サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第32章 子牛を拝する
~出エジプトの時代、民が子牛を礼拝したことの意味合いを見ていく~
【テキスト】出エジプト記32:1-10
1.民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
2.それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
3.そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
4.彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。
5.アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」
6.そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
7.主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
8.彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」
9.主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。
10.今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
本日は「子牛を拝する」という題でメッセージしたいと思います。出エジプトの時代、民が子牛を礼拝したことの意味合いを見たいと思うのです。
テキストに沿って見ます。
1.民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
この章の前の章には、モーセがシナイ山で神から十戒を受けることが記されています。そしてこの章では、民が子牛を礼拝しているわけです。
勿論一方でこんなことをしている民はとんでもない民なのですが、しかし、これらの出来事には関連があることを知ってください。
モーセは律法すなわち神のことばを代表する人物です。そして、そのモーセを通して、まさに神のことば、律法が与えられたそのクライマックスに民は何と、偶像である子牛を礼拝しているわけです。
何とも皮肉というか大変な冒涜なのですが、しかし、このことを通して語りかけてくることがあります。
それは神のことば、戒め、律法を破ることと偶像、器崇拝は関係しているということです。明らかに聖書はこれらの関係に気付くように、そのように書かれていると思えます。彼らは、モーセが律法をもらい、シナイ山から降りるか降りないかというその時、もう、すでに民は子牛を偶像崇拝しています。これらは関係しているのです。
すなわち、我々が人を崇め、人につき、人のことばを優先する時、神のことばをないがしろにしてしまいやすいことをこの箇所は語っているように思えます。
2.それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
3.そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
耳飾りは耳に穴をあけて、通します。耳に穴をあけることに関しては、聖書はこう述べています。
参照 申命記15:16,17
16.その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、
17.あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。
耳に穴をあけることは主人に奴隷として仕えることと関係しています。ですから、耳輪を子牛のためにささげるとは子牛、偶像、器に奴隷となって仕えるという意味合いがあります。これは神でなく、偶像、人の器に仕えることの予表です。ビリー・グラハムにすっかり入れ込んで、彼の推賞するエキュメニカル運動なんかにすっかり同調し、聖書を投げ捨てている福音派なんかは、この類いです。
「民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして」
この表現も語りかけがあります。彼らは自分の耳にある耳輪をはずしてそれを子牛にささげたのです。耳を刺し通す(ピアスとは刺し通すという意味)のは、主人に仕えることと関係しており、彼らは今まで、主なる神のしもべとして、仕えていたのです。しかし、彼らが今、その耳から耳輪を外したその時、彼らの主への忠誠、従いは消えました。たとえば、あまりよくない例ですが、妻が不倫をするべく、その指から結婚指輪を外すなら、それは意識的な裏切りを行っていることになります。耳輪を外すことも同じ意味合いであり、その時、彼らはこの方を裏切り、他の者を選んだのだと言えます。
創世記の記述を投げ捨て、獣法皇、進化論擁護の法皇に従う愚かなカトリックの民の耳からもこの耳輪が取り去られています。彼らは「ことばは神である」という方を捨て、あの子牛、法皇を拝むことにしたのです。愚か者です。
4.彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。
