サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第40章 律法学者とゲヘナ(2)
~かつての日の律法学者、パリサイ人たちへの警告は今の時代の説教者、牧師、奉仕者へ向けられたもの~
【テキスト】マタイの福音書23:18-26
18.また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
19.目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
20.ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
21.また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
22.天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
23.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
24.目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
25.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
26.目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
本日は、「律法学者とゲヘナ(2)」という題でメッセージします。
聖書は、明らかにイエスの時代の聖書の専門家である、律法学者、パリサイ人たちがゲヘナの火に投げ込まれることを述べています。彼らは説教の専門家であり、聖書の専門家、また、神に近い者として、尊敬されていたのですが、なんとイエスは、彼らがゲヘナに投げ込まれると語りました。
そして、それは主の言われたことなので、実現し、なんとこの時代の多くの律法学者、パリサイ人の中には、ゲヘナへ投げ込まれた人々のいたことが想像できるのです。神のことばを宣べ伝え、語り続け、その仕事で生涯を送りながら、なんとその報いはゲヘナの火に投げ込まれるということなのです。なんとこの働きは恐ろしい奉仕でしょうか。
そして、かつての日の律法学者、パリサイ人たちへの警告は明らかに今の時代の説教者、すなわち牧師、奉仕者へ向けられたものなのです。今の私たちは、このことを決して他人事と思ってはいけないのです。繰り返して忠告します。この奉仕を間違えるとき、その報いとして、ゲヘナの火に投げ込まれることがあり得るのです。このことを心にとどめ、上記テキストを見ていきましょう。
18.また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
19.目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
ここでの問題は、律法学者、パリサイ人の勘違い、とらえ間違いです。彼らは祭壇より、供え物のほうが大切だと思い違いをしていたのです。
このことにたとえがあるでしょうか。祭壇は今で言う神に捧げ物をする奉仕をする場としての教会のたとえでしょうか。供え物は今の奉仕者、神に捧げられた献身者のことでしょうか。
そこで今風に言うなら、この箇所では、行き過ぎた人間中心、器崇拝の危険について語っていると理解できます。
かつての日、律法学者、パリサイ人は、間違えを犯し、供え物を過度に重用視していました。今の教会も同じく、供え物中心、器中心なのです。
しかし、イエスは、「 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」と語りました。器を崇拝するあまり、行き過ぎることを戒めているように聞こえます。
今の教会は、器中心主義、働き尊重主義です。しかし、これらの供え物には、その分があるべきであり、それを超えた、過度な尊敬を受け過ぎるべきではありません。
たとえば、日本の福音派は、あの供え物、パウロ以来の最大の伝道者との触れ込みのビリー・グラハムをむやみに尊敬、重用視し、それこそ、聖書も神の教えも教会のあるべき姿もみんな捨てて後を追いかけてています。
ビリー・グラハム様が自由主義者と親しくすれば、イエスを冒涜し、イエスの復活はない、奇跡はない、こいつはただの詐欺師の大工だと言いたいかのごとき、あの敵、自由主義者どもを親しく迎え入れています。
また、ビリー・グラハム様が、カトリックには何も問題を感じないと言えば、愚かにも、あの悪霊マリヤの礼拝集団を喜んで受け入れ、すりすりして、エキュメニカルへ推進していきます。
これらの愚かな日本の福音派は、自分で考えたり、吟味することをせず、ただ、器が良いと言えば、思考停止し、ゲヘナでも背教でもどこへでもついていく愚か者の集団です。供え物を過剰に尊重しているのです。
彼らに少しでも自分で考える習慣があるなら、果たして、「キリストと共同のあがない主マリヤ」「聖四位一体」などとの異端教理を持つカトリックを受け入れるべきなのか、こんなおかしな教会に問題ないと言う、ビリー・グラハムはトンでもないまがい物ではないかと、少しは考えるはずです。
しかし、現状は、彼らはビリー・グラハム様様、エキュメニカル推進であり、何一つ見ていない、愚か者であることは明白です。
21.また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
神殿とは、その当時、神を礼拝していたところです。神殿は厳かであり、その場所は尊重されていました。皆、服装を整え、威儀をただし、恐れをもって神殿に仕え、参拝していたのです。この場所は、同じ建物でも、食堂やら、旅館やら、お店とは異なり、みな特別な尊敬と特別な意識をもって、接していました。
それは、たしかであります。しかし、そのため、その神殿に仕える人の中には、時々、勘違いを起こす人々がいました。あまりにも皆に尊敬されたり、敬われたりするので、自分が何様であるぞと勘違いする人々です。すなわち、祭司、レビ人、パリサイ人、律法学者たちです。
しかし、それらの勘違い人種に対して、主は、はっきりと、「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。」と言われました。
このことばの意味合いは何でしょう?
