サマリヤの女

 カトリックへの警告!!

 

第62章 安息日(2)

 

~私たちが自分の手を降ろさず、休まないということは、事を行う神を信頼しないことであり、これが不信である~

 

【テキスト】へブル人への手紙4:111

1.こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

2.福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

3.信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

4.というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

5.そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

6.こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

7.神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

8.もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

9.したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

10.神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

11.ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

(KJV)

1. Let us therefore fear, lest, a promise being left us of entering into his rest, any of you should seem to come short of it.

2. For unto us was the gospel preached, as well as unto them: but the word preached did not profit them, not being mixed with faith in them that heard it.

3. For we which have believed do enter into rest, as he said, As I have sworn in my wrath, if they shall enter into my rest: although the works were finished from the foundation of the world.

4. For he spake in a certain place of the seventh day on this wise, And God did rest the seventh day from all his works.

5. And in this place again, If they shall enter into my rest.

6. Seeing therefore it remaineth that some must enter therein, and they to whom it was first preached entered not in because of unbelief:

7. Again, he limiteth a certain day, saying in David, To day, after so long a time; as it is said, To day if ye will hear his voice, harden not your hearts.

8. For if Jesus had given them rest, then would he not afterward have spoken of another day.

9. There remaineth therefore a rest to the people of God.

10. For he that is entered into his rest, he also hath ceased from his own works, as God did from his.

11. Let us labour therefore to enter into that rest, lest any man fall after the same example of unbelief.

 

 

本日は「安息日(2)」として、この件をさらにみていきたいと思います。テキストに沿ってみていきます。

 

1.こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

 

神の安息に入ることが強調されています。「神の安息にはいるための約束はまだ残っている」ことが語られています。神の約束の地、安息の地に入ることは、旧約の時代ですでに終わったことではなく、今の時代の我々に関係があることを語っているのです。この約束は、今でも新約において残っており、というより、今こそ、神の安息に入ることが大事な時のです。

 

「万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」

 

万が一という時、やはり残念ながら、この安息に入れない人もいるのです。

 

2.福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

ある人は安息のことを聞きます。すなわち、神が7日目に休んだように我々も休むこと、安息日には何のわざをもしないこと、すなわち神が一切をして下さるので、我々が行いをすすめるべきでない、全ての行い、わざを休むことを聞くのです。同じことを全ての人が聞くのですが、しかし、聞いている人々の間に区分ができます。

 

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。」

 

全ての人は、キリストが我々の義となるという福音、御言葉を聞きました。しかし、ある人にとっては、そのことばが益になり、その身に実現します。しかし、ある人々の上には、実現されず、益にもなりません。なぜか?

 

「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」

 

それは、御言葉を聞いても、信仰を持ったか持たないかの違いなのです。さて、それでは、その信仰を持つ、持たないとは、具体的に安息とどういう関係があるのか?それはこういうことではないかと私は思います。たとえば、義に関して、です。ある人はキリストが我々の義となるということばを聞いても、それに安息せず、自分の行いに走ります。

 

カトリックがそうであるように懺悔や、行いに走ります。また、ホーリネス系がそうであるように、人前で罪を告白しないと、許されないということで、そのことを何とか実践しようと四苦八苦します。これは何かと言うと行いであり、安息日の教え、安息日には、何のわざをもしてはならない、何の行いをもしてはならないとの教えに背いているのです。

 

さて、もう一種類の人々がいます。それらの自分の行いに頼らず、進まず、しかし、安息日の原則、何のわざをもしない、行わないという原則を守っている人々です。そして、ただ、神がキリストが自分の内に成して下さるわざに期待するのです。彼らは神の約束の成就を見ます。

 

3.信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

 

信じた私たちは安息に入る、と記されたように、安息すること、何の行いをも私たちの方で行わないことが、すなわち安息なのです。なぜなら、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」とあるように、神の働き、わざはすでに成されているからです。

 

 

4.というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

 

