サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第27章 安息
~7つ目のミレニアムにいる我々に対する警告として聖書は行いの呪いに入る危険を語っている~
【テキスト】へブル人への手紙3:8-19
8.荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
9.あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
10.だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
11.わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
12.兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
13.「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
14.もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
15.「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
16.聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
17.神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
18.また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
19.それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
本日は「安息」という題で、このテーマをもう少し考えてみましょう。テキストに沿って見ます。
8.荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
9.あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
かつての日、イスラエルの民は神のわざを見ても神の働きの証拠を求めました。同じく主イエスの時代、彼を信じない人々は天からのしるしを求めました。同じく、終末の日に神の民はこの方を信じず、それゆえ不思議としるしを追い求め狂奔するようになるでしょう。
「荒野での試みの日に」と書かれているように、これから、試みの日が来るのです。全世界のクリスチャンに対して試みが来るのです。かつての日、荒野の民の多くはその試み、試験にパスすることができず、かえって神の裁きに入りました。同じように、この終末の日にも試みの日が来ます。サタンの誘惑を神が許す日です。そして、その中で、人々の真の心が明らかになってしまうでしょう。ピーター・ワグナー、ビル・ハモン、ベニー・ヒン、これら嘘つき3兄弟、外れまくり預言連発の嘘つきどもによる、いかにも良さそうなすばらしそうな教理、教えが、なぜキリスト教会で大手を振ってまかり通るのか?それは、今が試みの時であり、神がこれらの試みを教会に起こすことを許されたからです。
10.だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
かつての日、荒野でしかばねをさらした失敗者であるイスラエル人、試みの中で失敗した人々の特徴は、「常に心が迷い」、神の「道を悟らなかった」ことです。同じく終末の日にも惑わされ、屍(しかばね)をさらす人々の特徴は「常に心が迷い」、神の「道を悟らない」ことです。
心が迷うとは、心が一定していない、ふらふらするということでしょうか。パラダイムシフトなどの偽りに騙される人はまさにそのような人、心が迷う人々です。ピーター・ワグナーの言うこれらの教理は、聖書と異なる教えなのですが、しかし、心の定まらない、迷う人々は惑わされていきます。彼らワグナーたちは、キリストが肉体を持たず、まず霊として再臨する、などと聖書にないことを言うのですが、堅くみことばに立たず、惑わされやすい人は、フラフラと動かされていきます。「わたしの道を悟らなかった」と書かれていますが、彼らが、第三の波の偽りである、すばらしいクリスチャンへ変えられていくなどとの甘言のもとに惑わされていくその理由は神の道、方法を悟らないからです。
今の時代に関する神の道、方法は、限り無い成長だの、トランスフォーメーション、トランスフィギュレーションなどではありません。また、嘘つきユダヤ学者どものホラ話、再建主義などではありません。彼ら再建主義者は、マタイ24章に書かれたキリストの再臨の預言は、もう紀元1世紀に終わっているなどと聖書的に根拠の無いことを真面目に語る勘違いの人々、そう我々が相手にする価値もない愚かな者の集団です。これらの与太話に惑わされる人々に対して、神は、「わたしの道を悟らなかった」と語っているのです。
「わたしはその時代を憤って言った」
