サマリヤの女
カトリックへの警告!!
第59章 神のことばを投げ捨てて食卓に仕える
~聖書で明確に記載されている地獄に関して、それはないと述べることは、会衆の食卓を優先し、神のことばを捨て去り、無視する歩みである~
【テキスト】使徒の働き6:1,2
1.そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
2.そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
本日は、「神のことばを投げ捨てて食卓に仕える」という題でメッセージをします。テキストに沿ってみていきます。
1.そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
この日、食卓のことに関して苦情が出ました。この苦情に対応する必要があります。食卓は、パンや水を飲むところ、御言葉を受け、聖霊の働きのある、礼拝のたとえです。
2.そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
ここで、12使徒たちは、「神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくない」と語っています。
このことばは語りかけのあることばです。
なぜなら、多くの礼拝、食卓においては、肝心の神のことばが後回しにされ、捨てられた状態で、礼拝をもたれることがあるからです。
教会の礼拝は、神のことばを拝聴するため、御言葉をいただくため、そんな建て前がありはするものの、多くの食卓、礼拝においては、実質、神のことばは、後回しにされ、捨てられています。
逆に牧師は、礼拝(サービス)を行うサービスマンみたいになって、食卓、すなわち会衆へのサービスに勤しんでいます。
そんなことを書くと言いがかりのように聞こえますが、そうでもありません。
会衆が終末の時代に艱難に会うのが嫌だと言えば、会衆、食卓に合わせて、もっと味の良い料理を一般受けするパンをとばかり、クリスチャンは艱難に会わないというヨタ教理、艱難前、2段階携挙説などを持ってきて、食卓の用に供しています。
結果、会衆一同は、こいつはうまいパンだと大喜びです。
さらに死後裁きに会わない、地獄は無い、なんて教えもカトリックでは花盛りです。また、プロテスタントでは、イスカリオテのユダも救われるとする、セカンドチャンスも大人気です。
これらは堅いところの無いお粥みたいな教えであり、会衆の食卓には人気です。しかし、聖書で明確に記載されている地獄に関して、それは無いと述べることは、会衆の食卓を優先し、神のことばを捨て去り、無視する歩みであることを知りましょう。
終末における主の御心をおこないましょう。
-以上-