襲を受け、そして、それらの地に火の裁きが下されたことを見ます。

 

中でもあの地、日本で最初の殉教が起きた、長崎の地には、原子爆弾が投下され、その地、多くの人が投獄、迫害され、殉教した地は、灰に帰しました。

 

最初の殉教者、26聖人を記念した教会の上に原爆は落ち、明治に起きた有名な迫害、浦上崩れの地は、火で燃え尽きました。私たちは、神が流された殉教者の血の叫びに答えることを、これを通して見ます。

 

ヘブル書には、アベルの血と比較してイエスの血について語られています。

 

参照 ヘブル人への手紙12:24,25

24.さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
25.
語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

 

あの地、イエスの殺されたエルサレムも血の叫びのある地であり、この場所は今でも、多くのテロ、殺人、戦争のある平和のない町となっています。

 

11.今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

 

さて、ここでは、殉教者の血が流されるとその地はどうなるかということが描かれています。それはその地が呪われた地となるということです。その時、その地は変化して今までと異なったものとなります。「あなたは」その土地にのろわれている。と書いてあるように、殺人者、迫害者に対して、その地は呪われたものとなるということなのです。

 

迫害を受ける者にとって、呪われたものとなるわけではありません。しかし、迫害する者にとって、その地はもう実りのない呪われたものとなってしまうのです。

 

12.それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

 

ここで殺害者カインに対して、「その土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」と言われています。すなわち、この殺害を契機にいくらカインが土地を耕してもろくに実は実らない、と語られているのです。これは、実際の麦や、ぶどう等についてというか、霊的な意味合い、伝道や牧会等に関して言えると思います。

 

例として日本の地を考えてみましょう。

 

この国こそ、カインの殺人、すなわち、キリシタン迫害、殺害を多く行った国です。豊臣、徳川時代の何百年にもわたり、日本全国に迫害の手が及び、日本中の人々が、キリシタンの告発、密告、迫害に手を貸したのです。その結果どうなったのか?この地はみごとに「呪われた地、実を結ばない地」となりました。

 

依然、迫害の起きる前、この地、この国は福音に対して、実を結ぶ良い地でした。フランシスコ・ザビエルの宣教開始後、ほんの短い間に多くの日本人がクリスチャンとなり、あっという間に人口の7%もがクリスチャンとなってしまったのです。喜んだ宣教士の一人は、「この国は30年でキリスト教国となる」とさえ、述べました。

 

しかし、その後、多くの殉教者の血が流された後、もうこの地、国は呪われた地となってしまいました。いくら宣教しても福音が伝わらない、救われない、実らない、呪われた地となってしまったのです。日本はクリスチャン人口率が非常に低く、一説には「宣教師の墓場」とさえ言われる地になってしまいました。

 

宣教や伝道に関しても、聖書の語る原則、法則があると思われます。それをとらえることが大事なのでしょう。

 

さて、「殉教者の血でその手を汚す時、その地は呪われるものとなる」という原則は単に国に対して当てはまるというだけではないかもしれません。

 

何を言っているのかと言うと、教団や教会に対してもこの原則が適用されるのではないかと思われるからです。

 

たとえば、カトリックの教会の手は殉教者の血で染まっています。

 

彼らは自分達の教会の教えに遵わない者を「異端」として、迫害し、その血を流し、命を奪っています。

 

彼らの言う「異端」とは、たとえば、民衆の人々が聖書を読めるようにと、聖書を誰も読めないラテン語から、英語やドイツ語を訳した人まで含まれているのです。

 

たしかに聖書が民衆全てに読まれ、この教会の不品行法皇やら、嘘つき坊主どもの行いや教えがちっとも聖書的でないことがバレては都合が悪いでしょうから、そういう意味では、「聖書を翻訳する者」は、この悪徳教会にとっては、異端です。しかし、神の前にはそうではありません。

 

ですからこの教会の両手は血に満ち、殉教者の血に満ち、その結果この教会においては、「それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。」とのことばは、たしかに成就しています。

 

殉教者の血がこの教会によって流され、しかもそれがおびただしいものなので、もうこの教会の教えも説教も教理も交わりも信仰生活も何の実も結ばない、呪われたものとなってしまったのです。

 

その教えは、ろくでもないものになっており、その行いはこの世の人にも劣る情けない下劣なものとなっています。神父は聖職者、神に仕える者という建て前のようですが、この教会の神父の実態は、そんなものではありません。欧米のカトリックのサイトには、神父によるシスター、女性、子供への性的虐待が数多く報告されています。

 

神の教えを説くどころか、この世の人の道徳水準さえ守れない情けない教会となってしまったのです。なぜそうなったのか?なぜ、この教会の人々は、このように情けないものとなってしまったのか?

 

それは、聖書のことばの通り、彼らはカインのように罪のない者たちの血を永年、しかも大量に流し、その結果、彼らにとって、教会も礼拝も何の役にも立たない実を結ばないものとなってしまったのです。

 

まさに聖書のことばは彼らにおいて成就しているのです。

 

同じことは日本のプロテスタントにも言えます。かつての戦争の時、日本の大きな教団は、いくつかの教団、教会を見捨てました。彼らはキリストに着き、御言葉に着くより、人を恐れ、権力を恐れ、キリストを見捨てたのです。そして主とその御言葉に忠実な教会、牧師は見捨てられる中で、投獄され、中には命を失った人もいました。裏返すなら、この教団の手もカインのように裏切りに手を貸し、その手は汚れているのです。もっともこれはこの教団だけではないのですが。

 

その結果、何が起きたのか?このように裏切りに手を貸し、兄弟の苦しみに目をそむける教会には、カインに起きたようなことが起きてきました。彼らの土地は呪われたものとなり、ろくでもない実しか育たなくなったのです。つまらない、実を結ばない、呪われた地のような説教、教理の教団となっていってしまったのです。このことばはこれらの教団、教会に対しても実現したのです。

 

まことに恐るべきは、神のことばであり、われらが恵まれるのも、また、教会の働きが祝されるのも、また、実を結ぶのもこれらは全て「書かれたように」なることを知りましょう。

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-