神はある特定の時代に関して警告を発しています。また、キリスト教会全体から、安息が奪われるある時代に関して語っています。それはいつの時代か?それは、かつてのルターの宗教改革の時代ではありません。また、多くの宣教師が海外へ送られた18、19、20世紀ではありません。しかし、それは今の時代である可能性、神の聖書のことばが曲げられ、また、ケネス・コープランド、ベニー・ヒン等のWord Faith「人が神となる」などとのトンでも教理が教会を席巻する時代である可能性が高いのです。
11.わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
神の道、真理を曲げる人々に対する一つの罰、裁きは、「わたしの安息にはいらせない」すなわち、神から約束された安息に入ることができないという事柄であることをしっかり覚えましょう。
求めながら安息に入れない多くのクリスチャンがいます。カトリック、統一原理、ものみの塔で説かれている教えは安息を与えない教えであり、また、プロテスタントの中にもこの種の罠、安息を奪う罠があります。
私たちは神の怒りを引き起こし、約束された安息に入ることのできない愚かな信仰者となってはいけません。
12.兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
不信仰な者は約束された安息に入らないのです。不信仰とは?それはすなわち、神のことばを文字どおり受け取らず、他のことばに聞き入る人々のことです。具体的にはどういうことか?たとえば、神のことばは、以下のように信仰は行いによるのではないと語ります。
参照 テトスの手紙3:5
5.「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
このように書かれているのに、もっともらしいカトリックの教理集などにまどわされ、「そうはいっても行いは必要です。」などとのことばに惑わされ、限り無い行いに入り、いつまでも救いにあずかれない人こそ、安息に入れない人なのです。
13.「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
「今日」というある一日についてここでは書かれています。千年は一日のごとしと言われるので、それはまた、ある千年期に関するたとえでもあり、それは7つ目のミレニアム、今のミレニアムに関することと思われます。
すなわち、聖書はある一つのミレニアムについて特別に「だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」と前もって語ったのですが、何と我々はその時代にいるのです。そしてこの7つ目のミレニアム、最後のミレニアムにおいて落伍するその人々の問題点は何か?それは、「罪に惑わされてかたくなに」と書かれているように、罪に惑わされること、その結果、間違ったものを頑なに守ることなのです。
このことは、かつてイエスの時に起きました。その日、多くのしるしを見ながら、なおかつ頑なに、イエスをキリストと認めなかった人々は誰でしょう?それは、偽善なる律法学者、パリサイ人であり、彼らはその頑なな心を変えようとせず、その結果、救い主を知ることなく、裁きに入ってしまいました。彼らはなぜ間違えたのか?その理由は主が彼らを「白く塗った墓」と呼んだように、彼らが外側はきれいでも、その内側は罪に満ちていたからです。そう罪のゆえに頑なになってしまったのです。
同じことがこの終末の時、再現するでしょう。もうすでにその声を上げつつある嘘つき狼少年ピーターこと、預言外れまくりの大嘘つき、自称使徒のピーター・ワグナーを始めとする彼らの嘘がなぜ、ある人々にとっては、すばらしいものに見えるのか?その理由は上記みことばによれば、彼らの心は「罪のゆえにかたくなになって」いるのです。そしてその結果、嘘つきが本物に見え、そして逆に正しい人が偽りに見えるのです。結果、かつての偽善なる律法学者、パリサイ人のように、「終末の日に油注がれた人々」を反キリストとして攻撃するようになるのでしょう。そう、彼らは先祖の罪の升目を満たすようになるでしょう。
14.もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
さて、この箇所で、これから始まる試験と試練の時が暗示されます。そして、これらの試練の中で、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば」キリストにあずかる者となることが語られています。逆にこの試練の中で、揺り動かされる人々は、安息にも救いにも再臨するキリストにもあずからないことが予想されるのです。
「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば」とのことばはこんな風な表現に似ています。
1)もし、途中で財布を盗まれなければ無事にケーキを買って帰れます。
2)もし、試験のひっかけ問題に引っ掛からなければ無事に学校を卒業できます。
そんなわけでこれから始まる事柄、このミレニアムの時代に教会に起きることは、試練の時、試験の時、みんなが騙される時代に入るのだと言うことをどうぞ理解してください。この時代を正しく通過できるかどうかは、我々の永遠の命と関係します。黙示録、フィラデルフイアの教会への手紙にも、「全世界に来ようとしている試練(誘惑)の時」と明確に書いてあるではないですか。
