サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第30章 再び行いに入るペテロ(2)
~義と認められるのは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によってである~
【テキスト】ガラテヤ人への手紙2:11-21
11.ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
12.なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
13.そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
14.しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
15.私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
16.しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
17.しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
18.けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
19.しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20.私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21.私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
本日は、「ふたたび行いに入るペテロ (2)」として、この件をさらに見ていきたいと思います。順に見ます。
11.ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
この日、パウロは福音の真理にまっすぐ歩んでいなかったケパすなわち、ペテロに対して面と向かって非難しました。先輩のペテロに対して失礼なとか、「宗教的に非寛容はよくない」などと、どっかで聞いたようなたわごとを言う人もいるかもしれませんが、しかし、聖書はこのこと、パウロの態度を非難はしていません。ですから、このことは神の前に正しいことであり、勧められること、取るべき態度なのだということを覚えてください。
ですから、全てこの時代において、主の福音にまっすぐ歩もうと志す人々は、等しくパウロの範にならうべきであり、相手が誰であろうと、正しい道を述べるべきこと、これが聖書の方法なのだということを覚えてください。
相手が誰であっても?そうたとえ相手がペテロの後継者を自称する獣法皇であってもです。
12.なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
ここにはかつては健全な教理を持ち、正しく歩んでいたペテロがある日、ある人々が来る頃を境に、割礼派を恐れ、健全な歩みから外れていったことが書かれています。これは、預言的であり、現在のペテロ、ローマ法皇を中心としたカトリックの歩みも同じです。かつては、健全な歩みだったのでしょうか、タルムードやらを信仰するある種の人々が送り込まれてから、教会の歩みは変わってきました。行いが入ってきたのです。
( タルムードを焼却する)
13.そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
この偽りの行動、行いにより義とされるという行動は、教会の中で影響を及ぼし、ペテロを沈黙させ、さらにバルナバさえ、引き込みました。ですから、ここで知らなければならないことは、この教え、行いによる義という教えは、しつこいものであり、形を変え、名目を変え、教会に大きな影響を及ぼし続けていくということです。
14.しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
キリスト・イエスにある自由を離れ、律法と行いの生活、奴隷の重荷の生活に戻ることを指して、パウロは、ケパ、ペテロに対して、「ユダヤ人の生活を強いるのですか」と語りました。このことばは暗示的です。なぜなら、キリスト教会に忍び寄る「キリスト・イエスにある自由を」を奪うための多くの異端教理、運動は多くユダヤ起原だからです。行いによる義を強調するエホバの証人は、その創始者、ラッセルの言動を見ても分かるように、非常にユダヤ教的です。同じく行いについて語る土曜安息教会、ユダヤ教の安息日を強調するセブンスデー・アドベンチストもその創始者エレン・ホワイトは非常にユダヤ教的です。そして、行いを強調するカトリックもユダヤフリーメーソン系の人々の関与がよく言われる教会なのです。
さらにこの箇所で、注目すべきことは、パウロの態度です。「私はみなの面前でケパにこう言いました。」と書かれているように、ただすべきことに関しては、パウロは、相手が12使徒の筆頭弟子、教会のもっとも主だった人と思われるペテロが相手でもはっきりとその間違いを指摘したことです。
そして、これは、今の時代の偽善的なプロテスタント教会の現状と全く正反対の態度なのだということをよくよく知らなければなりません。
「他から悪く言われたくない」「エキュメニカルに反対してキリスト教会に仲間外れにされたくない」と思っているのかいないのか知りませんが、行いに走る今のカトリックの教理、誤りを指摘する声は、残念ながら、今の日本のキリスト教会にはほとんど聞こえてきません。
これは、「他人を思いやる精神に満ちている」というわけではなく、逆に身内を顧みない罪であることを知りましょう。
以下のように書かれています。
参照 Ⅰテモテ5:8
8.「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」
私たちプロテスタントの親族、兄弟は同じイエス・キリストを主と仰ぐカトリックです。彼らが行いの重荷に押しつぶされている時、彼らに正しい道を教えることなく、「あなたの道は正しいよ。神の祝福がありますように」などと言うのは、兄弟愛があるのではなく、彼らに正しい道を閉ざす、偽善の道なのです。
これは、福音派のリーダーこと偽善大王ビリー・グラハムがしていることでもあります。彼は「カトリックには何の問題もない」と明言しているのです。彼が偽りを言う、それで、自分の目で見ることや聖霊の声に聞くより、偉い人の声に右へならえすることを選ぶ愚かな福音派の人々は、皆、カトリックの問題に目を閉ざしています。彼らは目があっても見てはいません。
15.私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
16.しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
「律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。」とパウロは明言しています。しかし、そう書かれているにもかかわらず、このことばを骨抜き、空文にし、行いの重荷を負わせようとするのが敵の策略であり、永年の方策であることをとらえてください。ホーリネス系の教会では、完全なきよめ、また人前での罪の告白ということが強調されています。これは人を行いの奴隷にする欧米では異端まがいと呼ばれている教理であることを知りましょう。
18.けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
カトリックを始めとする教会で強調されている行い、義の行いとは、「前に打ちこわしたもの」すなわち、かつては捨てられた教理、以前の行いにより義とされるという方法を拾い上げ、再度繰り返しているのだということを知りましょう。このこと、「前に打ちこわしたものをもう一度建てる」は預言されており、終末の日に再建主義等により、大規模に再現するでしょう。
19.しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20.私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21.私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味」なのですが、しかし、パウロは他でもない、ペテロが行いの偽りに逆戻りし、偽りに荷担していたことを伝えます。このことは、ペテロ個人の不徹底であり、妥協です。
しかし、これは、単にペテロ個人に関する問題でなく、ペテロの後継者と称する法皇を代々おしいただいている教会、カトリックに関する預言とも理解できます。
何を言っているのかと言うと、このことばは、カトリックが再度「行いによる義」を強調する教会になるとの預言とも理解できると言っているのです。これは預言でしょうか?もし預言ならそれは、成就したでしょうか?それは成就しています。
この件に関して、私たちはこのことを知っています。このカトリックを研究する欧米のクリスチャンはこの教会の「行い主義、善行主義」を指摘するということを、です。ペテロが行いに戻るとの預言は文字どおり今、成就しており、このこと、行い主義は、カトリックの主要な問題点です。
そして、日本のプロテスタント教会でこのカトリックに関する事実、行い主義であることが知られていないのは、彼らがただ無知であるからに過ぎません。
しかし、もう、そろそろ私たちは自分の親族、兄弟である彼らカトリックに関心を持ち、彼らが問題から抜け出せるよう、手を貸すべきと思われます。かつて、サマリヤの女、カトリックを予表する女に対して、主が言われたように、「救いはユダヤ人から」すなわち、プロテスタントから来るはずだからです。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-