サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第42章 “救い”ということばについて
~私たちが救われなかったら、イエスを信じなかったなら、永遠の命を失い、結果、永遠の滅びに渡される~
【テキスト】マタイの福音書1:21
21.マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
本日は、「救いと言うことばについて」という題でメッセージをします。このことばに関して少し考えてみたいと思うのです。
私たちクリスチャンがキリストを信じる時、そのことを教会用語で、「救われた」と言います。「救い」ということばは、キリスト教においてのみ言われる独特な表現です。他の宗教では、信じるとか、信者になるとは言うとしてもそのことをさして、特別なことば、救いを使ったりはしないからです。
私たちクリスチャンにとり、「救い」ということばはあまりにも身近なことばではありますが、しかし、このことばの意味合いを改めて考えてみたい、そう思っているのです。
他の箇所でこのことば、「救い」はどう使われているのでしょう。この「救い」と言うことばは、ギリシャ語は以下の箇所でも使われています。
参照 マタイの福音書8:25
25.弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。<助けて>ください。私たちはおぼれそうです。」
上記、「助けて」ということばが「救い」と同じことばなのです。このことを通して、「救い」ということばに関して少し示唆があると思えます。神は我々クリスチャンがキリストを信じた時、ただ単に「信じた」「信者となった」とのみは語らず、逆に「救い」ということばをもって、このことを指し示します。このことについて考えると、その意味合いが分かってくるということなのです。
この箇所は、弟子たちが海が荒れて、命の危険があるかという時、キリストに助けを求めたその箇所です。
その時、弟子たちは、「助けてください(救ってください)」と願ったのです。このことは、救いと言う言葉を理解する助けとなります。救い、その意味合いは、私たちの命を救うという意味があるのです。
救いを必要とするのは、この弟子たちのように、命の危険がある、溺れたり、船が転覆したり、危険な状況にある人々です。私たちは海で溺れることはないかもしれませんが、しかし、その状態は誰でも、救いが必要なものです。
救いとは命を得ることですが、その命を得ることは、永遠の命を得ることに通じます。そして、永遠の命を得ることは、永遠の滅び、刑罰に渡されることの反対のことばです。何を言っているのかと言うと、もし私たちが救われなかったら、イエスを信じなかったなら、明らかに命、永遠の命を失い、結果、永遠の滅びに渡される、そのことを言っているのです。このこと、救われるということは、今の世ではあまりありがたみがないかもしれませんが、しかし、後の世、次の世において、そのことの大変な意味合いが理解できるようになるでしょう。
命のありがたさ、救われたことのありがたさが分かるのは、大きな滅びを目にした時です。原爆は、日本における恐るべき悲劇であり、これにより、30万人もの人が死にました。こんな話を聞きました。さて、その原爆が落ちたその日、ある人が工場へ出かける予定でした。その工場は、爆心地にあり、その日、原爆が落ちた日、工場勤務の他の人々は、皆、死んだり、負傷をしました。しかし、その日、その人はある理由で工場へ出かけなかったということです。結果、彼はその災害を免れたとのことです。
彼はその現場へ後で行き、その惨状に息を飲んだということです。彼はぴんぴんとしており、彼の体は健康で無傷なのですが、他の人は焼け焦げたり、死体になって転げていたのです。災害から、救われるということと、そうでなく命を失うこととの間には、かくのごとく大きな区分があるのです。
こんな例は良い例かどうか分かりませんが、私たちの救いも同じなのです。私たちが救われたという時、それは、永遠の命に入ることなのですが、しかし、今の時においては、その真価は、あまりはっきりと分からないかもしれません。しかし、後の日に多くの人が火の裁き、刑罰に会う時、それを間近に見る時、私たちはその真の意味合いが分かるでしょう。滅びから、免れ、「救われた」ということの真の意味合いを。
