サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第54章 岩の上に教会を建てる
~私たちが神の教会を建て上げようと志すなら、弟子の建て上げに力を尽くす、そこにポイントがある~
【テキスト】マタイの福音書16:18,19
18.ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
19.わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
本日は、「岩の上に教会を建てる」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ます。
18.ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
建物としての教会を建てる時、その土台が大事なのですが、それをここでは、主はペテロであると言いました。この箇所を愚かなカソリック教徒は勘違いして、12使徒のペテロが特別な存在であり、ペテロの後継者である、代々の法皇が教会のトップである等と言いますが、トンでも無い曲解、誤った解釈です。
主が真に言わんとしたことはこういうことです。ペテロとは12弟子の筆頭であり、弟子の歩みに関して言われたのです。
その弟子は、ペテロ(石)であり、また岩なのです。だから、言わんとしていることは、教会という建物は弟子の歩みと言う石や岩の上に建て上げられるべきであるということです。
もっとつっこんで言うなら、群集、すなわち砂の上に教会など建てたら、いずれ、崩壊するぞ、主の方法はそのような方法では無い、そうも言えます。
実際、砂の上に家を建て、群集、会衆の意見やら、考えを尊重して、結果、ズレたり、崩壊してしまった教会はいくつもあります。教会総会、役員会やら、意見が紛糾して、収拾がつかなくなるのです。かつて、左翼華やかなりし頃の日キの総会が群集の意見で荒れていたことは有名です。
ですから、もし、そうなら、私たちが教会を建てようとするとき、気にすべき強調点が分かります。
それは、主の弟子を建て上げる、そこに強調を置くのです。
間違っても群集を沢山集めることでは無いのです。実際、主のされたこともやはり、そのこと、弟子の建て上げでした。
主の3年半の公生涯の中で、いくつもの働きがあります。宣教、癒し、悪霊の追い出し等。しかし、その中で、特筆的に顕著なのは、主が弟子を訓練し、建て上げたことです。悪霊の追い出し、宣教、また、人々にパンを与える5000人の給食等を弟子に行わせ、ことごとく、主は弟子を訓練したことを見ることが出来ます。福音書はそのような記述で溢れています。
主は明らかに弟子を意識し、選別し、特別に訓練しました。その結果、はじめは、ただの魚を取る漁師に過ぎなかったペテロ、ヨハネたちは、3年半後、堂々たる弟子として立ち上がりました。あのペンテコステの日のペテロの説教、一日で3000人をも回心させたメッセージは、この訓練の賜物だったのです。
かつては神の言葉やメッセージに関して、全くの素人だった人が今は大クルセードをこなしているようなものです。
主のその公生涯は、いわば教会という建物の土台である岩つくり、弟子つくりに多くの時間、労力を割いたことが分かるのです。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」
主は砂、すなわち群集ではなく、岩、すなわち弟子の上にその教会を建てました。
それで、私たちが、主の教会を建て上げるというとき、弟子が建て上げられるかどうかが、大きな差となることが分かります。
主のされたように弟子の歩みを志す人と共に訓練すること、それが大事と思われます。本当はこういうことは、もっと早くから、悟るべきなのでしょうが、私はあまり、早くは悟れませんでした。しかし、今は理解したので、遅ればせながら、主の弟子を志す人々と共に教会で訓練しています。
「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
これは、どういう意味なのでしょうか?
ハデスとは、すなわち、地獄のことです。地獄は門を開け、口を開け、罪人を待っているわけです。教会によっては、ハデスの門に勝つことの出来ない教会もあるかも知れません。特に反キリストが擁立して艱難時代が始まった後は、多くの教会が倒され、崩壊し、ハデスの門に屈服するようになるでしょう。これらの教会が問題なく建っていたのは、平時であり、艱難も、地震も、揺るがしも洪水も無いときだったので、辛うじて建っていたに過ぎないのです。
しかし、岩の上に建てられた教会、弟子の歩みに基礎を置く教会は、その困難、艱難を経ても、倒されることなく、ハデス、地獄の門に打ち勝つようになるでしょう。
そうです、艱難時代が近い、今こそ、弟子による歩み、岩の上に教会を建て上げるべき時なのです。
19.わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
この箇所を見ていきましょう。
まず、天の御国とは、どこか考えましょう。天の御国に関しては以下にも記されています。
参照 マタイの福音書5:10
10.「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
この箇所を見た限り、明らかに天の御国とは、我々が入るべき、天国であることが分かります。ですから、弟子に天の御国の鍵が与えられたということは、もっと分かりやすくすると、弟子こそが、ある意味、誰が天の御国に入るか、入らないか、という生殺与奪の権を与えられたということが言えます。
このことは、以下の記述で、はっきりと理解出来ます。
参照 使徒の働き5:1-11
1.ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
2.妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
3.そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
4.それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5.アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
6.青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
7.三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。
8.ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。
9.そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
10.すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
11.そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
このペテロによって、行われたアナニヤ、サッピラに対する処分は、非常に厳しいものにも思えますが、主の言われた岩、ペテロに対する、「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」との言葉と符合します。
今の時代でも、このこと、誰が御国に入るか、入らないかの鍵はペテロの後継者である、弟子のうちに任されていることを知りましょう。このことは本当です。
更に「つなぐ」「解く」という言葉を考えてみましょう。この言葉は以下でも使われています。
参照 ルカの福音書13:16
16.この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
ここで書かれているのは、サタンにより、縛られる=つながれる、そして、そのサタンの束縛から解かれることについてです。
ですから、言わんとしていることは、岩、ペテロ、弟子の働きにより、サタンの霊的な縛りから、解放することが出来る、そのことだと理解出来ます。
まとめますが、私たちが神の教会を建て上げようと志すなら、それは尊いことですが、その場合、何はともあれ、弟子の建て上げに力を尽くす、そこにポイントがあることを知りましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-