かつてのエデンの園の誘惑のように、再度全世界規模で誘惑が来るのです。そして、それに惑わされる人は、かつてのエバが命の木から遠ざけられたように永遠の命から遠ざけられます。
「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば」
このことばが暗示するのはこの誘惑の目的、方法ということでしょうか。この誘惑は何を目的とするか?それは恐らく「最初の確信」をぐらつかせる方向で働くことが想像されます。
最初の確信とはすなわち、今の福音的な教会、クリスチャンが持っている聖書的な教理、信仰のことです。終末の誘惑、試練はこれらをぐらつかせる方向に働くのだということを覚えておいてください。
もうすでにその兆しは大いに現れています。バイブルカルトだの原理主義だののスローガンの下で堅くみことばにつく人々が攻撃されつつあります。また、Hate Crime Law(憎しみ犯罪法)などの法律により、聖書に忠実な人が攻撃され、同性愛者に対して聖書的にその罪を語る人々は投獄されることになりました、否もうすでに投獄されています(!!)また、1/10献金はカルトだ、イエスのみはカルトだなどとネット上で騒ぐ、日本人らしからぬ人々がいます。
カトリック、エキュメニカルと共に、国連主導で、「宗教的に非寛容」な人々への非難が語られています。「宗教的に非寛容」なんていうとトンデモない人のことかと思うかもしれませんが、そうでもありません。
そうではなくて、聖書に忠実な人、「世界にキリスト以外に救いはない」などと言う人、他の宗教を認めない人こそ、その非寛容な人々だというのです(!!)
何ともはや驚くべき時代にもう我々はすでに入ってしまったのです。そう、もうすでに黙示録の言う試練、誘惑は始まっているのです。
15.「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
かつての日、荒野の日、神の民は神の声を聞きながら、しかし、その声に聞き従わず、結果として裁きに入りました。今の時代も聖霊はその声で語っていることを覚えましょう。
しかし、罪により頑なになった人々は惑わされていきます。罪とは何か?それは、偶像崇拝の罪について聞きながら、嘘つきピーター・ワグナーだのの器を偶像視、崇拝して、その偽りに惑わされる人々、また、「盗むな」とのことばを聞きながら、神のことばを盗み、愛の神のみを強調し、聖書が同じく語る終末の裁きのことばをないがしろにする「盗人クリスチャン」のことです。
16.聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
かつて、出エジプトした「全部」の人が、神の声を聞きつつなお、その怒りを引き起こしました。一部や、多少ではなく、「全部」なのです。このことは警告です。なぜなら、今、世界のキリスト教会全体として、神の怒りを引き起こす方向へ向かっているからです。世界的に同性愛は認められつつあり、神のことばへの改ざん、冒涜は全教会的に、益々その勢いを増しています。キリスト教会全部が、おかしくなりつつあるのです。
17.神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
しかばねは死と関係しており聖書で言う「死」は罪と関係しています。かつて、イスラエルの民が荒野でしかばねをさらしたように、教会が罪に満ち、その結果、死が教会を覆いつつあります。カトリック神父による大きなスキャンダルがあちこちであります。そう教会は、しかばねをさらしつつあるのです。
18.また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
安息のことが再度書かれています。安息の反対は仕事であり、行いです。クリスチャンにとり非常に大切なポイントは、「安息に入る」ことであることを覚えてください。逆に言うと、多くのクリスチャンにとり、キリスト教は呪いの宗教のようなもの、義務と拘束の監獄宗教のようなものとなっています。しかし、そう思える人は実は安息に入っていない人々なのです。なぜ彼らは入れないのか?それは、神の声に従わない、みことばを行わないからです。それで、安息に導くはずのこの教えが義務のようなもの、呪いのようなものになってしまったのです。行っても行っても安息に届かない、そのようなものになってしまったのです。
19.それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
彼らが安息に入れない、もう一つの理由は彼らが不信仰であり、神のことばを文字どおり信じていないからです。「救いは行いによるのでない」ことを聖書は明確に語るのですが、彼らはそれを信じようとはしません。不信仰なのです。
聖書はこのように繰り返して安息に入れない危険、分かりやすく言えば、行いの呪いに入る危険について語っています。そして、それは、安息日、7日目、すなわち、7つ目のミレニアムにいる我々に対する警告であることを知りましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-