サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第55章 真理に属する者
~終末には、真理に聞き従う人とそれを拒否する人の区分が起きる。その結果は、永遠の命と光栄、他方は死と裁き~
【テキスト】ヨハネの福音書18:37
37.そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
本日は「真理に属する者」として、メッセージしたいと思います。テキストに沿ってみていきたいと思います。
「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。」
真理のあかしをする、真理の証言をするため、主はこの世に来られたと語られました。主がこのように語られたと言うことは逆にこの時代、イエスの時代には、真理が消え失せた時代だったということが想像されます。
私が子供の頃、給水車が町にやってきたことがあります。水を供給してくれる車です。何でわざわざ、車で水を持って来てくれたかと言うと、水道が、断水してみな水に困っていたからです。給水車は、水の無い所に出動するものなのです。
イエスの時代の多くの人々は皆、真理から外れた歩みをしていました。なぜなら、聖書の真理を教えるはずの指導者である、律法学者、パリサイ人などが、以下のように真理から、かけ離れた生活をしていたからです。
参照 マタイの福音書23:1-35
1.そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
2.こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
3.ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
4.また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
5.彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
6.また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
7.広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
8.しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
9.あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
10.また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
11.あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
12.だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
13.しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
14.〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕
15.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
16.忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
17.愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
18.また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
19.目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
20.ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
21.また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
22.天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
23.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
24.目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
25.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
26.目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
27.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
28.あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
29.忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
30.『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。
31.こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
32.あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
33.おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
34.だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
35.それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。
彼ら偽善である、律法学者、パリサイ人たちは、永遠の命へ導くはずの聖書を教えて民衆を何とゲヘナ、地獄へ導く教えを行っているのです。
180度、異なる教え、神が、聖書が、目指す方向と全く逆の方向へ民を導いていたのです。まさしく真理は消え失せていたことが分かるのです。そして、それゆえ主は来られたのです。
さて、イエスの時代に起きたことは、終末の時代の型と理解出来ます。すなわち、終末の日にも真理が消え失せることがあり得ると思えるのです。
そして、このことはたしかであり、今のキリスト教会で広まっている多くの教えは、天の御国ではなく、地獄へ人々を導くために用いられています。
たとえば、ローマカトリックで言われる地獄は無いという教え、これは、人々を見事に地獄へ引きずり込むのに用いられます。
地獄は無いと聞いた人々は皆、罪を犯すことに何の恐れもなくなり、無軌道に罪に陥っていきます。結果、皆、地獄へ行き、そこで泣き、歯噛みするようになります。
また、愚かにも艱難前携挙説、2段階携挙説を信じる、盲人教師により、めでたくもクリスチャンは、もう艱難時代に備える必要が無くなりました。キリストの言った、艱難の日の備えの言葉など、みんな、すっ飛ばして無視してよいことになったのです。
しかし、それは本当か?艱難の前、もしくは中にキリストが来る、すなわちキリストが2度に渡って再臨するということを支持する聖書の箇所は皆無です。それゆえ、パウロの時もルターの時にも、キリストが2回にわたって再臨すると信じていた人は皆無です。実は、それは、今からほんの1-2世紀前に作り出された終末異端教理なのです。
しかし、真理の消え失せた現代の教会においては、大いに、もてはやされているのです。
さて、かつての時代、主イエスは、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。」と明確に語りました。あたかも水が断水した町に給水車が来るように、無医村の村に医者が来るように、はたまた火事の場所に消防車が来るように、主は真理の消え失せた時代に真理を語りにやって来られたのです。
そして、その真理は無駄にならず、ペテロ、ヨハネたちを通して受け継がれ、神の民は多くの真理に溢れるようになったのです。
さて、かつて起きたことは今の時代に、終末の時代に再現すると思われます。何を言っているのかと言うと、今の時代、真理が消え失せた時代にも「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。」という人々が現れてくるはずだからです。
具体的には多くの終末の嘘話に異を唱える人々が現れてくるはずです。
艱難前だの、2段階携挙説に関して異を唱え真理を明らかにする人々が現れるはずです。はたまたヨーロッパに反キリストが起きるとの盲人教理に異を唱える人々も現れるはずです。なぜなら、明らかに終末の獣の国はアメリカだからです。
それ以外にも多くの嘘教理、偽り教理に異を唱え、真理を語る人々が現れるはずです。
多くの嘘教理、偽り教理?すなわち、セカンドチャンスやら、クリスチャンと名が付けば決して救いから漏れることは無いというヨタ教理、その他です。
これらの偽り教理に異を唱える人々が現れるはずなのです。
「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
この時、主は、神の民が2分され、真理に属する者は、イエスの声に聞き従うこと、しかし、真理に属さない人々はイエスの声に聞き従いはしないことを語りました。
このことはこの時代、文字通り実現しました。ペテロ、ヨハネの12弟子を始めとする、真理に属する人々は、これこそ真理であると理解し、イエスの声に聞き従ったのです。
彼らは弟子となり、偽りの教理、惑わしの教理ではなく、真理の御言葉を宣べ伝えたのです。
しかし、真理に属さない律法学者やら、パリサイ人らは、イエスに聞き従うことはせず、逆にイエスの教えをカルト扱いして、裁きに入りました。
同じことは終末の日にも再現することを覚えましょう。
今はどんな時代なのか?それは、教会が惑わされ、真理から遠い世界へ行ってしまい、正統派であろうとなかろうと、あらゆる教会が真理から外れてしまった時代なのです。
彼らが正統教理、柱となる教理と思い込み、後生大事に抱きかかえている教えが、もうすでに間違っており、真理からズレています。
キリストが艱難の前だの中に来るという2段階携挙説が既に異端教理です。また、ヨーロッパに政治指導者として、反キリストが立つという教えも聖書から、かけ離れた異端教理です。
はたまた、行いは不要とでも言いたいかのような福音の総合理解も異端教理です。
かつての日、おかしな教えをおかしいとも思わず過ごしていた神の民に朗報があり、主イエスが来られ、真理を伝えました。異端教理の間違いを糺したのです。終末の日にも同じことが起きるでしょう。真理を見た人々が現れ、現代の教会の隅々まで行き渡った異端教理を糾すようになるでしょう。
しかし、問題は、その声に聞き従うか、真理に聞き従うかどうかです。神がこの時代に対して正しく真理を、もし、示して下さるのなら、必ず今の時代を糺す教えは起きてくるはずなのです。
問題は今の時代のクリスチャンが正しく真理に聞き従うかどうかです。
たとえば、レフトビハインドのいう艱難前携挙説を始めとした終末ストーリーは、滅びをもたらす異端の教理です。ですから艱難前、2段階携挙説は異端終末教理であり、その誤りを糺す人々が現れるでしょう。しかし、問題は、その語る真理に聞き従うかどうかです。
また、聖書はアメリカこそ終末の獣の国であることを宣べます。
その真理、アメリカこそ、終末の獣の国であることを宣べ伝える人々が現れるでしょう。しかし、問題は、その様な教理がたとえ伝統的な解釈とは異なる教理であっても、それが真理なら、聞き従うのかどうかということです。
どちらにしなければならないという強制は無いでしょう。
しかし、必ず区分はあるでしょう。かつての日、イエスの時代には真理に聞き従う人、またそれを拒否する人とでは、全く結末が異なり、結論が異なりました。両者の結末は全く違うものとなったのです。片方は命、永遠の命と光栄に入り、他方は死と裁きと恥辱に入りました。
同じ区分が終末の日にも起きることを知りましょう。真理を受け入れるかどうかは、厳粛な区分をもたらすのです。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-