ここで鋳物の子牛が作られ、これが偶像崇拝の対象になりました。子牛ということを考えてみましょう。律法によれば、牛や羊はきよい動物です。聖書で言うきよい動物は、反すうを行い、かつ、ひずめが分かれているものです。牛は何度も反芻をし、ひずめが分かれています。これは、クリスチャンのたとえであり、御言葉を反芻し、また、この世と分離、すなわち、ひずめが分かれているクリスチャンのたとえです。それで、子牛を礼拝するとは、すばらしいクリスチャンを礼拝する、すなわち、器崇拝のことを指していることが分かります。
世の中にはすばらしいクリスチャンがおり、信仰の器がいます。私たちは彼らの良いところは参考にするべきですが、しかし、盲目に従う、まして聖書を投げ捨てて従うようには勧められていません。
「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」
この子牛礼拝はよくないのですが、しかし、ここでのことば、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」とのことばには語りかけがあります。
ここには、「あなたをエジプトの地から連れ上った神を捨て去り、この子牛を拝め」とは書いてありません。逆に別の物、子牛を持ってきて、これこそがあなたたちの神なのだと言っているのです。すなわち、本物とすりかえようと偽の神を代わりに持って来ているのです。
このことには語りかけがあります。偶像崇拝と関連する問題は、すなわち、すりかえなのです。人の器を神の位置に置いてしまうという問題なのです。
このことに関連して、終末には反キリストが出てくることになっていますが、この反キリストということばには、「キリストの代わり」という意味合いがあることを知ってください。反キリストと聞くと、いかにもキリストの全てに反対し、あらゆるキリスト教の教義を破壊し、クリスチャンを絶滅しという風に理解しやすいのですが、このことばに関連して実際に、聖書が語っている警告はそのようなものではないと思われます。逆に反キリストの問題とは、キリストの代わり、代用品、代替、似たものですりかえることなのです。そういう意味ではまさしく、法皇やらマリヤやら、聖人たち、また、怪しいベニー・ヒン等のペンテコステ系の器などは、立派に反キリストの資格があります。
5.アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」
ここでもアロンは、子牛を拝むその祭りを「あすは主への祭りである。」と語っています。まことの神である主の名前を出し、主への祭りとかこつけ、実質は、子牛を拝んでいるわけです。
これが、子牛礼拝すなわち、器崇拝のパターンなのだということを理解してください。今のことばで言うなら、キリストの教会、キリストへの礼拝とかこつけ、その実、器礼拝をしていることを指します。
ある時、私は道を歩いていて、聖公会の(たしか)、教会を見かけました。その教会の名前が英語で看板に書いてありました。その名前を見た時、私はショックを受けました。その看板には、「The church of the Lady」と書いてあったのです。これは要するに婦人すなわち、マリヤ教の会堂なのです。教会はキリストを拝むところ、まことの神を拝むところとの名目はあるものの、その実質は子牛礼拝教会となっており、この教会においては、キリストの代わりに別の子牛、マリヤが礼拝対象となっていたのです。これは一つの例に過ぎず、多くの教会において、子牛、器が礼拝されています。しかし、子牛を拝むなら、主の律法、石の板とは両立できません。聖書は明らかに「何の像をも拝まない」ことを十戒で禁じており、嘘つき教会、カトリックのように十戒のこの箇所を削らなければ、すなわち、石の板を割らなければ、マリヤ像礼拝、子牛礼拝を続けることができないのです。崇敬と礼拝は違うなどとの偽りの論議に騙されてはいけません。
6.そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
全焼のいけにえ、また、和解のいけにえとは聖書によれば、主なる神に対して捧げられるものです。ですから、ここでの民はある意味、聖書に従った方法、態度で礼拝しているということができます。彼らの礼拝方法には変化がありません。しかし、変化があり、問題があり、それは彼らの礼拝対象が、主なる神ではなく、子牛だということです。
ですから、ここでの出来事を今の教会に当てはめるなら、まるで違った宗教を拝するという問題ではありません。たとえば、クリスチャンがもうキリスト教会に出席しなくなり、代わりにお寺の仏像を拝みだしたという問題ではないのです。逆に彼らは同じように教会に出席し、同じく礼拝プログラムに従って礼拝を行っているのです。しかし、問題があり、それは子牛すなわち、器を優先し、その結果、神のことばを投げ捨てているのです。このようなことはおおげさでなく、今の教会にいくつも起きていることです。たとえば、「私の尊敬するあの器」がこう言ったからという理由で聖書に何の根拠もない、艱難前携挙説や2段階携挙説を受け入れている人々などもその類いかもしれません。彼らは知ってか知らずか、モーセに代表される神のことば、教えを捨て、逆に子牛を礼拝しているのです。
「民はすわっては、飲み食いし」
飲み食いは教会に関係することばであり、教会も飲み食いするところ、すなわち、命のパンを食べ、主のぶどう酒を飲むところです。ですから、ここに書かれているのは、遠い地、我々と関係ない地における偶像崇拝ではなく、まさに教会の真ん中で行われる器崇拝に関する預言の記事なのです。
7.主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