言わんとしていることは、なぜ神殿が尊いところなのか、特別な建物、特別な場所、また、そこに仕えている人々が特別に尊敬されるのかその由来です。
主ははっきりと、「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。」と言われました。言わんとしていること、結論はこういうことです。神殿が尊く扱われているその理由は、ただただその中に住まわれる方、神御自身の住まいだからということに尽きる、そう言っているのです。
皇居は日本の中で特別な場所であり、東京の中心、緑とお堀に囲まれた特別な場所です。しかし、その特殊性は、単に東京にあるから、また、緑がきれいだからというだけではありません。何と言っても皇居の特殊性は、日本で唯一の場所、万世一系の天皇の住まい、そのことに尽きるのです。
同じく神殿の特別な場所であるその理由は、神御自身の住まいである、それに尽きます。しかし、その神殿ももし、背教の場所となり、神を追い出し、イエスを追い出すようになるなら?その時は、意味のないもの、無用の長物として、破壊、滅ぼされるでしょう。
旧約の神殿の重要性とは、その程度のものであり、それを超えることはありえません。同じく、新約の神殿、教会の重要性もその程度のものです。はかりしれない重要性が神殿そのもの、教会そのものにあるわけではなく、神、また、イエスへの尊敬、礼拝に附随していわば、おこぼれで尊敬を受けているに過ぎないのです。もし、曲がった道を行くなら、神殿、教会も早晩、滅ぼされる運命にあります。このようなことばは極端ですか?
そんなことは、ありません。神はソロモンに対して、宮、神殿が投げ捨てられる日に関して、以下のように明言しています。
参照 Ⅰ列王記9:6-9
6.もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、
7.わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。
8.この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。
9.すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。』と言うようになる。」
また、主イエスも宮、神殿の崩壊の日に関して明確に預言しています。
参照 マタイの福音書24:1,2
1.イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
2.そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
このことばのように、主イエスを拒絶した宮は、ローマの攻撃の日に崩壊しました。また、宮で予表される教会も後の日、イエスを否定するため、いずれ崩壊します。
22.天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
天は、星にたとえられるアブラハムの子孫の住むところとしての教会のたとえでしょうか。人は、天をさして誓います。なぜなら、天こそ不動のものであり、尊く、厳かなものだからです。それはたしかかもしれませんが、しかし、天の尊さは、ひとえに「神の御座」があるから、「そこに座しておられる方」神がおられるから、そうであるからなのです。
天そのものが単独で尊いというわけではないのです。このことは、あの勘違い集団、惑わされた異端派キリスト教、愚かな法皇に導かれている勘違いカトリックがよくよく理解すべき事柄です。
彼らは異常に教会を偏重しています。法皇無原罪、マリヤ無原罪、マリヤ被昇天などのあらゆる教理を教会が出した教理には間違いがないとの屁理屈により、信者に強制しています。異常に教会に重きを置くのですが、しかし、その範囲は聖書の教えを逸脱しています。教会の範囲、それが尊ばれる範囲とはどこまでなのでしょうか?
それは、「天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」とのことばの中に如実にあらわれています。
天、すなわち、教会の尊さはそこに座しておられる方がいるから、尊い、それに尽きるのです。しかし、もし、その天がそこに座しておられる方を否定し、逆に悪霊マリヤ崇拝などを推賞しだしたら?早晩、この天は呪いの下に入ることが想像されます。
23.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
ここでは、十分の一をもれなく捧げているが、しかし、もっと大事なこと、正義もあわれみも誠実もおろそかにしている偽善の律法学者、パリサイ人たちへの非難が書かれています。
彼らの問題は何でしょう?それは、すなわち、偽善であるために、物事の軽重が判断できず、些細なことに異常な力点を置き、結果もっとも大事なことから目を離してしまうという問題です。
今の教会においても十分の一献金は大いに勧められています。このことは勿論悪いことではないのでしょうが、しかし、問題は、強調点を間違えてしまうことです。些細なことにあまりにも時間をかけ過ぎ、強調し過ぎ、エネルギーをかけ過ぎ、大事なことを理解するエネルギーが残っていません。または、牧師がどうでもいいことばっかりメッセージをして、もっとも大事なことに関して、ほとんどメッセージをしない、結果、神の民は、見当外れな歩みに入る、そういう問題があるのです。