さて、このことは、聖書の神にとり自明のことであり、そして、サタンにとっても自明なのです。しかし、「始めから人殺し」であるサタンは、人に命を与えないため、永遠の命を与えないため、逆に永遠の滅びに至らせるため、あらゆる画策、妨害、すりかえ、惑わしを行っていることを理解すべきです。
エデンの園で、エバを惑わし、命の木、すなわち永遠の命から遠ざけた時以来、彼、サタンの全ての行い、方法、努力は「人殺し」として、人に永遠の命を与えないことに費やされていることを知りましょう。
彼は肉体の命を人から得ることに大きな力を費やしますが、それだけでなく、永遠の命を人から遠ざけ、滅びに多くの人を送り込むために多大な努力をしているのです。
彼の方法は色々ありますが、その1つは、聖書をねじ曲げ、地獄なんか存在しないと思わせることです。だまされた人は、死後、やっぱり聖書の記述は本物だった、本当に地獄は存在していたのだと、ハデスの火の中で理解するわけです。あの「金持ちとラザロ」の金持ちのように。ローマ・カトリックは、さかんに地獄は実際には存在しないと語っています。そんな嘘つき神父やら、法皇のことばを優先し、聖書を投げ捨てた愚かなカトリック信徒どもは地獄に行って始めて「あら本当に存在していたんだ」と気が付くわけです。本当に愚かです。
その2は、地獄の存在を否定しない人には、あなたはそこに入る可能性はないとして、根拠のない安心を与える方法です。カトリックの言う煉獄やら、セカンドチャンスの教えはこの手の嘘です。現世でしゃかりきに天国へ入るべく力を尽くさなくても大丈夫、次の世でも、まだまだチャンスがあるからと何らの根拠の無い安心を人々に与えているのです。結果、だまされた人は、この世ではすっかり、世的になり、罪にどっぷりとつかり、死後、ハデスの火に直行します。
主はそんな考えを否定し、この世において我々が力を尽くして命、永遠の命に入るよう、努めることを勧めました。
さて、旧約においてこの「救い」ということばは、どのように使われているのでしょう。
参照 出エジプト記1:22
22.また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」
ここでは、エジプト王パロがヘブル人の生まれた子のうち、男の子は、ナイルに投げ込み殺し、しかし、女の子は、生かす(救う)ことを語っています。ですから、救いとは命を救うことなのです。肉体の命を救う、また、死後の裁きにおいて、永遠の滅びから救われたということなのです。
そして、繰り返すようですが、救いの本当の意味合いは、滅びや刑罰のことを真に知らない限り、正しくは理解できないでしょう。私がこどもの頃、学校へ行くと何しろ、平和ということばがよく言われました。平和憲法だとか、平和社会とか、よく言われていたのです。しかし、平和とは子供にとって、抽象的なことばであり、正直よく実感できませんでした。それは、私が戦後に生まれた、いわゆる戦争を知らないこどもたちだったからかもしれません。平和の反対語は、戦争であり、戦争を知らない人にはその反対のことば、戦争がない状態を現す平和ということばは実感できないのです。
しかし、戦争を経験した人々にはこのことばは、戦争のない状態として、大いに理解できることばなのです。毎日空襲警報に脅かされた生活をした人々にとり、また空襲により焼け出され、家を失い、父母を失い、何とか逃げ延びたこどもにとって、平和すなわち、もう戦争の災いに会わない日として、大いに理解できるのです。
聖書を書かれた神は私たちクリスチャンがキリストを信じることを信者になる、クリスチャンになるという表現より、むしろ「救われた」ということばで表現しました。救われたとは災い、滅びから救われた、免れたという意味合いであり、私たちクリスチャンは死後、神を受け入れない人々に下される恐るべき刑罰を理解しない限り、このことばの真の意味合いは理解できないのです。
しかし、終末の日はこの大事なことばを忘れ、救いをないがしろにし、結果、恐るべき刑罰へ自ら入っていく愚かな人々の続出する日、このことをもとらえましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-