堕落してしまい、神の教えから外れてしまった民に関連して、主はモーセに命じました。「さあ、すぐ降りて行け」それで、モーセ、律法を代表する人物は山を下り、下へ降りていったのです。このことは、ことばなる方、「ことばは神である」と言われた方の降誕を予表するかのような出来事です。
モーセは、なぜ山を下り降りてきたのでしょう?それは、民が神のことばを捨て去り、子牛を礼拝することにうつつを抜かしていたからです。同じく、なぜ、神のことばと言われる方、キリストは父のもとを離れ、この地に下ってきたのでしょう?その理由も同じく民が神のことばを捨て去り、子牛を礼拝していたからです。子牛とは、すなわち人間の器のことであり、具体的には神のことばと食い違う神のことばを無効にする教えを語る律法学者、パリサイ人たちのことを指します。
主イエスが地に下られたその理由はこの子牛礼拝が地を覆い、あらゆる神のことばが曲げられ、変質されていたからなのです。同じことが終末にも再現されるでしょう。
8.彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」
ここには、「わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り」と書かれています。神の道から外れることと子牛を作り、礼拝することとは、1セットに書かれているのです。そう、これらはコインの裏表のように互いに関係があります。
人が神の教えから外れるその大きな理由、方法は、子牛を拝むこと、人間の器を神のことばより、優先する時起きるのです。
たとえば、ホーリネス系の教会では、艱難前携挙説や完全な聖化だの、罪の根絶説だの、人前での罪の告白をしないと罪が許されないだの、中東のパレスチナ人虐殺民族への圧倒的支持だの、ほとんど異端まがいの怪し気な教えが積極的に受け入れられています。これらはどれも聖書の記述とぶつかる怪しげな教えなのですが、しかし、この群れの創始者、中田重治により提唱されました。中田重治はもちろん、立派な神のしもべですが、しかし、所詮、彼も人間、知識的な間違いはいくらでもあるのです。しかし、人間の器を偶像のように崇拝する人々により、彼の教えは正しいものも、そうでないものも、この群れにおいては吟味なく受け入れられています。ホーリネスは福音派の雄であり、その熱心な伝道、また、他のプロテスタントと異なり、戦争中も妥協せず、神の道を守り通したことは、特筆すべきことですが、しかし、これはこれ、それはそれです。
彼、中田重治は、アメリカの神学校(確かムーディ聖書学校)へ留学しており、彼の教理は彼独自のものというより、獣の国由来のものです。人の器の教えを優先せず、神のことばをあくまで優先するべきなのです。もし、神のことばを捨て去り、子牛を拝するなら、そこには大きな問題があることを知らなければなりません。
9.主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。
10.今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
この節を通して知らなければならないことは、子牛礼拝、偶像礼拝、器礼拝に対する神の怒りが非常に大きなものだということです。
神はこの子牛礼拝の民に対して、まあ、しょうがない、長い目で見ようとは言いませんでした。逆に、「わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。」と書かれています。
神の怒りが燃え上がり、彼等偶像を拝する者達が滅ぼされると書いてあるのです。私たちは、このことばを真面目に受け取り、神の怒りの深さを理解しなければなりません。
今はどういう時代でしょうか?偶像の時代であり、偶像礼拝、子牛礼拝の時代であることを理解すべきです。
リック・ジョイナー、ジョン・ウィンバー、ピーター・ワグナー、シンディ・ジェイコブス、また、ビリー・グラハム等、あらゆる種類の子牛が登場し、モーセの律法の板、すなわち、神のことばを破壊、冒涜すべく、あらゆる種類の逸脱した教えを行っていることを理解すべきです。
ビリー・グラハムは、自由主義者を自分のクルセードに受け入れることにより、「キリストの冒涜者」と手をつなぐこと、すなわち、福音的なクリスチャンが裏切ることを推進、加速させました。自由主義者とは、すなわち、復活はなかった、要するにナザレのイエスという人物は嘘八百のほら吹き男だったのだと語る冒涜の人々であり、ヨハネの手紙によれば、挨拶さえすべきではない人々なのです。関わりを持つべきではないのです。
しかし、聖書の教えより、子牛礼拝、すなわち、ビリー・グラハムへの忠誠を大事にする人々は、これらの公然たる冒涜を唯々諾々と受け入れていきます。ビリー・グラハムという子牛を神のことばより、優先することにより、おかげさまでと言うか、めでたく、冒涜は福音派の隅々まで広がりました。
福音派の中心的な新聞、雑誌には、堂々と「キリストの復活を否定、疑問を抱かせる冒涜神学書」が大きく宣伝されています。皆でこぞって、裏切り、冒涜に荷担しているわけです。まことにめでたいというか、これは 私の皮肉であり、実際は嘆かわしいことです。さらに福音派の神学校では、シュバイツアーだの、バルトだのの冒涜的な神学を積極的に教えています。ここでも子牛様、ビリー・グラハム様にならい、裏切りに荷担しているわけです。
しかし、主に着く人々は、これらの冒涜、子牛礼拝、御言葉軽視のゆえに今、この民に神の怒りが下ろうとしていることを知るべきです。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-