主は、十分の一献金より、もっと大事なこととして、「正義、あわれみ。誠実」について語っています。このことをみてみましょう。
「正義」という日本語の訳は、勘違いしそうな訳です。このことばは、KJV訳で“Judgment”と訳されています。要するに裁きのことなのです。ここで主は偽善の律法学者、パリサイ人は神の裁きについて述べていないと非難しているのです。そしてこのことは、そのまま現在の教会の偽善聖書学者、偽善牧師に通じます。彼らは神の裁きについて述べていません。
この終末の日に背教の教会に裁きが来らんとしているのですが、このことを語る牧師、聖書学者は、私の知る限り、ほとんど皆無です。誰も彼も、耳ざわりの良いたわごとを語る偽預言者の道を突き進んでいます。
聖書は明らかに終末の教会が背教に入り、結果、あらゆる災いが教会に来ることを語っているのですが、偽善のゆえに盲目になった役立たずの牧師は、艱難時代の前に教会は挙げられるなどと聖書にもない、嘘教理をねつぞうし、根拠のない安心を信者に与えています。結果、今こそ教会は、また、クリスチャンは悔い改め、歩みをただすべき時なのですが、誰も歩みをただそうとしません。
盲目な勘違い牧師のゆえに正義、すなわち裁きは現代の教会のメッセージから、消え去ったのです。
「誠実」という日本語もまた、あまり適切な訳ではないように思えます。このことばの原語は、ピステス、信仰という意味合いがあります。だから、ここでは、大事な信仰について語らないと主は批判しているのです。
それで私たちもこのことばを真面目に考え、信仰について語ることを覚えましょう。教会は何といっても信仰の場所であり、信仰にある歩みこそ、クリスチャンの間で強調すべき事柄であることを覚えましょう。
24.目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
このことばの意味合いは何でしょう?
言わんとしていることは、どうでもいいことを守ることに力を用い、エネルギーを費やし、汲々とし、結果、もっとも大事なことを見逃してしまう、そう言っているのです。
そしてこれは、教会においても往々にしてあることなのです。今のキリスト教会はどうでもいいこと、大して重要ではないことに大きな時間を費やし、結果、大事なことを考えるエネルギーは残っていません。
靖国反対だとか、クリスマスの劇がどうだとか、そんなことばかり話し合っており、大きなこと、大事なこと、すなわち、今のキリスト教会を覆おうとしている、背教の嵐、聖書改ざん、エキュメニカル運動の推進、そういったことには関心がないようです。
「目の見えぬ手引きども」とはよく言ったものです。今の時代、大きな問題は、手引きである教会の指導者の目が見えないということであることをよくよく知るべきです。
トロント、ペンサコーラリバイバルの霊は本当に神からの霊なのか?人を獣のようにさせる霊が本当に神から来るものなのか?この霊が悪霊に過ぎないことは、目の開かれた人なら分かるはずのことなのですが、しかし、見えない牧師が多いです。
聖書が益々改ざんされるこの時代をどうとらえるべきなのか?この時代は明らかに終末の様相を呈しているのですが、しかし、時代を見ることのできない牧師も多いようです。
目の見えぬ手引きどもに引かれる教会は危険であり、せっかく礼拝に行ってもどうでもいいことばかり、聞かされ、今の時代においてもっとも大事なことを教えられない危険性があるのです。
25.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
26.目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
ここでは、「杯や皿の外側は」きよめるが、「その中は強奪と放縦でいっぱい」の偽善の律法学者、パリサイ人たちについて語っています。
このことの意味合いは何でしょう?私の理解では、人の見るところのみ、良くしようとする、偽善と思えます。
今の時代のキリスト教会の一つのキーワードは偽善であることを知るべきです。教会や聖会でのもっとらしい言い回しやら、丁寧なことばのみに力点が置かれています。真に大事なことには目が行きません。
結果、見える形のみに力点を置き、真に深刻な問題を理解できません。たとえば、あの愚かな勘違い女、マザーテレサの異端信仰を偽善なカトリック信者ども、盲目なプロテスタント偽善信者どもは何一つ理解できません。また、その深刻さを理解できません。
この女は、マリヤを聖四位一体の位置に置こうなどと言う異端教理を振りかざし、また、ヒンズー教徒は、死ぬ時もクリスチャンになる必要は無いなどと勘違いしたことを語っているのですが、悲しいかな、偽善カトリックには、これらの異端信仰の深刻な問題が見えません。
彼らは偽善者、善であるふりをしている役者に過ぎず、実際には、善も真理も持ち合わせていないので、この問題を真に理解できないのです。
しかし、このことには、御心がありません。かつての日、偽善の律法学者パリサイ人がゲヘナの火を免れなかったように、現代の偽善、教師、牧師、神父の前には、ゲヘナが確定済みの指定席として待っていることをよく覚えましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-