今の時は、聖書的に何日目なのかということを考えましょう。今は何日目か?創造以来1日目か?2日目か?このことに関して、以下のように聖書は書きます。

 

参照 創世記2:1-3

1.こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

2.それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

3.神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 

今はこの創造の記述から考えると、何と7日目、安息の日なのです。そして、天地の創造のわざがすでに終わった日なのです。さて、この天地ということばには、たとえが含まれています。天地は、アブラハムの子孫が住むところとして、教会のたとえです。そして、天地創造のわざがすでに終わったということは、もっと詳しく考えると何を意味しているのでしょうか?

 

言わんとしていることは、あらゆる教会における奉仕、行い、わざはすでに完了している、そう語っているのです。

 

しかし、ここに現実とのギャップがあります。天地の創造のわざが終わった、もう教会建造のわざが終わった、全ての奉仕も、行いも終わったと言っても、我々の目には、まだ教会は完成していないし、まだまだ、奉仕は完成していないように見えるのです。一体このギャップをどう考えればよいのか?

 

答えはこんなことになるでしょうか。我々の認識と神のことばが異なるなら、神のことばが正しいのである、我々の信仰を神のことばに合わせなければならない、そんなことでしょうか。

 

ヘブル人への手紙では、信仰に関して暗示的にこう定義しています。

 

参照 ヘブル人への手紙11: 1

1.信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

見えないものを確信すること、それが信仰なのです。神が天地の創造のわざをすでに終えたといっても、私たちには何も見えず、行いに走りがちなのですが、それを信じるのが信仰なのです。

 

癒しのわざも、そして私たちのあの奉仕も、この働きも神の前にはすでに完成しています。問題は我々がそれを信じることです。

 

5.そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

 

わざ、行いのことと関連して安息のことが書かれています。

 

6.こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順(KJV:不信仰)のゆえにはいれなかったのですから、

7.神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

 

ここでは、安息に入るべきなのに入れない人がいること、そして、その理由は不信仰だからということが書かれています。

 

私たちは安息日を守るべきであり、安息に入るべきなのですが、その際、もっとも大きな問題は不信仰であることを知るべきです。なぜ、安息日には何の仕事もするな、すなわち何のわざをも神の前にすべきでないと言われているのに、行いに走ってしまうのか?その理由は不信仰のためなのです。

 

不信仰にならず、何のわざをもしないとはどういうことでしょう?具体的な例をあげましょう。ある人がある深刻な病にかかったとします。それで、そのために祈ります。断食をして長い間祈るのですが、なんとしても癒されません。そんな時、彼は神の語りかけを受け、安息を持つこと、全ての手のわざをやめ、神に頼ることを教えられたのです。彼がその病のため、自分のわざの全てをやめ、しかし、神に頼っていった、その時、その病は癒されていきました。

 

このようにして、私たちは自分の手のわざを休み、主に頼り、安息を持つべきなのです。不信仰のゆえに、安息し切れず、神を信じることのできない状態にとどまるべきではありません。

 

8.もしヨシュア(イエスKJV)が彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

9.したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

 

ここでは安息日の休みが、まだ残っていることが書かれています。安息日の約束はあるのに、実際にその休みに入っていない神の民がいるのです。

 

10.神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

 

神の安息に入った人、これがクリスチャンの理想なのですが、その特徴は、自分のわざを終え、休むことです。なぜなら、主に働いてもらうためには、自分のわざを終えるしかないからです。そして、行う人、自分のわざを終えない人、それが不信の人なのです。

 

私たちが自分の手を降ろさず、休まないということは、事を行う神を信頼しないことであり、それは、不信なのです。

 

11.ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順(不信)の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

かつての日、落後してしまった神の民の特徴は、不信でした。安息すべき日、安息すべきこと、何のわざをもなすべきでない時に行いをすること、それが不信なのです。

 

私たちは神に信頼し、安息することを学ばなければなりません。

 

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

-以上-